八月八日
今日も、いつもと同じようにほたるに勉強を教えてもらい、夜は手伝いをしていた。
しかしこの時の私は、まさかあんなことが起きるなど少しも考えていなかったのである――。
「ほほう、こりゃまた上玉ですなあ」
遣り手婆と、小夏――いや、これからは鮎と書くことにしよう。二人と一緒に、白髪頭の背の高い男が入ってきた。鮎の死んだような表情を見る限り、この男は鮎の初めての客なのだろう。
「いやぁ、鮎の初客が吉住の旦那様だなんて、安心して任せられますよぉ。場所は――」
「二階のお座敷でございますね、旦那様。どうぞお手柔らかにお願いしますわ」
鮎の発した廓言葉に私は度肝を抜かしたが、考えてみれば当然のことだった。遊女達は皆廓言葉で客と会話するのだから、いずれ遊女になる鮎が習っているのは当たり前なのだ。
「ええと、君は鮎と言うのか。随分肌が白いが、竹地さん、それが由来ですかな?」
「ご名答です。それでは二階にご案内しますね」
私はついて行くことも出来ずに、その白髪頭の背中を見送った。こいつが初めて鮎を抱く男なんだ……。
「あのぉ、沸嗣様ー。ちょっと手伝っていただけませんか」
台所からチズルの間延びした声が聞こえてきて、私は廊下から目を背けた。
そうして飯炊きの手伝いをして、しばらく経った時だった……。遣り手婆が、台所にずかずかと入り込んでくる。
「坊ちゃん、ちょっと人手が足りなくって……二階のお座敷に食事を届けてほしいんですよ」
二階のお座敷。それは鮎のいるところじゃないか。
私が快諾すると、遣り手婆はあからさまにほっとした顔をした。
「いやあ、助かりますわぁ」
鮎の抱かれる声を聞くことになるかもしれないが、
それでも、なんとしてでも鮎のところに行きたい私の気持ちは止まらなかった。
盆に食事と酒を乗せて、私は台所を飛び出した。暗い廊下は行燈で照らされているが、それでも端までは光が届いていない。薄ぼんやりとした廊下が暗闇に照らし出される様はなんとも幻想的だった。
滑り落ちないようにゆっくり階段を上ると、二階に到着する。ここは正面にいきなり厠が出てくるので、いつも少しだけ驚いてしまう。
そしてこの階にいる遊女のことは少しだけ知っている為に、私はどぎまぎしながら廊下を渡った。
葦登の部屋から押し殺すような喘ぎ声がする。あの冷たそうな美人が自分の手で乱れるのなら、そりゃあ人気にもなるだろう……。私はそう思いながら、なぜか緊張してゆっくりと歩を進めた。
昨日こっそり身を潜めていた物置の前に来る。奥の座敷からは、逃げ回るようなどたどたという音が聞こえた。中で何が起こっているのだろう……。鮎があの男に追いかけ回されて、逃げている?
そんな嫌な想像がふと頭に浮かぶ。
しかし、座敷の正面に来ると、音がぴたっと止んだ。
「お食事をお持ちしました……」
恐る恐るそう言う。中の静けさが、私の様子を伺っているように感じて気味が悪い。
「あの……?」
私がもう一度そう言った時、勢いよく襖が開いた。
そして乱れた姿の鮎が、私に倒れ込んでくる。次の瞬間尻と足に鈍痛を感じた。私はまたしても鮎に押し倒されたのだった。
「ああ、どうしましょう! 沸嗣様っ! 助けてください!」
鮎が大粒の涙を両目から流し、大きな口を開けてそう叫ぶ。見開いた目には恐怖の色が浮かんでおり、体が小刻みに震えている。
「鮎さん? 何があったんですか?」
私が鮎に問いかけても、ただわんわん泣くだけで何も言えそうにない。なにしろ私も、泣いている女の子をどうしたらいいのかなんて少しも分からなかったものだから、混乱しながらただ座り込んでいた。
騒ぎに気がついたのか、隣の部屋のらんちゅうが顔を出す。
「まあ、鮎さん、はしたないわよ……。何があったの?」
らんちゅうが泣き腫らした目で憐れむように鮎にそう言った。それを聞いた鮎は、ようやく安心したのだろう。少し落ち着いて、私の上から身を引いた。
「らんちゅう姐さん……どうしましょう……。私が言うこと、信じてくれますか?」
「ええ。大丈夫……、大丈夫よ。だから話して頂戴」
いつの間にか鮎の近くまでやって来たらんちゅうが、優しく鮎の背中を撫でていた。そうしてようやく鮎が発した言葉は、にわかには信じ難いことであった――。
「お、お客様が……消えたんです……!」
鮎が言ったその言葉は、喧騒渦巻く遊廓の中で、空気を切り裂くようにハッキリと耳に入った。
お客様が、消えた……。
鮎は確かにそう言ったのだ。あの白髪頭の男が消えた? 何かの間違いではないのか。そう思うものの、泣きじゃくる鮎を見ているとそれが本当のように思えて来る。いや、疑うことが悪のようにさえ感じられる。
らんちゅうは困ったようにため息をつくと、立ち上がった。
「竹地さんを呼んでくるわね。鮎さんはその間、私のお客様のお相手をしてくれるかしら。坊ちゃんは……そうね。ここを見張っていてくださります?」
私は、頷くことしかできなかった。
「お酌をするだけでいいから。お客様には、私はすぐ戻ると伝えてね」
「は、はい……」
らんちゅうはにっこり笑うと、廊下の奥の暗闇に消えていった。長く勤めているだけあって、こういうことには慣れているのだろうか。でも、客が消えるなんてことがあるとは思えない。
実際、らんちゅうも混乱していたし……。
鮎がそそくさとらんちゅうの部屋に入って行ったのを見届けて、私は開いた隙間から座敷を覗いてみた。
すぐ視界が屏風で遮られる。邪魔なので屏風を少しどけると、布団と机があった。頼んだ酒の瓶が机の上には置いてあって、もう既にいくらか飲んだのか、中身は減っている。暗い部屋にはぼんやりとした行燈の光しかない為、細部は見えない。この暗がりの中なら客が隠れていても気が付かないかもしれない。鮎は初めての客で、錯乱してしまっただけじゃないのか……?
それがこんな大事になって、出るに出られないとか。
そう思い始めた頃、遣り手婆が到着した。
らんちゅうと交代したのか、鮎も戻って来ている。
「坊ちゃん、旦那様はいましたか?」
遣り手婆が疑うように言うと、私を少し強引にどけた。今回はいくら私が相手とはいえ、客が消えたことに腹を立てているんだろう。
「分かりません。暗くって……」
私がそう言うと、遣り手婆は予測していたかのように提灯を持ち出して来た。
「鮎はそこの屏風を部屋の一番端に避けること。いいね?」
「はっ、はい」
遣り手婆はずかずかと座敷に入ると、部屋の隅々まで探索し始めた。私は取り残されて入口で固まっていた。様子を見ていると、遣り手婆はそこに人が隠れられるとは思えない布団の下を確認したりしていた。机の下を確認する時は、食器などを全て下ろしてから机の足を持ち上げ、人が隠れていないか確認していた。
「おかしいね。吉住の旦那様は確かに悪戯好きで、いきなり出てきて遊女を脅かしたりするんだけど……ここまで出てこないことは今までなかった」
「えっ、そうなんですか?」
鮎が遣り手婆の方を驚いて振り返る。その様子は、なぜ先に言ってくれなかったのかと問い詰めているようだった。
「坊ちゃん、私が来るまで、部屋で物音はしませんでしたか?」
遣り手婆が振り返り、私に尋ねる。
「いえ……。なんの音もしませんでした」
私がそう答えると、遣り手婆は悩んでいるようだった。そして徐に顔を上げると、
「鮎、お前の水揚げは明日にするよ。今日は他の遊女の手伝いをしなさい」
「は、はい」
それはつまり、客に自分の初めてを奪われる日が、今日から明日に変わったということだ。頷く鮎の顔は、心なしか明るく見えた。
「とりあえず、今から出目金のところに行ってきな。でももしこれが仕組んだことだったら、タダじゃおかないよ」
「はい……!」
そう言い、鮎は私の隣をすり抜けて廊下に出て行った。