中年女、性愛を語る
小百合は足取り軽く待ち合わせのレストランに向かった。今日親友の季実子と会って食事をするのだ。多忙な彼女らはそんな時間を年に一度しか持てない。小百合は窓際に席を取り、ぼんやり季実子を待っているとまもなく彼女はやって来た。
季実子は紺色のワンピースだった。ベルトも鞄は黒。珊瑚のネックレスとパンプスだけが赤かった。その暗い色が季実子の肌の白さを際立たせる。
小百合はピンクのスカートにピンクの靴を合わせて来た自分がちょっと恥ずかしくなる。二人はさっそくシャンパンで再会の乾杯を交わす。
「小百合のお子さんは今ニ歳だっけ?」
「下はニ歳。上は四歳よ。季実子のところは?」
「うちは中一。あー中学受験させて母校に送り込みたかった。それなのにあの子は親に逆らって」
と季実子はことさら怖い顔を作ってみせるのだ。季実子と小百合は同じ中高一貫校の出身だ。
「あの子だってその気になっていたのよ。それなのに姑が口を出して娘を公立に行かせるよう説得したのよ。あんな中途半端なレベルの私立に行かせて金を使うことはないって」
「中途半端で悪かったわね」
小百合は目の前に季実子の姑がいるかのように唇を尖らす。なまじ旦那の親に家を買ってもらうと大変だ。
小百合は互いの近況を報告し合いながら晶のことを話したくてたまらない。
そんな気配を察してか、季実子は
「メールで書いて来た会社の人はどうなったの?何か進展あった?」
「直属の上司になった」
「すごい!大発展じゃない!これで並居るライバルを蹴落とせるわね」
「そうでもないのよ。一緒にいればいるほど遠いと言うか。私、英語も中国語も喋れないじゃない?だから彼の期待に応えられなくて、しまいにゃ胃潰瘍になったわよ」
テーブルの向こうの季実子は同情にたえない顔をする。そして心配そうに
「喜一さんとうまく行っていないの?」
と尋ねて来た。
「そんな事はないわよ。私が仕事を続けられるのは彼のおかげ。会社近くに住まわせてくれて、残業のない日は家事もやってくれる。洗濯物は最早彼の仕事ね」
季実子は首を傾げつつ、
「家庭がうまく行っているのに、他の男性を好きになるんだ」
「それとこれは別よ。会社では既婚だとか誰の奥さんとか関係ないもん」
季実子は相槌を打たず、納得していない様子だった。小百合は考え考え、
「私は愛とか恋をおもちゃにすることがあるから」
と言葉を継いだ。
会話の流れを変えたくて小百合は言う。
「季実子のワンピース高そう。上品な感じがする」
「そんな・・・、大したことないブランドよ。歳をとると似合う色も限られて。体型も変わって服も全部買い換えたわ。こう言うの、おしゃれ更年期っていうのよね」
季実子は首を何度も横に振る。そして
「この年代になると、おしゃれは足し算じゃなくって引き算ね」
「引き算?」
「私達って余計なものがいっぱいくっついているじゃない?立っているだけで存在感満載よ。あ、悪い意味でよ。だから存在感を消して消して削ぎ落とすのよ」
季実子はこんなことも言った。
「ちょっとだけ可愛いを心がけている。可愛いてんこ盛りは、可愛いを通り越して怖いのよ」
「怖い・・・」
小百合は苦笑した。
「男を取っ捕まえてやると言う中年女の情念がメラメラと燃えているわね。鬼火が舞っているみたい」
晶も私の背後に炎を見ているのか。小百合は絶望的な気持ちになる。小百合はシャンパンを飲み干し、言った。
「もうすぐ四十四歳と言う年齢は消せない。だからせめて可愛いおばさんと呼ばれたい」
「そう。同感よ」
そこで季実子はちょっと黙った。そして小百合の目を見ずに、
「私も今気になる人がいるんだよね〜」
と軽い口調で言うのだ。
「どんな人?年下とか?」
「まさか。三歳年上。隣の部署の人。この前残業したら退社時間が同じになって一緒に帰った」
身長が高く五十前には見えないだの、結婚しているのに守りに入っていないだの、趣味が合うだの、酔いもあってか季実子は嬉しそうに話し続ける。
「それ、危険じゃない?」
と小百合が口を挟む。
「危険?」
「男性が年上でお互い既婚者。恋愛が始まっても不思議じゃない」
「そんな事はその時になったら考えるもん」
茶化すように答える季実子。もう始まっているんだわ。小百合は思う。
「せめて旦那さんにバレないように気をつけなよ」
つい説教口調になる小百合に季実子は苛立ったように、
「小百合だって同じようなもんじゃない。純愛ぶっているけれど、結婚しているのに他の男性に心を奪われているじゃないの」
「私のはギリギリセーフでしょ」
「今は何にもないだけで、何かの拍子で始まることはあるわ。彼から求められたらどうするのよ」
求められる?小百合は季実子の質問にたじろぐ。
さあ、小百合、こっちに来なさい。想像の中で晶は両手を広げて小百合を呼ぶ。私、あんなに広い胸の中に抱きしめられちゃうの?そして私は素っ裸にされて、私が裸ってことは徳永さんも裸で、私、徳永さんの下半身を見ちゃうの?
「いや、あの、そう言うのはちょっと…」
小百合は顔の前で自分の手を横に振りかざした。一人で顔を上気させている小百合を季実子は呆れた顔で見つめ、
「何自家発電してんのよ」
とからかった。
小百合は新たに運ばれてきたシャンパンを一口飲んで気持ちを落ち着けてから
「生憎私は家庭を壊す気はないので」
「遊び慣れた中年男みたいなことを言わないの」
季実子は苦笑しながら言う。
小百合は四十過ぎの女に性愛などあってはならないと思っている。誰だって中年女の性愛など見たくない。年取ったロックンロールスターを見たくないのと一緒だ。彼が過去にヒット曲を連発しようと、彼の美声であまたのお嬢さん達が失神しようと、今皺くちゃのお爺ちゃんである事実は動かせない。せいぜい昔のファンが「相変わらず素敵ですね」と追従を言ってくれるだけだ。
そう、年老いたロックンローラーはテレビに出てはいけない。中年女はセックスをしてはいけない。セックスを感じさせてもいけない。もちろん性愛真っ只中らしい季実子には言えないが。
それにしても私達、何しに会社に行っているのかしら。小百合は思った。
余計なものがいっぱいついている。
帰る道々小百合は親友の言葉を反芻した。余計なものってなんだろう。
地下鉄の窓ガラスに映る小百合は紛れもなく四十四歳になろうとしている女だ。
少しでも目を大きく見せたいのでアイラインでぐるりと目を取り囲んでいる。血色の良さを演じる為に濃い色の頬紅とルージュ。しかしこれで本当の若々しさを手に入れる事ができるかしら?
化粧の奥には蓄積した疲労、うまくいかない人生への苛立ち、子どもへの怒りがあり、それらが何の前触れもなくひょいと表に出てくる。
そして何より存在感を誇っているのは、この大きすぎる乳房だ。 この胸を服の上から見た男達は感嘆する。もちろん悪い意味で。
威風堂々、肝っ玉。
そんな言葉しか思い浮かばないだろう。小百合は大きなため息をついた。
「駅で新潟物産展が出ていたから買ってきてやったぞ」
喜一がダイニングテーブルに銘酒、緑川を置く。
「今から冷凍庫に入れておけば夕飯には冷えているよ」
と言って自ら瓶を冷凍庫に突っ込んだ。
「ありがとう。早速だけど子ども達のお風呂をお願いしていいかしら?」
「よしきた。おーい子ども達、風呂に入るぞ」
「えー、やだ!」
「えー、やだ!」
こんな時は小百合が一番苛立ちと怒りを覚える。言う事を聞かない子どもと、そんな子ども達をコントロール出来ない夫とに。
今までの小百合だったらここで酎ハイを一缶煽って怒りを鎮めるところだろう。しかし今日はそんな気にはなれないのだ。
入浴を終えた喜一達がテーブルに着く。子ども達の好物のチキンカツだ。小百合はどんどん自分の皿から子ども達に取り分けていく。
「小百合の分がなくなるよ。俺の皿からも子どもに分けなよ」
「ううん良いの。揚げ物はちょっと・・・・」
と答えてやっこを口に入れるのだった。
「緑川飲もうよ」
夫の言葉で小百合は冷凍庫から瓶を出し、グラスを一つ夫の前に置いた。
「あれ、小百合の分は?」
「私は良いの」
「また胃の調子が悪いの?」
喜一は心配顔だ。違う違うと小百合は大きく首を横に振り、
「お酒は太るし肌にも悪いからやめるの。会社の人達にどう見られているか気になって来た。私決めたわ。可愛いおばさんって言われるように頑張るって」
こう言う時は妻の意志は恐ろしく堅牢である。喜一は何も言わなかった。
その夜喜一は小百合に布団の中に潜り込んできた。夫婦生活を断る理由はない。小百合は喜一の愛撫に身を任せながら、本当はこう言う事は徳永さんとしたいのになと思う。その気持ちのせいか小百合の体はいつまでも潤わない。
「乗り気じゃないの?」
喜一は聞いた。
「ううん、ただ疲れちゃって。でもいいの、続けて。しているうちに気持ちよくなるから」小百合は目を閉じ、喜一を受け入れる。
「小百合は可愛いよ」
喜一は言う。このセリフ、本当は徳永さんに言われたいのに。小百合はそう思う。しかし喜一との営みは小百合に充足感を与えた。喜一が体を離した後、小百合は喜一の体に自分の腕を巻きつけ、やっぱりこの人とは離れられないと思う。
「季実子が・・・・」
「季実子さんがどうしたの?」
喜一は小百合の顔を覗き込んだ。小百合はためらった後に
「男の人と付き合っているんだって」
「季実子さんは結婚しているんでしょ?」
「中学生の子どもだっているわよ。男の人も既婚らしいけれどね」
「最低だな。季実子さんも悪いけれど、男がカスだな。男にとっちゃ遊びだろう。傷が浅いうちにやめておけって季実子さんに言っておいて」
「遊び?」
「既婚女性と真面目な交際をする男なんていねぇよ」
「まあそうでしょうね」
小百合は晶を思う浮かべつつ相槌を打った。そう、徳永さんと私は永遠に結ばれないのだ。
やがて喜一は寝息を立て始めた。小百合は喜一の体に布団をかけてやり、自分も目を閉じた。
翌朝小百合が出勤すると晶は長い足を持て余すように、机の下で足を組んで国際電話をしていた。電話を切ると、晶は小百合の方を向き、
「あ、桶川さん。会えて良かった」
会えて良かった?小百合はどきりとする。
「僕、これからベトナムとインドネシアに行ってきます。この輸出書類を作っておいて下さい。明後日商品が神戸の港に着くから、大阪のお客さんに送る手配をしておいて下さい。それから・・・・」
なんだ仕事の話か。小百合は落胆しつつ、仕事の話以外徳永さんが自分に話しかけてきてくれるはずないではないかと自分に言い聞かせる。
「じゃあこれから羽田に向かいますので」
と立ち上がると傍に置いてあったスーツケースを引っ張って、慌ただしく出て行った。
「行ってらっしゃいませ。お気をつけて」
小百合は晶を見送った。その後ろ姿を見ていると、昨夜誓った夫婦の絆はどこへやら、やはり晶を求めてしまうのだ。
それからと言うものは小百合は一日に何度も体重計に載っては、
「また痩せちゃったー」
と言っては服をめくり上げて 平らになった腹を夫に見せるのだ。シャツの中にある乳房は小ぶりになって尖っている。もうおばさんのおっぱいなんて言わせない。
緑川はいつまでも冷蔵庫の中だった。
六月の初めは小百合の誕生日だ。四十四歳である。めでたくも何ともないが小百合は自分への誕生日プレゼントに黒いワンピースを買った。季実子の言うところの引き算のおしゃれを心がけ、アクセサリーは着けず、頬紅や口紅の色を押さえ気味にして出勤した。
晶はベトナムとインドネシアの出張を終え、十日ぶりに出社した。日焼けした肌に黒い半袖シャツが似合い、東南アジアの青年のように精悍だ。小百合は心密かにときめいた。
晶も久しびりに目にする小百合の変化に気がついていた。遠慮しがちに聞いた。
「あの、桶川さん、お加減でも悪いのでしょうか?」
「私がですか?いいえ」
小百合は質問の意味が分からず聞き返す。
「それならばいいです。僕、これから中居と出かけます。中居、行こう」
晶は中居とエレベーターで二人になると、早速聞いた。
「桶川さんは俺の出張中に入院でもしたのか?」
「うんにゃ。元気に会社に来ていたぞ。お前だって桶川さんとメールや電話でやり取りをしていただろう」
「あのやつれっぷり、尋常じゃねえな」
晶が言うと中居は
「ダイエットでもしたんだろう。会社にスニーカーで来て、二駅分歩いて帰っていると息巻いていた」
ご自慢のおっぱいも小さくなって、と言う言葉を晶は心の中に留めた。あまりに下品すぎるので。
「土偶から埴輪へ大変身だな」
徳永晶三十三歳、それが彼に感想だった。
「 でもまあ、一周回ってまともになったよ、あの人は」
と付け加えた。




