心の奥を見つめてごらん
その日小百合は中居の勧めもあり早退し、保育園の迎え時間の前に総合病院の胃腸科に飛び込んだ。
問診と触診を終えた中年の医師は、
「なんだか胃潰瘍っぽいな。詳しい事は胃カメラを飲まないと分からないけれど、取り急ぎ胃潰瘍の薬を出しておくから。明後日の午前中なら胃カメラの予約を取れるけれど来れる?」
来れる、と小百合は答えた。
その晩、胃の痛みで小百合は一睡も出来ず、翌朝木村部長に電話を入れて、明日の胃カメラを終えるまで休むと伝えた。
胃カメラの日は夫の喜一も病院について来た。医師は検査中胃の内部をモニターで見ながら、あーこりゃすごいね、まごう事なき胃潰瘍だねぇと言う。
検査後小百合がベッドでぐったりしていると、
「今後の治療方針を話したいんだけど、ご主人にも聴いてもらう?」
と医師が尋ねてきた。小百合が頷くと、看護師が喜一を診察室に招き入れる。小百合は口の周りを拭いてベッドから立ち上がり、診察室の椅子に座った。
医師は小百合と喜一に胃の内部写真をモニターで見せ、
「予想通り胃潰瘍ですね。ここまで症状が進んでいると結構痛いと思いますよ」
喜一は心配気に画像と小百合を交互に見やった。
「今は薬で直せるので、入院も手術も必要ありません」
医師はそう言った後、小百合の方を向き、
「ストレスで胃潰瘍になる事もあるけれど、何かあったんですか?」
「最近異動しまして・・・・」
それだけ答えると、小百合は胸が詰まってしまい、目から涙が噴き出て来た。医師と喜一は顔を見合わせた。四十過ぎだと言うのに電話一本取れない私、徳永さんに疎まれている私。徳永さんへの気持ちがあればこそ、私は絶対に彼のアシスタントになるべきではなかったのだ。どんなに徳永さんが私を持て余しているか。
「聞けば聞くほど常識外れの上司なんです。親会社からの出向で、そのせいか威張り散らして部下が次々去って行くような職場らしく。慣れない妻をアシスタントの後任に据え、英語で電話を取らせるんですよ」
喜一が普段聞かされている小百合の愚痴を代弁する。
「ひどい上司だねぇ」
医師が相槌を打った。
「この間は電話中に相手の声が頭に入って来ない感じになっちゃって、口も動かなくなっちゃって、私、一体どうしちゃったんだろう・・・」
小百合はポツポツと自分の身に起こった事を説明した。医師は
「しばらく会社を休んだらどうですか?今のあなただったら自宅療養を要すると診断書を書けるよ」
「是非そうして下さい」
と喜一。私会社に行かなくなるんだと小百合は人ごとのように医師と喜一のやり取りを聞いていた。
「突発性難聴にもなっているから心療内科も受診して下さい。この病院内の心療内科で良ければカルテを回しますよ」
「そうしてもらおうよ小百合」
喜一は言う。医者がそうしろと言うんだから、そうしなければいけないんだろう。小百合は喜一に逆らわなかった。
医師は心療内科の予約ページにアクセスし、
「週明けの月曜午後が空いていますね。まずはカウンセリングから受けて・・・・」
カウンセリングだって?カウンセリングと言う言葉に小百合は反応した。
「そこまでして頂かなくって結構です」
突然の小百合の拒絶に医師は驚きつつ、
「結構とかそういう話じゃなくって、やっぱり一度カウンセリングを受けなさいって」
カウンセリングなんか受けたら私が十歳も年下の上司に変な気持ちを持っていることが明るみに出てしまうではないか。
「小百合、先生の言う事を聞きなさい」
喜一が口を挟む。こと夫に知られたら、嫉妬されると言うよりも、人間扱いされなくなる。馬鹿につける薬はないと昔から言われているが、馬鹿を導けるカウンセラーなどどこにもいないだろう。カウンセラーが私に言えるのは、まともになれ、正気に返れぐらいだ。
「心療内科ってなんだか敷居が高くってぇ」
小百合は取って付けたような言い訳を並べる。そして下手に出ることに決めた。
「先生の方で何か精神に効くお薬を出して頂けませんかねぇ」
「精神安定剤ならば出せるけれど、気休め程度の効果しかないと思うよ」
「それを飲んで様子を見て良いですか?」
「まあ良いけど・・・。でもね、あなた、胃が痛くて苦しかったんでしょ?体からのサインに耳を傾けない態度はどうかと思うよ」
いやいや十分に耳を傾けてます。原因は分かっている。徳永さんの要望に応えきれない自分が全ての原因だ。
「診断書は?」
「それは頂きます」
「じゃあ受付で渡すけれど、本当、無理しないでよ」
医師はそう言って小百合と喜一を診察室から送り出した。
待合室で喜一は何度も、カウンセリングを受けなくて本当に良いの?俺に聞かれたくない話もあるだろうから俺は同席しないよ、ねぇ受けようよと繰り返す。そのたびに小百合は
「そんな重症じゃないって」
と否定した。
出勤する喜一とは病院で別れ、小百合は一人で家に戻る。胃潰瘍の薬と精神安定剤を胃に流し込み、保育園への迎えの時間に目覚ましをかけて眠りについた。
「お前、今度の今度こそやばいぞ」
中居は空いている小百合の席に座り、隣の晶の方へ身を乗り出して言った。中居は更に言葉を継ぐ。
「これで桶川さんに辞められたら」
「三人連続で俺のアシスタントが辞めた事になるな」
晶は腕を組んで渋い顔だ。
「桶川さんは胃が痛いって言っていたけれど、もろ精神的な問題だろう。桶川さんを少しは気遣えよ。世間話をするとかさ」
「四十五の子持ちのおばさんと何を話せって言うんだよ」
「四十五じゃない。まだ四十三だって。俺たちの十歳上だもん」
「同じようなもんだ」
「コーヒーの一本も奢ってやるとかよ」
「半人前扱いして却って失礼だろう」
「お前だって桶川さんが少しは英語が分かると知って嬉しかっただろう?」
「俺はもっと英語のスキルが高い人を望んでいた。国際英語検定の平気点って六百点だろう。七百五十点以上の人が欲しいって木村さんには言ってあった。俺は九百点ある」
「お前、つくづく可愛くない奴だな」
中居は呆れ顔だ。しかし急に真顔になり
「お前、桶川さんに辞めて欲しいの?」
「今は辞めてもらいたくない」
晶は小百合の机に積まれた未処理書類の山を見て言う。中居は
「真面目な話、桶川さんにまで辞められたら、お前の評価に響くと思う。マネージメントに問題があるか、何らかのハラスメントがあったと見なされるだろうな」
ハラスメントとは聞き捨てならぬ。晶はむっとしながら
「この会社が安月給なのが元凶だろうがよ。この会社そのものがハラスメントだよ。俺達を島流しのような目に遭わせやがって」
「俺たちが出来ることは最早祈ることだけだ」
中居は晶の肩を叩いて自分の席に戻った。晶は中居の言う通りに祈った。
どうか桶川さん戻って来てくれ!
でないと俺の評価が下がっちまう。
やつれた顔を隠すために小百合は普段よりも強めに頬紅を付けた。鏡に向かう小百合を見て、
「君!会社に行く気か⁈」
と喜一は声を上げる。
「もうこれ以上は休めないわ。仕事が溜まっているの」
小百合は二日休んだのだ。
「自宅療養の診断書だってあるじゃないか」
と喜一。あんな診断書会社に出せるか、小百合は思う。精神力が弱すぎると思われてしまう。
「無理しないでよ」
と喜一はそう言いつつ自分の出勤の準備だ。私を気遣うならばせめて朝の保育園への送りを代わって欲しいと小百合は思っている。育児は自分の仕事だと思っている小百合は声には出さないが。
小百合は期待を持って体重計に乗った。百グラムも減っていない。どうなってんだ私の脂肪。
朝の分の薬を胃の中に流し込んで、小百合は自転車三人乗りで保育園に向かった。
小百合が時間通りに出勤すると晶は険しい顔でパソコンのキーボードを叩いていた。小百合が連続して休んでしまったことを詫びてから席に着くと、珍しく晶から
「大丈夫なんですか?」
と話しかけられた。
「はい、すっかり。わ、すごい書類の山!」
「付箋がついている書類が今日中ですので」
「了解しました」
小百合はさっそくパソコンに電源を入れると書類の山と格闘し始めた。
午前十時。国際電話がかかり始める。精神安定剤のせいか、昨日医師に話を聞いて貰ったせいか、今までのように電話の音で動揺しなくなった。
晶も中居も海外と電話中。次の国際電話は小百合が取る番だ。着信音と共に七番回線のライトが点滅する。小百合は落ち着いた気持ちで受話器を耳に押し当てた。小百合は昨日一つの英語フレーズを頭に叩き込んでおいた。
「My English isn't very strong. I’ll get someone who speaks English.(私はあまり英語が話せません。後ほど担当にかけ直させます)」
昼休みに晶が自動販売機でコーヒーを買っていると中居が近づいて来た。
「来てくれたな。良かったじゃん。これでお前のハラスメント疑惑も晴れた」
「まあな。俺には卓越したマネージメント能力があるから」
晶は身をかがめコーヒーを自販機から取り出す。
「ここでジュースの一本も買ってアシスタントの快気を祝え」
と中居。
「えー、なんかわざとらしくないか」
晶は難色を示した。
「お前ケチだなぁ」
「金の問題じゃなくって、俺がそんな軟派なこと・・・」
「軟派でも硬派でもどっちでもいい。少しはご機嫌を取って退社のリスクを減らせ」
気乗りしない返事の晶を自販機前に残して、中居は先に席に戻った。
ご機嫌とりねぇ。晶は席に座って子供服のサイトを眺めている小百合のそばに姿勢を正して立つと、言った。
「桶川さん、お加減はいかがでしょうか?」
小百合は驚いて座ったまま晶を見上げる。
「無理しないで下さいね。たまにはこう言うものでも飲んで、元気に頑張って下さい」
向かいの席から晶の差し出した缶を見て、中居は目を疑う。晶の選んだものはよりによってブラックコーヒーだ。胃の悪い人にそんな物を飲ませるなよ。中居は心の中で叱責する。
小百合は自分の財布からコーヒー代を出そうとするのを晶は手で制して、
「良いんです。僕が勝手に買ってきたので」
「では遠慮なく頂きます。ありがとうございます」
小百合は頭を下げた。晶は義理は果たしたと言わんばかり自分の席に戻るとヘッドフォンをつけて音楽を聴き始めた。
一体今のは何だったのだろう。小百合は幽霊にでも遭遇したような気持ちだった。元気で頑張ってって、敬老の日のプレゼント贈呈のフレーズみたいだ。でも私は徳永さんのために頑張りすぎて胃潰瘍になっちゃったんだけどなぁ。これ以上頑張れない。
私、このコーヒーを飲まなくてはいけないのかしら?飲まなきゃだめだよね。上司が買ってくれたものだもの。小百合はプルタブを開けるとキンキンに冷えたブラックコーヒーを飲み干した。中居はディスプレイの隙間から心配そうに小百合を見つめた。
胃の中に落ちていくブラックコーヒー。
また胃が痛くなった・・・・。




