(2)
「もうちょっとしたら、お客さんが来るからね」
朝と昼を兼ねた日曜日の食事が済んで、母が食卓の上を片づけはじめると父がそう言った。ぼくの顔をのぞき込んで、「だれが来ると思う?」と訊いてきた。
「わからないよ。知ってる人?」
「ああ、知ってる」
「だれ? 教えてよ」
父はいたずらっぽく笑っただけで教えてくれない。
ぼくは母と姉のほうを見た。
姉は首を横に振った。
「お母ちゃんも聞いてないけど‥‥」片づけの手を止め、訝しげな表情で父を見やった。
「来たらわかるよ」横を向いてニヤついている。
どことなくウキウキしているように感じられた。自分から言い出したことなのに教えてくれないのはなぜだろう。
父が四十一歳で転職したので、会社の近くのアパートに家族四人で引っ越した。その新しい生活がようやく落ち着きはじめたころのことだった。
駅までお客さんを迎えに行ってくると言って出かけた父が二十分ほどで戻ってきた。
連れていたのは山田久子さんだった。落ち着いた色の和服姿で玄関に立っていた。
「わあっ、久ちゃんだ」ぼくは声を上げた。
「こんにちは」久ちゃんが微笑んだ。
その笑顔と装いは、貧相なこのアパートの玄関に不釣り合いで、ちょっと場違いに思えた。
久ちゃんは、父の前の会社の事務員で、ぼくたち家族みんなと面識があった。たしか母より五つほど若く、小柄でふくよかで、いつもニコニコしていて親しみやすかった。ころころした丸っこい人、という印象だった。
母は久ちゃんを見るなり、あいさつもせず台所に閉じこもった。その様子を見た父は、久ちゃんを居間へ通すとすぐに台所へ入っていった。久ちゃんと姉とぼくの三人ともひと言もしゃべらずひとかたまりになって座っていた。手持ち無沙汰と気恥ずかしさで居心地が悪かった。
閉められたガラス戸越しに台所からふたりの会話が聞こえてきた。
「帰ってもらって! こんな狭い家見られて恥ずかしくないの?」母の大きな声がした。
「恥ずかしいもなにも、どうしているか心配して見に来てくれたんじゃないか。あいさつぐらいしたらどうなんだ。せっかく来てくれたのに失礼だろう」父も言い返した。
「なにも言わないで来るほうが失礼じゃないの! あなたは前もって知ってたんでしょ。わたしをバカにして。なぜウチの場所知ってるの? 連絡取り合ってないとわかるわけないわよね」
久ちゃんの顔は引きつっていた。
母がなにをそんなに怒っているのかよくわからなかった。ただ、聞こえるところでこんなに激しく言い争うなんてみっともなくていたたまれなかった。
「これ開けてみてもいい?」
持ってきてくれたお土産の菓子箱を指さしながら、それが気になっているふりをした。久ちゃんはちらとぼくを見て軽く頷いただけで、すぐにまた台所のほうを向いた。気持ちはここになかった。
「おかしなヤツだ」と言いながら父が出て来た。
「今日はご都合が悪いみたいね」申し訳なさそうな顔をして言った。
「そのようだな。ーー駅まで送るよ」
ふたりが家を出ていくと、まわりは静かになった。
するといきなり母が台所から出てきて、ぼくに口早に言った。
「お父ちゃんたちが変なとこへ行かないように付いて行きなさい」
「変なとこって、どこ?」
「どこでもいいから早くいっしょに行きなさい!」
姉は口元に薄笑いを浮かべて奥の部屋へ引っ込んだ。そんな姉を尻目に、わけのわからないまま急いで運動靴をつっかけるとおもてへ駆け出した。