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可愛い人  作者: 山口にま
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角が立つ話

一週間後、晶が取引先との商談を終え、椿インテリアに戻る時に携帯電話が鳴った。八代商事の上司、播磨だった。

「今椿さんか?」

「いえ、出先です。椿さんに戻るところです」

「お前のアシスタントについてだけど話していいか?」

「どうぞ」

「お前が困っているのならば俺から椿さんに言ってやろうか?せめて英語が話せて外回りもできるアシスタントをつけてくれと」

晶は返答に困った。中居に言われるまでもなく、これ以上に角が立つ話はない。それに実際小百合は役に立っている。どうせアシスタントを変えてもらったところですぐに辞めるだろう。あの会社では給料以上の事は要求出来ないのだ。晶は」

と播磨に言ってみた。播磨は

「どう言う奴が欲しいんだ?」

「中国語と英語、少なくとも英語が出来て貿易業務に詳しい人」

晶はアリスを念頭に置いて答えた。受話器の向こうの播磨は考えを巡らせている様子で、うーむと唸ってから、

「神崎アリスあたりか?」

「まあそうなりますね」

と晶。

「神崎は・・・・、まあ今だったら動かせるよな。いやな、じつはあいつに関わらせるつもりのプロジェクトがあったんだがまだ本格稼働していないんだ。今だったら神崎をそっちにやれるぞ」

「本当ですか?今、僕、全く仕事が回っていない状態で、もし誰かが来てくれたらすごく助かるんですよ」

俺から神崎に言っておく、と言って播磨は電話を切った。

明日の土曜日はアリスと約束があった。アリスと飯を食いながら今の話をしよう。よし、椿に戻って今日中に仕事を終わらせるぞ。晶は足早に地下鉄の改札をくぐった。


明けて土曜日、結局金曜日中に仕事を終えることができず、晶は朝から夕方の待ち合わせの時間まで会社で仕事を片付けた。途中アリスに待ち合わせ時間の確認のメールを送ったが返事は来なかった。


晶が夕方の待ち合わせ場所に着くなり、

「播磨さんに何か言ったでしょう?」

とアリスは言った。

「あ、もう聞いたのか。その話ならば飯でも食いながら・・・・」

「だからそう言うのが嫌だって言っているじゃない!」

怒気を含んだアリスの声は大きく、通行人が振り返るほどだった。

「私だって自分の仕事があるんだよ。なのに何で勝手に出向させようとするの!」

「待ってくれ。俺は別にアリスを出向させようとしたわけじゃない。誰か応援頼むと播磨さんにお願いしたら、播磨さんからじゃあ神崎はって言い出しただけだ」

アリスを念頭に置いて応援を要請したことを晶は隠した。

「とにかく座ってゆっくり話そうよ。いつもの店で良い?」

晶が導くとアリスは不承不承ついて来た。地階にある薄暗いビストロ。そこで晶はステーキとビールを、アリスはパスタとコーラを頼んだ。

「余計な事を言って悪かった。それは謝るよ」

晶は小さく頭を下げる。

「私、ドイツの仕事がしたくて八代に入社して、やっとドイツチームに入れそうだったんだよ。それなのに・・・・」

「アリスは断って良いんだよ」

「はぁ?断る?」

アリスはまた興奮し始めた。身を乗り出して

「じゃあ何で晶は椿インテリアへの出向を断らなかったのでしょうか?」

晶が黙っていると、

「晶だって断れなかったんでしょう?そうよね、異動や出向を断るときは会社を辞める時よ」

料理が運ばれて来たので、アリスは口をつぐんだ。まあ食べようぜと言って晶はフォークとナイフを手に取った。アリスもフォークを手に取ったが食べ始めることはなく、

「私、こんな気持ちじゃ出向できないよ。せっかく長年の夢が叶いそうな時に」

と恨み節を繰り返した。その度にごめん、俺から播磨さんに断るからと頭を下げ続けていた晶だったが、次第にうんざりして来た。俺が債務超過の三流企業を立て直そうと毎晩遅くまで働いているのに何が夢だ。別に定年まで椿インテリアにいろと言っているわけでもあるまいし。

「夢が大切なのはわかるけれど、俺や中居はどうなるんだよ。中居なんて過労死寸前だぞ。そもそも社会に出たら理不尽なことは一杯あるし、これはやりたいあれはやりたくないなんて言ってられないよ。学生が研究課題を選ぶのとは違うんだから」

晶が言い終えるや否やでアリスは小さな音を立ててフォークを置き、顔を覆って静かに泣き出してしまった。

「あ、ごめん」

晶も慌ててナイフとフォークを置く。アリスはいつまでも泣き続け、言葉を継ごうとするも嗚咽しかもれなくなっている。やっとの事で、

「晶の言う通りだよ。でも私はドイツに・・・・」

と言葉を絞り出した。

「俺は大丈夫だから。俺から播磨さんに断るから」

「いい。椿に行く。社会人として行かなきゃ行けないの!」

本当にごめんなさいとアリスは何度も泣きながら謝って千円札を三枚出してテーブルに置いた。この子は何にも悪くないのになんで俺はこの子を謝らせているんだ。晶は全てを後悔した。

「今日はもう帰りたい」

アリスは席を立った。晶も立ち上がりテーブルの三千円を無理やりアリスのバックにねじ込んだ。伝票を掴んでアリスと共に店を出た。

「送って行く」

「一人で帰りたい」

「こんな状態で一人にさせられないよ。一緒に帰ろう」

「一人になりたい」

晶はこれ以上アリスの気持ちを踏みにじるわけには行かなかった。分かったと晶は答えてタクシーを拾い、アリスだけを乗せ、運転手に一万円を渡してアリスの住所を告げた。別れ際晶はアリスの手を握り締めたが、アリスの手は死んだように何の反応も示さなかった。

タクシーの扉が閉まる刹那、アリスは抑えていたものが一気に溢れ出したのか顔を手で覆って大きな泣き声を出した。


あの晩以降晶がいくら電話をかけてもメールを打ってもアリスとは一切連絡が取れなくなってしまった。月曜日の朝一番に晶は播磨に電話をかけて応援の件は結構ですと断った。大丈夫なのかと播磨は心配そうな声で尋ねた。金曜の夜など小百合が遅くまで残って手伝うこともあったが焼け石に水だった。

連日の残業、そして海外出張で晶ははクタクタだ。その合間にアリスへの電話とメール。一月近くアリスの声を聞いていない。明後日からはインドへの出張も入っている。もうこれ以上捨て置くわけには行かない。

晶は夜の早い時間で仕事を切り上げアリスの家へと向かう。途中乗り換えの駅でアリスに電話をかけてみた。祈るような気持ちで呼び出し音を聞いていると、なんとアリスが出た。安堵の気持ちで晶は泣きそうになる。

「会って謝りたい。そっちに行っても良いかな?」

アリスは低い声で、

「もう晶とは・・・・」

俺、振られてしまうってことか?晶はアリスの次の言葉を聞くのが怖かった。

「嫌われても仕方がないと思っている。俺がそういう事をしたんだから。でも直接会って謝りたいんだ。家には上がらないから一度だけ会ってくれ」

縋り付くような口調。なんて無様なんだ。人に頭を下げたことのないこの俺が。

アリスはしばらく黙っていたが、

「持って行って貰いたい荷物もあるし、家には上がられないけれど、来ても良いわ」

その言葉を晶はどれほどの喜びの気持ちで聞いたことか。

「ありがとう。二十分後ぐらいに着く。すぐに帰るし部屋にも上がらないからそのままでいてくれ」

と言って電話を切った。


アリスのマンションに着いたのは九時を回った頃だった。玄関の横には晶のパジャマや歯ブラシが入った買い物袋が置いてあり、アリスの気持ちを取り戻したいと思っていた晶はくじけそうになる。もうアリスの気持ちは決まっている。それでも謝らなくては。晶は自分を奮い立たせ呼び鈴をゆっくりと押した。

アリスはドアチェーンをかけたままドアを開けた。アリスの顔は青ざめて、瞳も肌も陶器のように冷たく見えた。手放したくないと晶は強く思う。

「君の気持ちも聞かずに出向をさせるような真似をして本当に悪かったと思っている。俺から播磨さんに、アリスを椿インテリアに出向させてくれと言ったわけではない。ただアリスの事を念頭に置いて、英語ができて貿易実務に強い人を要請したのは事実だ」

アリスは目を閉じて何度も小さく頷いた。

「俺も中居も仕事が大変で、アリスだったら、アリスのスキルだったら俺たちを助けられると思って、播磨さんにお願いしてしまったんだ。ごめん」

アリスは晶の弁明を黙って聞いていたが、やがて

「晶は私が嫌じゃないの?恋人が困っているのに、自分のことばっかりの私が」

そんな事はない、と晶は即答する。

「・・・・私達、いつからこんな風になっちゃったんだろうね。相手のことを考えられなくなって」

「何度も言うけれど、今回の事はアリスは全然悪くない。誰だって意に染まぬ出向なんて嫌だよ」

「あの時、お店の中で泣いてしまったけれど、別に晶の言葉で傷ついからじゃないからね。自分がすごく嫌だった。それに私たちの関係も。本当に晶の言う通りよ。社会に出たら理不尽な事があるとか、あれはやりたくないこれはやりたいとか言ってられないとか。でも私、ドイツには特別な気持ちがあって・・・・」

アリスはここでまた泣き出した。晶はドアの外で静かにアリスの感情が収まるのを待った。

「小さい頃に親の都合で言葉も分からないドイツに連れて行かれたわ。公立小学校に放り込まれてすごく不安だったけれど、イジメも差別も全くなくって、帰国してからもその時のことが忘れられないんだよね。逆に日本に帰国後壮絶ないじめを経験したわ。だから何らかの形で恩返しがしたいってずっと思っていた」

「そうだったんだ」

「この世には一杯理不尽なことがあるわ。ただ、恋人や配偶者はそう言う理不尽さから相手を守るものだと思っていて、でも私達はそうじゃない」

アリスは暗い目をして言った。その言葉を晶は受け止めるしかなかった。晶は最愛の恋人に、社会の理不尽を受け入れろと強要してしまったのだ。

「でもそれは私も同じだった。晶が困っているのに私は自分のことで頭がいっぱいだった」

「俺たち、またここからスタートできないかな?やっぱり俺はアリスを失いたくない」

アリスは首を横に振った。

「私達、もう駄目だよ」

そして言いにくそうに、

「時々会っている人がいるの」

「男?」

アリスは微かに頷いた。

「会社の人?」

晶の問いに、アリスはまさかと笑って、その後笑いを消した。

「ドイツの日本人会で一緒だった人。みんなそれぞれ帰国して、同窓会みたいに年に数回会っていたわ。最近になってその人とメールしたり、電話したり、会ったり」

「その人の事が好きなの?」

「好きって言うか・・・・、ものの考え方が似ているから一緒にいると安心する」

「バックグラウンドも同じだし」

「そうね」

晶はほんの少し皮肉を込めたつもりだったか、アリスはあっさり同意した。晶は深く息をしてから、

「俺と別れたいか?」

と聞いた。アリスは口を真一文字に結び、晶の目を見て頷いた。

「分かった」

晶はそう答えるのが精一杯だった。アリスはドアを閉めかけたが、ドアチェーンを外して身を乗り出して言った。

「播磨さんに電話してくれたそうね。ありがとう」

アリスの瞳は濡れている。晶も泣きそうになったが、泣くな俺、と自分を鼓舞して

「アリスの事はすごく好きだったし、愛していたし、尊敬していたし、それでも守ってあげたいと思っていた」

しかしここまで言って、

「アリスの夢を打ち砕こうとしたのに、守ってあげたいはないよな」

と自嘲的に笑った。アリスは真顔で首を横に振って、

「あなたはいつでも優しかった」

「じゃあ」

「さようなら」

アリスはドアを閉めた。晶は疲れた気持ちで玄関横の紙袋を拾いあげる。エレベーターの中で見ると、あの日のタクシーの領収書と釣りが入っていた。アリスらしいと晶はふと笑いを漏らす。しかしもうアリスと笑いを交わす事はないのだろう考えると、世界の中で自分が一人きりになってしまったような寂しい気持ちになるのだった。


外を出ると強い雨が降っていた。晶は傘を持っていない。早足で駅に向かう。濡れた紙袋が破けそうになって、晶は荷物を抱えこむように持った。四月の雨は冷たく晶の顔を濡らした。やがてその雨は温かくなって行った。その温かさは雨ではなく涙のものだった。女如きのことで泣くなと自分に言い聞かせたが、この雨の中では誰にも涙は気づかれない。晶は駅までの道を涙を隠すことなく歩いて行った。





オフコース「きかせて」をイメージして書きました。https://www.youtube.com/watch?v=_z5SUB1dwQM

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