(5)
勉強に集中できないまま学習塾から戻ってくると、アパートの前で軽快にまな板を叩く包丁の音が聞こえていた。
意外な思いで家にあがり居間をのぞいた。父はなにごともなかったように胡座をかいて夕刊の新聞を広げている。
それを横目に見ながら子ども部屋へ入り、机に鞄を置くと、となりで本を読んでいた姉に小声で尋ねた。
「あれからどうなった?」
「お父ちゃんのほうが怒ってた」姉も小声で答えた。「ポケットのなかを調べないで洗うからこんなことになるんだって」
「えぇ! なにそれ」明らかな逆ギレに声をあげてしまい、あわてて自分で口をふさいだ。
「久ちゃんとはね」姉はさらに声の調子を落として言った。「四年ほど会ってないからいいだろって」
説明を聞いて母は納得したらしいが、問題はそんなことではないはずなのだ。早くに両親や兄を亡くしている母にとって、帰る里のないことが関係しているのかもしれなかった。
勉強道具を片づけようとして鞄から取り出したがそこで手がとまった。やはり気になる。
たとえ会ってはいないとしても、ほかの男性と結婚した女性の写真を持ち続けていた父。そうとは知らずに、父のために毎回衣類を洗濯し、一日三度のご飯を作っていた母。この四年間、ぼくには毎日が平穏でなにごともないように見えていたのに、本当はちがっていた。表面からでは推し量れないものが人にはあるのだ。
食事の準備ができたのを知らせる母の声を聞いたかどうか覚えていないし、夕食になにを食べたか、食卓の雰囲気はどうだったかも、まるで思い出せない。記憶はここで途絶えていた。
考えを巡らせているあいだに警察署の前まできた。
こんな時刻にもかかわらず、当然建物内には明かりがついていて、人のいる気配が感じられた。ここからぼくに電話をかけてきた人がいる。その事実がなぜか力を与えてくれた。
なかに入ると、ひとりの老人が長椅子にすわり、足を組んで踏ん反りかえっていた。黒い背広の上下に黄色のネクタイをしめている。それが父だとわかるまでに一瞬の間があった。てっきりいつものジャージ姿だと思い込んでいた。
父はぼくに気づくと、「よおっ」と手をあげた。
「こんど市会議員の選挙に出ることになってしまってな。選挙事務所に顔を出すとこだったんだ」
「えっ?」突然の話に思わず苦笑し、改めて背広に目をやった。それらしく見えなくもないけど‥‥。
「嫌だと断ったんだけど、なんどもうるさく言ってくるので、仕方なしに引き受けたってわけだ」と顔をしかめた。
「それは大変だね」話を合わせていて、はたと思い当たった。
父は六十歳で会社を定年退職すると、その後実際に町内の老人会の会長を二期つとめている。当時の会長がなんども家に訪ねてきて、次を是非にと頼み込むので、仕方なく引き受けたのだと聞いた。知り合いの人が市会議員に立候補したときだって、頼まれて手伝いに行ったりしている。
だからまったく奇想天外な話ではないのだ。おそらくバラバラだった記憶がそれぞれ勝手に結びついて、ありもしない新しい現実を作り出しているのだろう。
父の身柄を引き取るための書類は、回を重ねるごとに書き慣れてきて、ほとんど機械的に記入できるようになっていた。うしろの長椅子ではあいかわらず父が精一杯の虚勢を張ってすわっている。ぼくはこんなタイプの人間を避けて通ってきた。できるればこんな状況からも逃げ出してしまいたかった。
書類の〈続柄〉欄に、今回も同じく「長男」と書き入れたとたん、悟った。だからぼくらは切っても切れない血縁という縁で結ばれたのかもしれない、と。
手続きをすませ、世話になった警察官に挨拶して、ふたり連れ立って薄暗い街へ出た。
冷たい外気にふれていると不意に、切断されたあの写真にまつわる真相の断片が読み解けた。
あの写真は財布のなかに入るサイズに合わせて切り取られたのではない。
捨てられてしまったもう一方に写っていたもの、――それは久ちゃんの結婚相手の男性だ。一緒に一枚の写真におさまることで、久ちゃんは父との縁を断ち切ろうとした。父にもそれがわかったから会うのをやめたのだ。
そう理解すると合点がいった。
これはぼくの憶測かもしれないし、大切な出来事ではあるが父の人生のほんの一部分にすぎない。
毎回夜中に出歩くのだって、駅に向かって歩くのだって、久ちゃんの写真を持ち続けていたことだって、きっとみんな理由がある。わかろうとしないからわからないだけなのだ。
父とぼくは自宅へ向かって、肩を並べ静まりかえった道を歩いた。
夜が明けてくるまでにはもうすこし時間がありそうだった。