八月十一日
あの後私は遊廓に戻り、何事もなかったかのように振る舞った。
結局、小夏の着物が陸に漂着しているのが発見され、更に遊廓の厨房から包丁が一本抜き取られていたことから、小夏は「遊廓で心を病み、自殺した」ということになったのだった。発見されたのは精神村の港だから、また浅海さんが何かをやったのかもしれない。私が最後に見た小夏の姿は長襦袢だけを着たとても扇情的なものだった。こうやって騒動を収める為、わざと着物を海に流したのだろう。
これで小夏の件は一件落着。本土に渡った小夏が無事かどうかはとても心配だが、それは私が知れることではない。私なんかより、浅海さんの方がよっぽど心配だろう。
遣り手婆は小夏の重い借金に頭を悩ませ、錦鯉は小夏が死んだとは思っていないようだった。未だにあれは逃げたんだと言っている。その証拠に、すぐに遊女だと分かって小夏が戻ってくると言っていた。実際、遊女自身は普通に振る舞っているつもりでも、その雰囲気で遊女だとバレてしまうことはあるらしい。幼い頃から遊廓で育てられると、例え晴れて自由の身になれたとしても、遊廓のこと以外は何も知らない為出戻りしたり、妾になったりするという。遊女を本妻にしたがるような男はあまりいないそうだ。
その点、小夏は普通の女の子という印象だった。他の遊女達に失礼な言い方だが、スレていないと思う。きっと、誰にもバレない……。
私は自分の部屋の襖にぴったり耳を付けて、聞き耳をたてていた。隣の父の部屋からはボソボソとした喋り声が聞こえてくる。誰かと話しているようだ。
「もうすぐ――――生贄――そろそろ――――」
父の声が途切れ途切れに聞こえる。
「出目金――――大丈夫でしょうか――あなたは――――」
女がそう言うと、それに対して父は短く何かを言い放った。それはまったく聞こえなかったが、ほんの少しだけ、襖と廊下と、更に襖を挟んだ父の部屋の空気が張り詰めた気がした。
しかしそれは数秒で、すぐに緊張の紐が切れたように空気が動き出す。女が部屋から出るようだ。
私はその場を動き、おそらく父の部屋から出る時には使わないであろう奥の方に行き、ざらざらした襖に指をかけ音を立てないようにそっと開いた。
予想通り、女は部屋の前方から出てきた。豪華な着物を着ている。遊女の誰か、それも部屋を持っている人気の遊女だろう。金色の金魚とあぶくが描かれた白い襖の隙間から、その真っ白な肌は唐突に出現した。私はその顔に見覚えがある。
何年も同じ家に住んでいた菊……そして、あの日の朝見てしまった朱文金の顔……。朱文金からは生気というものがとうてい感じられない。白い肌、痩せた体、不摂生と睡眠不足にも関わらずそれを感じさせない肌。触ったら冷たくて硬いんじゃないかと思う。そして、虚な目。
目は見えないらしい。私は朱文金が今すぐにでも振り向いて襲ってくるような気がしたが、そんなことはなく、無防備な背中を晒しながら廊下の奥に消えていくだけだった。階段を上る足音さえもしなかった。
ほっと胸を撫で下ろしたところで、さっきの話が気になってくる。「もうすぐ」「生贄」「出目金」……。今年はまだ蛇神様に生贄を捧げていないから、その話なのだろうか。そうだったとして、出目金になんの関係が? 聞こえたところだけを繋ぎ合わせると、生贄を出目金にするという話になってしまう。そんなことには絶対にならないだろう。出目金がこの遊廓で働いているのは、借金があるからだ。その借金がある状態で死なせたとして、遊廓には損しかない。
だからきっと、私が聞こえなかった所に何か隠されていたのだろう。
ここから先は、考えても仕方がない。私は他の遊女達の話が聞けないかと、別館を後にした。
本館に来ると、遊女達が数人で集まってひそひそ話していた。私が来ても気にする気配がないから、私や小夏のことではないのだろう。こういう時、大抵は本人が来るとちらちらと様子を伺う。
会話を盗み聞きした限りでは、こういうことらしい。
――昨晩、朱文金の部屋から情交の声がしたのに、同じ時間に遊廓の窓の外にいる朱文金が目撃されたという――。
ぞっとした。朱文金の生写し? それとも菊だろうか。
血が繋がっていないはずなのに瓜二つな朱文金と菊。その繋がりが見えない。
私がぼーっとしながら階段を降りていた、その時だった。肩に衝撃が走り、向こうから強く押し返される。
「またあんた?」
葦登だった。表情は一段と厳しい。
「す、すみません……」
今にも罵声が飛んできそうな様子の葦登の顔を見て、私はひらめいた。分からないことなら、聞いてしまえばいいんだ。
「あの、葦登さん、僕の兄って、なんて名前だったんですか?」
拍子抜けしたような顔をされる。それでもすぐに立ち直ると、
「あの男女ね……。宗治よ。あいつも坊ちゃんって呼ばれてたわ」
そう苦々しく吐き捨てたが、なぜかいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「いいこと教えてあげる。どうせ暇なんでしょ? そいつのことだから」
葦登と私で階段を引き返すと、二階にある葦登の部屋に通された。
「昔、この階の座敷から、出目金姐さんの母親が身投げ自殺をしたのよ。彼女もまた遊女だった。
……宗治は、その現場に居合わせていたわ。姐さんの母親は、何かを落とし、それを取るふりをして頭から落っこちたらしいの。居合わせたのが宗治だったからその時は事故だと言われたけれど、遊女達の中では宗治が殺したんじゃないかという憶測も飛び交っていたわ。でも六年後――私はその時は遊廓にいたのだけど――姐さん母親の、遺書が見つかった。内容は、自分の死は自殺だったということ。例え死ねなかったとしても、故意に落ちたわけじゃないことを証明する為に、宗治がいる時に身投げしたということ。遺書は宗治の部屋の箪笥の中にあったわ。そしてその年、宗治は殺された」
「こ、殺されたって! 湖に落ちたんじゃ……」
「そう思う? あたしはここでずっと見てきたから知っているけど、宗治に一番恨みを抱いているのは出目金姐さんよ。これがどういうことか分かる?」
「出目金さんが殺した……?」
葦登は無表情に頷くと、そっぽを向いてしまった。
「私はそう思っているわ。誰も知らないし、知ろうともしていないけど、それが事件の真相だと思う……。でも、証拠がないのだけど」
信じられない。確かに出目金が宗治に一番恨みを抱いているというのは分かる。でも、あの出目金が人を殺す所など想像すらできなかった。
「あんた、姐さんと仲がいいでしょ。あたしが言ったこと、姐さんに言う?」
黙って首を横に振る。葦登は興味を無くしたように俯いた。
「でも……葦登さん。なんでこんな話を僕にしたんですか?」
葦登は硝子のような冷たい瞳で私を捉えると、無感情に口を開いた。
「皆嫌いなの。だから誰が損したって面白いわ。あたしが嫌いなのはあなただけじゃない。それであたしが何か罰を喰らったとしても、どうだっていい」
そう言って笑っている。強がって嘘をついているようには、とても見えない。
「遊女達にこのことを聞いたらいいわ。そうしたらあたしが本当のことを言っているのが分かるし、誰が嘘つきか分かるでしょう。もしかしたらそれは過去の犯罪を隠そうとしている人かもしれないし、未来に行う犯罪に向けて策を練っている人かもしれない。あなたも憎まれる可能性がある立場なんだから、嘘つきを知っていて損はないはずよ」
言い終えると、さっさと私を追い出してしまった。
その晩、奈神村にいる両親と菊が死んだ。