(3)
「待ってえぇ」
前方を行く父と久ちゃんに、叫びながら走った。
ふたりはアパートの横の広い空き地に接する細い道を、県道に向かって並んで歩いていた。うつむき気味になにかを話している様子だったが、立ち止まってふり返った。
息を弾ませて追いついたぼくに父は怒鳴った。「なにしにきた! 帰りなさい」
その剣幕に、あわてて母の言った言葉をそのまま口にした。
「お父ちゃんらが、変なとこへ行かないように付いて行けって」
「なにをバカな」父は顔をゆがめ、となりの久ちゃんを窺い見た。
「――そんなふうに思われてたのね。これでわかったわ」
久ちゃんはかがんでぼくと視線を合わせ、
「そんなことはしないから大丈夫よ」と言うと、ぼくの両腕を強く握った。
そして立ちあがると父のほうに向き直った。
「私も子どものころに同じような経験をしてるから気持ちがわかるの。あなたたちはここで帰ったほうがいいわ」
父は少しためらったが、
「――じゃあ、そこの信号のところまで行くよ」と小さな声で言った。
信号を待つあいだ、ぼくはふたりの真ん中に立って、正面の信号を睨んでいた。久ちゃんを嫌いじゃなかった。追い返すなんて母のほうがひどいと思った。
信号が青に変わって、久ちゃんは小走りに道路を渡った。父は信号機の柱のそばを動かないで、「また連絡するよ」と声をかけたがそれには答えず、ふり返ることなくずんずん歩いていった。
「また会うの」父を見あげて聞いた。
「そうだな。このまま放っておけないからな」
「久ちゃんはわかったって言ってたけど、なにがわかったの」
「それはもういい。こんどお父ちゃんがちゃんと話しとくから」
父はずっと久ちゃんの後ろ姿から目を離さなかった。姿が小さくなっていく。その背中は丸まっているように思えた。
半年ほどたった日の夕食のあと、寝そべってテレビをみていた父が、画面のほうを向いたままひとり言のように言った。「久ちゃん、結婚したんだってよ」
食卓の上を拭いていた母は、「あらそう、よかったわね」と無機質な声で応じた。そのやりとりをぼくはドキドキしながら聞いていたが、父はテレビを見つづけ、母は台所に入って洗い物をはじめた。
それっきり久ちゃんのことが話題にのぼることはなかった。でも、ぼくが中学生になったとき再び事は起きた。
深夜の県道を父のあとを追って、駅まであと少しのところに来てしまった。身体がほかほか温まってきた。家のなかではトイレに行くのもよたよたと歩く父だが、今夜、歩くスピードは意外に速いようだった。
以前、役所の担当者に言われたことが思い出された。
「認知症の人のあとをついていくのは結構しんどいですよ。私も経験があるのですが、まるで疲れをしらないかのように、遠くまで行くことがありますから」
自動車には〈スピードリミッター〉というものがある。設定された速度以上になると、エンジンの出力を低下させ、それ以上の速度が出るのを防止するのだが、人間にも身体を守るため、これに似たような機能があるという。
認知症の症状によっては、このリミッターが外れた状態になるのかもしれない。
ぼくの日常生活のなかでも、ぼくの意思に関係なく、行動が自動的にブロックされてしまう状態を経験したことがある。どんなにもがいてみても容易には突破できない。まるで目には見えない力が作用しているかのようなのだ。
いま思うと、久ちゃんがあの空き地のところでとった言動は、このリミッターによるものだったのではないだろうか。それはたぶん、彼女の経験によって設定されたリミッターなのだ。
踏切の手前で、右折してきたパトロールカーとすれちがった。回転灯だけを光らせて暗い県道を遠ざかっていく。
いやな予感がした。
すぐにぼくの携帯電話が鳴った。警察からだった。
「駅前の派出所でお父さんを保護しました。いまパトカーで署のほうに向かっていますので身柄を引き取りに来てください」と担当官が落ち着いた口調で言った。
電話がおわると、大きなため息が出た。急いでいま来た県道を引き返した。