インドへの道は険しく
前夜に引き続き朝から冷たい雨が降り続いていた。珍しく小百合のほうが晶よりも先に出社だ。始業時間ギリギリにやって来た晶は紺色のシャツに黒いスラックスだ。顔色は悪く、生気もなければ緊張感もなかった。表情のない顔で朝の挨拶をすると疲れたように椅子に身を沈め、ため息をつきながらパソコンの電源を入れる。メールボックスを開くと未読メールが湧き出すかのように画面に現れるが、晶はそれを読むでもなく眺めているだけだった。
ねえ徳永さん何かあったんでしょう、と小百合は聞いてみたかったが、十歳も年下とはいえ上司にそんな馴れ馴れしい口は利けない。
「昨日お出かけ中に旅行代理店の方がいらっしゃいましたよ」
小百合は机の引き出しの鍵を開けて、晶のパスポートを取り出した。
「パスポートを預かっておきました。出発ギリギリのお渡しで申し訳ありませんっておっしゃっていました」
小百合は晶にパスポートを渡す。晶は代理店にインド行きの航空券とビザを頼んでおいたのだ。ビザの申請に時間がかかり、パスポートだけは出発直前に受け取る形になった。
「いつから行かれるんですか?」
「明日から。急に決まって」
そこで晶の携帯電話が鳴る。晶は無造作にパスポートを自分の机の引出しに入れて電話を取る。パスポートはすぐにバッグにしまわないと、と小百合は小言を言いたくなる。
「おい、徳永。打ち合わせ」
木村部長が会議室前から晶を呼ぶ。晶は携帯電話を肩に挟み、ノートパソコンを持って慌ただしく会議室に向かって行った。
翌朝は恨めしいほどによく晴れていた。朝日の下、晶は自分の身の隠しどころがないように感じる。気持ちは相変わらず沈んだままで晶は成田空港に向かう。今日からインドへの出張だ。家具に使う大理石の産地で商談があるのだ。成田空港行きの特急は全席指定で、晶は席に着くなりウトウトし始める。ここ二日まともに寝ていない。考えるのはアリスのことだけだ。去って行ったアリス、心変わりしたアリス。そもそもアリスの気持ちは離れかけていて、俺が出向させようとして更に説教までしたのが決定打だったんだな。晶は誰を責める気にもなれない。全ての原因を作ったのは自分だったから。
携帯電話の振動で晶は目を覚ました。見知らぬ携帯電話の番号が表示されていた。
「徳永さん?桶川です」
小百合の声だった。晶は周りを気にして
「今移動中で・・・・」
と暗にかけ直すように指示するが、小百合は皆まで言わせず噛みつくように、
「パスポートが!」
「パスポートだったらチケットと一緒に・・」
晶はそう言い掛けて思い当たる。そう、今回はビザの申請をしたので、チケットとパスポートを別に受け取ったのだ。そしてパスポートは・・・・。
「・・・・会社の机にありましたよね」
晶は力なく呟く。時計の針は九時過ぎた。今日のムンバイ行きエアインディアの離陸は十一時十五分。二時間前だ。今から小百合が恵比寿の会社を出ても間に合わないだろう。
晶は特急のデッキに移り、恐る恐る、
「すいませんがパスポートを持って成田空港に来て貰えないでしょうか。予約した飛行機は多分乗れないと思いますが、とにかく何らかの手段でインドに入れる方法を探します」
しかし小百合の返答は
「もう向かっています」
だった。
「とにかくチェックインカウンターで必ず乗ると意思表示をしておいて下さい。十一時前には成田空港駅に着きますから。成田空港発エアインディアで間違いありませんね?」
小百合は晶のパスポートを見つけた後、晶のメールボックスを開いて旅行代理店とのやり取りのメールを探し出したのだ。
成田空港で晶は言われた通りにチェックインカウンターでインド人職員に
「パスポートは連れが十一時前に持って来る。だから搭乗手続きを待ってほしい」
と伝えた。職員達は顔を見合わせて、
「いくら何でも出発十五分前は遅すぎる。約束は出来ない」
と英語で答えた。
そこを何とか、晶は頼み込む。
「チケット発給の可能性はフィフティーフィフティーだ。近くで待っていなさい」
職員は傍らを指差す。
小百合にエアインディアのチャックインカウンターの場所をメールした。今の晶には小百合を待つ以外にない。
史上最強にかっこ悪い。女には逃げられ、国際派を自認しておいてパスポートなしで空港に行ってしまう俺。
エアインディアのカウンターは人影がまばらになる、もう発券を受ける乗客はいない。五人いた職員も今や一人きりになり、その一人も手持ち無沙汰でカウンターを閉めたさそうにしている。
「十一時十五分発ムンバイ行きのエアインディアは間も無く搭乗を打ち切ります。ご搭乗の方はお急ぎ搭乗口までお越し下さい」
空港内にアナウンスが流れる。もうすぐエアインディアは離陸する。
そんな時だ。小百合が猛スピードで走って来て、晶の胸にパスポートを押し付けて来たのは。小さな動物が胸に飛び込んで来たようだった。小百合は泣いていた。ブラウスの胸のリボンは解けている。
「発券して下さい!」
小百合はカウンターの職員に向かって叫んだ。職員は晶からパスポートを受け取ると、首を傾げながら晶の情報を打ち込んだ。職員が驚いた顔をみせ、やがて発券機から搭乗券が吐き出される。
彼は搭乗券を発券機からもぎ取ると、搭乗ゲート番号に素早くボールペンで丸をして、
「hurry up !」
と叫び晶を送り出す。晶のスーツケースはもちろん預けられるわけもなく、機内持ち込みだ。小百合は晶を先導するかのように人をかき分けて出国ゲートに向かう。
「エアインディア搭乗予定の徳永晶様、いらっしゃいましたお急ぎ搭乗口までお越しください」
アナウンスはもはや晶を名指ししている。運が悪いことは続く。出国ゲートは長蛇の列だ。小百合は職員を捕まえ、
「十一時十五分のエアインディアに搭乗します。出国手続きを優先して下さい」
と交渉した。空港職員はギョッとした顔をしながら晶の搭乗券を見、トランシーバーでどこかに連絡を取ってから晶を出国ゲートに導く。小百合は晶の背中を押しながら、
「私はしばらく空港にいます。何かあったら電話下さい」
晶が礼を言おうと振り返ると、
「行って!さあ行って!」
と手で晶を追いやる仕草をし、指の腹で涙を拭った。晶はそれからは振り返ることもなく一路エアインディア搭乗口を目指して走り出した。
晶が搭乗するのを待って、エアインディアは離陸する。離陸する刹那、晶は小百合にメールを送った。
「予定通りエアインディアに乗れました。ありがとうございます。
ご恩は一生忘れません。
かっこ悪くてすみません。 徳永」
インドは暑くて貧しいだけのつまらない国だった。水が合わないのか、カレーに細菌でも入っていたのか、それとも下剤でも盛られたか、インドに入って二日目で晶は下痢をし始める。現地の仲介人に連れられて韓国車で大理石の産地に入った。途中渋滞で車が止まると、物売りや物乞いが車の窓に張り付いてくる。ある時少年が赤ん坊を抱いて車に近づいて来た。彼はさあ見ろと言わんばかりに赤ん坊を差し出す。晶も好奇心に駆られ少年の腕の中の赤ん坊を覗き込んだ。
赤ん坊の頭はざくろのようにざっくりとかち割られていた。晶は吐き気を覚え、慌てて目をそらす。赤ん坊は生きており、大きな瞳で無表情に宙を見ているだけだ。
疲れと緊張と時差で夜はすぐに眠くなってしまう。アリスの事は考えなくて済んだのが唯一の救いだ。
予定通りに大理石の買取と加工委託契約を結び、晶は長居は無用と言わんばかりにさっさとインドから出国する。帰りのエアインディアは香港経由だ。香港空港で同僚への土産を探した。とりわけ小百合への土産は外せない。ふと、アリスにはもう土産は買えないのだと思い出し、胸が張り裂けそうになった。
さて、桶川さんへの土産は何にすればいいのだろうか。酒が好きだと仄聞したが、バーボン、コニャック、ブランデー。これじゃ中年男への土産じゃないか。今時スカーフって言うのも・・・・。定番の口紅?何だかいやらしくないか。
そんな時スワロフスキーの店舗が目に入った。クリスタルガラスか。小さな子どもがいるし、クマやハリネズミの置物だったら可愛いから喜ばれるぞ。晶は店へと入って行った。ガラスケースに並べられた置物を見ているうちに、俺は桶川さんの子ども達に何かして貰ったわけじゃないしな、と思い至る。土産選びはまた振り出しに戻った。
「プレゼントですか?」
ガラスケースが並んだカウンター越しに香港人らしい店員が英語で話しかけて来た。晶は頷く。
「奥様でしょうか?」
「いや、違う」
「お母様に?」
そこまで年上でもないが。晶が曖昧な返事していると、店員は
「こちらの商品でしたら年齢に関係なくお召し頂けます」
と数個のブローチを出して来た。同じアクセサリーでも指輪やネックレスの様に深読みされないし、これならいい。
モチーフはバラとチューリップと百合だ。桶川さんに求愛しているわけじゃないのでバラは却下。チューリップって年齢でもないから、まあ百合でいいや。
「この百合のブローチを包んでください」
晶は店員に命じた。
店の手提げ袋をぶら下げ、晶は店を出る。時間はまだ早いが搭乗口に向かった。行きのように搭乗口に向かって走るのはもう真っ平だ。
飛行機に乗り込む瞬間、そう言えば桶川さんは小百合って名前だったな、小百合さんに百合のブローチなんて気障だった。晶は微かに後悔した。
晶は帰国後、慇懃な謝礼の言葉とともに小百合に包みを渡した。帰りの電車の中で包みを解いた小百合の喜びはひとしおだった。どうしよう、すごいのを貰っちゃった。明日どんな顔で徳永さんに会えばいいのかしら。
翌朝、子ども達がジャケットのブローチに気が付き、
「ママ、それ可愛い!」
「かーいい」
と騒ぎ出した。
「そんなのを持っていたっけ?」
夫の喜一が尋ねた。
「ずっとしまっておいたの。子ども達も大きいからブローチを着けても危なくないし」
小百合は軽く嘘を言って、手でブローチを隠した。