言葉は鉛の矢のように
年が明けて、小百合が出勤するともうはるかはいなかった。今日から小百合が晶の隣だ。今日の小百合はアイラインをしっかりと引き、目元の力強さを演出する。しかしブラウスは薄いピンク、膝丈のスカートはグレーと、服装はあくまで柔らかい印象だ。晶は濃紺のスリーピースに身を包んでいる。ベストを着る徳永さんはレットバトラーみたい。でも私はスカーレットじゃない。ウエストのくびれがない小百合はブラウスの裾をスカートから出している。小百合は自分がみそぼらしく感じた。
十時を過ぎるといつものように国際電話が鳴り始めた。晶は朝からヘッドフォンを付けっ放しでひっきりなしに英語で喋っている。合間合間に中居も電話を取って海外からの問い合わせに答えている。英語が話せる二人が電話中だと言うのに、他の国際電話回線も鳴り始めた。木村部長は国際電話に出なくていいと言っていたので、小百合は二人の電話が終わるのを待ったが、彼らは一向に電話を切りそうにない。電話はいつまでも鳴り止まず、小百合は耳を塞ぎたくなる。九コール目で耐えきれず、小百合は電話に出てみた。
「Good morning.It is Tsubaki interior」
小百合がそう受話器に向かって言うと、相手は香港の会社名を名乗った。そして自分の名前を名乗り、晶と話したいと言った。
「He is on another line right now.Should I have him call you back?」
(彼は他の電話で話し中ですが、折り返しますか?)
そうして欲しいと先方が答えたので、小百合は相手の会社と名前を復唱して電話を切った。
ちょうどその時中居の電話は終わった。中居は目を丸くして、
「桶川さん、英語を話せるんですか⁈」
中居の問いに、小百合は大きくかむりを振り、
「話せると言うほどじゃ・・・。出産前は海外旅行が趣味だったので、日常会話程度です」
と頬を赤らめた。同じく晶も電話を終え、
「英語の検定を受けた事はありますか?」
と面接官さながらの口調で小百合に聞いた。
「二年前、下の子の出産直前に国際英語検定を受けて、平均点は取れました」
「日本の?世界の?」
「世界の非英語圏の平均点です」
小百合がそう答えると再び電話が鳴ったので、晶と中居は電話を取り、小百合は輸入書類作成に戻った。実は小百合は正月休みを利用して、簡単な商用英語を頭に叩き込んで置いたのだ。
パソコンのディスプレイの隙間から晶と中居は目配せをして、口の端に笑いを含ませて頷きあった。
「徳永くーん、あけましておめでとうー」
顔を上げずとも小百合は声の主が分かった。熊澤りり子だ。りり子はもう一人の女性社員と連れ立ち、
「ねぇ、私達二月の連休にスノボに行くの。徳永くんと中居くんもどうかしら?」
と二人を誘う。
中居は自分のスマートフォンを確認して、
「あ、俺先約があるわ。ごめん」
「じゃあ、徳永君は?」
「俺は行くよ」
晶が答えると、本当?やったー、とりり子ともう一人の女性社員が歓声をあげる。
「詳細が決まったら教えてよ」
と晶。りり子は
「うん、ラインするね」
小百合は目を書類に落としたまま、ラインだって、すごい、と思う。個人的に連絡を取り合っているんだ。一体徳永さんはどんな顔で喋っているんだろう。小百合は晶の横顔を盗み見た。
晶は信者に笑いかける教祖のごとく柔和な笑みを浮かべ、ご丁寧に「ありがとう」と礼を言いながらの笑顔の追加サービスまで怠らない。こんな笑顔、私には見せたことがないのに。
私は一番近くに座っているのに、一番遠い存在なんだなと小百合は寂しく思った。
一月ほどして、小百合がいつものように折り返し電話のメモを晶に渡すと、晶は
「先方の用件を聞いても良いですよ」
と言ってきた。それは許可の体を取ってはいるが、実際は用件を聞いておけと言う命令だった。
晶と中居が外出中、香港から晶宛の電話がかかってきた。香港の英語は分かりやすいと小百合は思っている。彼女は勇気を出して、
「徳永に何かメッセージはございますか?」
と英語で聞いてみた。すると電話口の向こう側は言いたい事は言わせてもらうと言わんばかりに、早口の英語でまくし立ててきた。小百合は全く聞き取れない。しかし日本人特有の悪い癖で相槌だけはしっかりと打ち、
「後ほど徳永に折り返させます」
と伝え、電話を切った。晶の机には「香港のRK マテリアルのリー様に折り返しお願いします」とメモを残した。
帰社後メモを見た晶は早速香港へ折り返しの電話をかけた。電話口で晶は盛んにsorryと謝っている。電話を切った後、晶は難詰口調で、
「桶川さん!リーさんから何か聞いていましたか?リーさんが桶川さんに伝えたって言っていましたけれど」
「聞いたんですけれど、どうしても聞き取れなくって・・・・」
小百合は小さくなって答えた。晶は何かを言おうとしていたが、言葉を飲み込んで次の用件の電話番号を回す。聞き取れなかったら聞き取れなかったことも俺に伝えておけ、ボケ!
小百合は晶が飲み込んだ言葉が分かるようだった。
「すいませんでした」
小百合は晶の横顔に向かって頭を下げた。鉄の塊でも飲み込んだようにみぞおちが痛くなった。
通勤時間を小百合は英語のリスニングに当てていたが、その日の帰りはリスニングをしていると乗り物酔いをしてしまい、イヤフォンを早々と外した。
電話での失敗を犯してから、小百合は電話が鳴るとドキンとする。殊にそれが国際電話を意味する五、六、七番回線だと動悸がしてくるのだ。手が震えて受話器が取れない。それでもいつまでも鳴らせっぱなしではそれも仕事として失敗だ。小百合は大きく息を吐くと決死の覚悟で受話器が耳に押し当てる。そんな日々が続いた。
小百合にとって晶の国際電話をかける姿は憧れであり、ときめきであった。だから晶が英語で話し出すと小さな動物が飛び跳ねるように小百合の胸は高鳴るのだが、その日は違った。
「Could you put me through to the sales department?」
(この電話を営業部に回して下さい)
晶の英語が鉛の矢のように小百合のみぞおちに突き刺さって、脂汗が滲んで来た。晶が国際電話で一回線使い、次いで中居も国際電話に出て、次こそ小百合が海外からの電話に出なければならない。次の電話が鳴った。晶も中居も電話を終えそうにない。小百合は意を決して電話に出た。
電話の向こうは香港のRKマテリアルのリーだった。その名前を聞いた途端、極度に緊張した小百合の頭には英語が入って来なくなった。徳永に折り返させますとだけでも言おうとしたが、今度は言葉が出て来ない。痛いほど受話器を耳に押し当てて小百合が黙っていると、中居が自分の電話を終えた。小百合は相手に何も言わずに保留にし、中居に目で救いを求めた。中居は何も聞かないうちに、
「僕が出ましょう」
と言って、リーの電話を受け継ぐ。小百合はみぞおちをかばって前かがみになる。晶は自分の電話を終えるとヘッドフォンを外し、手首のオメガの時計を見ながら、
「僕、出掛けます。帰りは二時過ぎです。ホワイトボードに書いておいて下さい」
と小百合に言い捨てて立ち上がる。晶にも小百合の顔色の悪さは気がついたが、こんな時にさっと気遣いの言葉が出るような男ではない。出産後二年も経っていると言うのに、産後の肥立ちが悪いのかと考え、リュックを背負うと会社を後にした。
「桶川さん大丈夫ですか?さっきから具合がそうですが」
中居が声をかけた。
「ごめんなさい。胃が痛くって」
小百合は晶に命じられた通り、ホワイトボードに彼の帰社時間を書こうとしたが、立ち上がる事は出来なくなっていた。




