八月九日
目が覚めた時、部屋には私一人だった。でも体……特に下半身に残る疲労感と、右手に残る包丁の感触が、行為を実際にあったものだと裏付けしている。まさか鮎があんなことをしてくるなんて思いもしなかった。
深夜、鮎は私の部屋に所謂夜這いをしに来た。私は鮎に起こされて朦朧としたままそれを受け入れて、事を終えた……はずである。その時に私は包丁を握らされたのだ。嫌なら殺して欲しいと……。
思わずあの妖艶な鮎を思い出して、ぞくっとする。
そういえば昨日、鮎が窓の外からこちらを覗いていなかったか。そう思って窓際に行くと、確かに窓の鍵が開いていた。鮎は廊下を通らず、窓から出たのだろう。もちろん外から鍵は閉められないから、鍵が開いていた……。
私が鍵を閉めた時、襖の向こうから「沸嗣様」と名前を呼ばれた。声からして竹地さんでも、鮎でもない。「どうぞ」そう言うと、すーっと襖が開く。そうして入ってきた赤前垂れのチズルに、衝撃的なことを告げられたのだった。
――鮎が、消えたと――。
鮎が消えた……。信じられない、そう思いたいのだが、私はそれを昨日のうちに感じていた気がする。鮎が夜這いしに来るだなんて、それがまず信じられないのだ。なにか特別な事情があってやったに違いない。
それにあの時、私は鮎を引き止めなかった。鮎は窓の外にいたというのに……。
話を聞きたくて、そこら辺を歩いていた遊女に手当たり次第声をかけた。
「ああ、あの芋娘ね。どうせお下働きが嫌で足抜けしたんでしょ? じきに見つかるわよ」
大抵の遊女の説明は要領を得なかったが、この一人の遊女は違った。気の強そうな顔をしていて、鮎のことを芋娘と呼んで鼻で笑う。葦登が冷たい美女なら、この遊女は腹黒な美女という感じだ。
「ええと、坊ちゃん……だったかしら? あんたあの子に惚れてたんでしょう。良かったわね、きっともうすぐダルマになって戻って来るわよ。惚れた相手を好きにできるなんて坊ちゃんはさぞかし嬉しいでしょうね。それとも、お仕置きは坊ちゃんがするのかしら? それなら足抜けしようとした罰を、文字通り手取り足取り教えてやってくださいねぇ」
その遊女は笑いながら言った。顔がかーっと熱くなる。なんてことを言うんだ。手足を切り落とされたから相手を好きにできるなんて、変態の考えることだろう。
その時、奥から別の遊女がやって来た。
「錦鯉の姐さん、遣り手婆が呼んでいますよ」
「はいはい、すぐ行くわ」
そう言って、私に嫌味な視線を向けながら遊女は行ってしまった。
あの嫌味な遊女が、錦鯉……。
確か錦鯉は、この金色遊楼の中で三番目に人気の遊女じゃなかったか。そんなに人気なのに、性格はあまり良くないみたいだ。きっと客の前で猫を被るのは上手いのだろう。
立ちすくんでいると、肩に衝撃を感じた。同時に罵声が飛んでくる。
「こんなところで突っ立てるんじゃないわよ!」
その罵声の主は葦登だった。あの冷たくも美しい顔が、鬼のような形相に変わっている。葦登はそれだけ言い捨てると、ずかずか廊下を歩いていった。
「葦登のやつ、自分は鮎みたいにならなかったからって……」
他の遊女の噂話が聞こえる。自分は鮎みたいにならなかったから?
どういう意味だろう。まさか、葦登が鮎と同じ目に遭ったとでも言うのだろうか。
「まあねえ、吉住の旦那の悪趣味さは私もよく知ってるし。鮎には悪いけど、殺したくなる気持ちも分かるさ」
殺した……?
「あっ、あの、殺したってどういうことですか」
私は咄嗟にそう言っていた。特に伝えるつもりのなかった二人の遊女は狼狽える。
「鮎が吉住の旦那を殺したってことだけど……」
「そうなんですか!?」
そう問い詰めるとしどろもどろに、
「い、いや、私達がそう思ってるだけで……」
そう言って遊女達は慌ててどこかへ行ってしまった。苛立ちだけが突っかかって残る。要は、自分が殺したいだけなのに、その気持ちを勝手に鮎に重ねたということだろう。
遣り手婆はどこだろう。あの後どうなったのかを聞きたかった。
「あっ、坊ちゃん!」
後ろから声をかけられる。思わず振り返ったら、そこにいたのは出目金だった。なんだか今日は、沢山の遊女がいる気がする……。
「坊ちゃんも聞き込みですか?」
「『も』ってことは、他に誰か聞き込みしてる人がいるんですね」
試しにそう言ってみると、出目金が「やってしまった」という顔をした。
「ちょっと坊ちゃん、中庭に行きましょうか」
「はあ……」
出目金に連れられて、私は中庭に出た。そのまま物置のような小屋の前まで連れて行かれる。一瞬、この中で何かされるのかと思いぞくっとした。
「坊ちゃん、別にそんなに心配しなくても大丈夫ですよ。私はなにもしません。ただちょっと……遣り手婆に見つかるとまずいんです」
先に出目金が小屋に入り、暗闇から手を出して手招きをした。妙に気味が悪い。ただ私も遣り手婆や父に見つかるのは怖かったので、急いで中に入った。
小屋には中が覗けない程度に汚れている硝子窓があり、そこから入ってくる光が唯一の明かりだ。目が慣れるまで、ぼんやりとした窓の輪郭と、それの真ん中にいる出目金の影しか見えなかった。
「坊ちゃん……これは二人だけの秘密ですよ。絶対誰にも言ってはいけませんし、私の名前も出さないでください。もし言えば、坊ちゃんのせいで私が折檻されることになります」
本人は脅しているつもりなのだろうが、もとはと言えば出目金がうっかり口を滑らせたのが原因だろう。
でも私はそんなことは口にせず、頷く。
「吉住の旦那様が消えたじゃないですか?」
「はい」
「ハッキリ言うと遣り手婆は、鮎を疑っています。過去にも追い詰められた遊女が初めての客を殺す事件がありましたからね。そしてもう一つ。鮎が足抜けしたと思っています」
「足抜け……」
きっと遣り手婆が疑っているのは、お下働きが嫌で逃げたということだろう。
「もう漁師の方々への聞き込みは済んでいるそうですよ。それによると、船はひとつも無くなっていないし、鮎を乗せて行った人はいないと――。ただですねぇ、ちょうど吉住の旦那が消えた時間帯に、精神村の漁師小屋で火事があったそうで」
この島から出るには、二つの港――といっても、漁師達しか使っていないが――を経由する必要がある。そこ以外から島を出るのは相当難しいだろう。精神村から島を出れば、人が多い為に気づかれやすいだろうし、そもそも船がなければ本土まで辿り着けない。かといって人の少ない奈神村はどうかと言われると、これも無理だろう。奈神村から海に入ろうとすると、あの高い崖と波に隠された地面が邪魔をする。その為奈神村にある港は、崖を削った危なっかしい階段を降りて、その先にある小さな洞窟に船をとめている。
もしかしたらそれを上手く使えば島から脱出できるのかもしれないが、鮎にその心得があるとは思えなかった。
「それで私達は一人ずつ、遣り手婆に呼び出しを食らっているんです。どうして一人ずつなのかというと……」
「もしかして、口裏合わせを防ぐ為ですか?」
「多分そうだと思います。鮎が誰かと協力して逃げた可能性は有りますからね」
「そうですか……」
もし逃げたのなら、このまま誰にも見つからずにこの事件を風化させてほしい。鮎が手足を切り落とされる姿など、私は見たくないのだ。
「そういえば出目金さん」
「なんでしょう」
「朱文金って人について、教えてほしいんですが……」
出目金は少し驚いたような顔をした。
「はあ、まあ良いですけど……。なぜ朱文金姐さんのことを?」
ここで「この前一階の廊下に横たわっているのを見てしまった」と言うべきなのか、「朱文金の顔が、血のつながっていない姉にそっくりだった」と言うべきか迷う。少なくとも後者を言う場合、前者も一緒に言ってからだろう。私は迷った末、
「この前一階の廊下に横たわっているのを見てしまったんです」
これだけを言うことにした。
「ああ、それは姐さんの〝発作〟ですよ。湖に入れなくなった代わりに、たまにそうやって水の音を聞きに降りてくるんです。ほら、この遊廓は川を跨いで建っているでしょう」
まさかの、私が予想しており通りの理由だった。音を聞けたらそれだけで満足なのだろうか?
「そうなんですか? たまにって……どれくらいの頻度でなんですか」
「そうですねぇ、正直私は分かりません。一階で雑魚寝してる子達なら――あっ、鮎なら――」
出目金はそこまで言って、ハッとしたように黙り込んだ。
「すみません、鮎は失踪したんでしたね」
鮎の失踪が、余計に生々しい事実として体感させられた。私達の間に気まずい沈黙が流れる。
「それにしても……。まるで神隠しみたいですよね。あっ、神隠しと言えば」
出目金は二人しかいないというのに、顔を私の耳に近づけた。耳にかかる生温かい息が、昨日の行為を思い出させて少し勃ってしまう。不本意だ。
「今から数年前……。坊ちゃんの実のお兄さんにあたる人物が、湖に落ちて亡くなったんです」
「湖に……」
それがどうして神隠しだというのだろう。そもそも兄がいたなんて初めて聞いた。
「それだけじゃ神隠しと言えない、って顔をしていますね。そうなんです……。お兄さんは、今坊ちゃんが使っている部屋にずっといたというのにも関わらず、行方不明になりました。捜索した所、湖の水面にお兄さんの下駄が浮かんでいたのです……」
「まさか、蛇神様に食われたってことですか⁉︎」
「当時はそう噂されていましたよ。お兄さんが奈神村に行く理由なんてありませんからね」
胸のあたりに、もやがかかったような気持ちになった。兄は蛇神様に食われたのだろうか?
「それって、何年前ですか?」
「えーっと、六……いや、五年前でしたっけ。奈神村の湖ですから、噂を聞きませんでしたか?」
言われてみれば、楼主の一人息子が死んだと聞いたかもしれない。菊が喋らなくなったのもこれくらいの時期だった気がする。
「……そういえば出目金さん、さっき葦登さんが怒りながら歩いてましたけど、何があったんですか?」
出目金は苦笑して、
「葦登の水揚げの日も色々あったんですよ。葦登の初客も、吉住の旦那様だったんです。それで吉住の旦那様が、葦登がちょっと目を離した隙に物置に入って寝てしまったんです。翌日まで見つからなくて、今回みたいに大騒ぎでしたよ。……それでも葦登は、今回の鮎みたいに水揚げを翌日にずらされることもなく、そのまま客を取らされたんです。きっとそれに対して怒っているんでしょうね」
出目金に説明されて、ようやく辻褄が合った。「自分は鮎みたいにならなかったからって」と言われていたように、鮎が特別扱いされたことに対して怒っていたんだ。
「でも、今回は違うんですよね。旦那様は見つかっていないって聞きました」
「ええ。遊廓中を探し回っても、どこにもいませんでした。それに続けて鮎の失踪ですからね……。どうなることやら」
「竹地さんはどうして鮎さんを葦登さんと違う扱いにしたんでしょう」
「単純に、本人の表情の違いだと思いますよ。私もその頃は現場にいたので分かります。葦登は少し嬉しそうでしたから……。鮎は泣いていたんでしょう?」
「はい……」
脳裏に、錯乱して取り乱していた鮎の姿が浮かぶ。痛々しくって、胸がキュッと締まった。
「もう出ましょうか?」
「あっ、はい、そうですね」
すっかり物置にいたことを忘れていた。
「先に坊ちゃんが出てください。多分坊ちゃんがここにいても怒られないと思いますから。私は後で出ます」
「出目金さんのことは待たなくても?」
「待たないでください」
「分かりました。……それでは」
出目金が軽くお辞儀をして、私は物置を後にした。曇り空だというのに、外の日差しがやたらと眩しい。
鮎はどうして、私と交わったのだろう。私は鮎のことを好いていたが、どうして私を初めてにしたのだろう。
そんなことを考えながら本館に入ると、遣り手婆に呼び止められた。
「坊ちゃん、ちょっとお時間いただけますか」
「はい、大丈夫ですけど。何があったんですか?」
その問いには答えずに、遣り手婆は私を遣り手部屋に入らせた。暗い感じの部屋だった。
「鮎が消えたということは聞いていますね?」
「はい」
「単刀直入に聞きます。坊ちゃん、坊ちゃんは昨日鮎を見ませんでしたか?」
「見ませんでした」
嘘っぱちだ。本当は鮎と部屋で交わっていました、などと言えるわけもない。
「昨晩の丑三つ時に、鮎が二階の廊下を通って別館に行ったのを見た遊女がいます。朱文金もその足音を聞いていた為、それは間違いないでしょう。しかしそれ以降鮎を見た者はいません。別館一階には坊ちゃんと正治様しかおりませんし、正治様はご就寝されていました。坊ちゃんは、昨晩足音で目覚めたりはしませんでしたか?」
「しませんでした」
「誰かが部屋に入ってきたりは?」
「特になかったと思います。寝ている間に、鮎が私の部屋から出て行ったと疑っているんですか?」
遣り手婆は少し険しい顔つきになる。
「……昨日は中庭に酔っ払ったお客様が沢山いましたから、中庭から逃げることはできなかったんですよ。なので出られるとしたら坊ちゃんの部屋の窓か、正治様の部屋の窓というわけです」
つまり、疑っているんだ。
「坊ちゃん、窓の鍵は閉まっていましたか?」
「さあ、今日は窓を開けていないのでなんとも……」
心臓がバクバク鳴る。さっき私が閉じたばかりだ。まさか鮎は私と行為をすることで、私以外の人間が見たら「鮎が密室から消えた」と思わせることに成功したのだろうか。窓の鍵は、私が閉めることに賭けて……?
「竹地さん。鮎さんはもしかして……、この遊廓から消えたんですか?」
遣り手婆は俯いて、それから顔を上げると私の顔をじっと見つめてこう言った。
「そうなります」
「島の中は探したんですか?」
「今探させてますよ」
「これで鮎さんが見つからなかったら――」
島からも、出たことになる……。
島から出るには、二つの港のうちどちらかを使う必要がある。そのうちのひとつの船もなくなっていないなら、鮎が島から出られるとは思えない。つまりこれも一種の密室……。私以外の人間からは、あたかも二重の密室かのように思えるだろう。
私が黙ったのを見て、遣り手婆は腰を上げた。
「坊ちゃんはこの後用事はありますか?」
無い。でもどうしても鮎のことで、気になることがあるのだ。その為には漁場に行かなければならない。
「あります」
「勝手に部屋を捜索しても?」
「もちろんいいですよ。僕はこれで失礼します」
一礼して遣り手部屋から出る。襖をぴったり閉めた時、思わずふーっとため息が出た。
なんとなく引っかかるのだ……。