会社はある日牙を剥く
冬季ボーナスの明細をチラリと見て小百合は明細を鞄にしまう。月給一月弱しか入っていない。入社してからずっとこうだ。子ども二人分の保育料と、子どもが病気で保育園に行けない時に頼るベビーシッター代であっと言う間に消えていく。小百合は左手のダイヤの指輪を見つつ、喜一と結婚しておいて良かったと思うのだ。金の為に結婚したわけでないが、夫の収入で余裕がある生活ができるのは事実だ。
翌日、晶のアシスタントの喜多島はるかは座ったまま隣の席の晶に身を乗り出すようにして、小声で
「実は先程辞表を提出しました」
と切り出した。えっ、と晶は思わず大きな声を上げた。
「十二月いっぱいは出勤します」
はるかは晴れ晴れとした顔だ。次のアシスタントにも一から教えるのか、その前に次のアシスタントは見つかるのか。晶は暗澹たる気持ちになった。
クリスマスイブのこの日、東京には冷たい風が吹きすさんでいた。小さな子どものいる小百合にはクリスマスは仕事が一つ増える行事に過ぎない。子ども達へのプレゼントは既に手配して押入れに隠してある。帰り道にはスーパーに寄って子ども達の好物の刺身でも買わなくては。大人へのプレゼントにシャンパンでも買おうかしら。
今日の晶は見るからに仕立ての良い紺のスーツに身を包み、白いハンカチをジャケットの胸に刺していた。ネクタイはいつも黒。徳永さん、恋人はいるのかな?と小百合は考える。当然いるよね、あんなに素敵なんだもん。
「徳永くーん、私これから渋谷のお客さんのところに行かなきゃいけないんだけど、一緒に車に乗っていく?」
そう声をかけるのは熊澤りり子。強めにカールされた髪は明るい色に染めてられている。晶は
「俺、まだ出かけられないんだ」
その答えにりり子はちょっと残念そうな顔を残して出かけて行った。
徳永くーん、だって。すごい。そうよね。こんな非上場の三流企業に一流大学卒のエリートが舞い降りたんだもん。独身女だったらみんな参戦する。いい暮らし行きチケットへの争奪戦だ。もっとも私は参戦する必要はないけれど。結婚しているんだから。
そう自分に言い聞かせつつ、小百合は自分がもし参戦したとしても勝ち目はないと分かっている。年齢のせいではない。晶が選ぶのはきっと特別な女だ。
いいの、私は遠くで徳永さんを見て、静かに彼の幸せを願っているだけで。
小百合の部署は人員が多く、そんなには忙しくない。小百合が仕事の合間に徳永のことを考えていると
「桶川さん、ちょっと」
と部長の木村が小百合を呼んだ。
「何でしょうか?」
小百合は自分のカーディガンに名札がついていることを確かめてから上司の元に駆け寄る。
「徳永も来い」
あろうことか木村は晶まで呼ぶではないか。晶は自分が呼ばれることを予測していたかのように落ち着いた足取りで近づいて来た。晶は小百合の隣に立つ。小百合は晶を盗み見た。
木村は小百合に言った。
「喜多島さんが今月一杯で辞めることは知っているよね。そこで後任は桶川さんにお願いしたいんだ」
小百合はしばらく上司の言わんとしていることが分からなかった。晶のアシスタントになれと言うことか。
「私は中国語も英語も出来ませんが」
小百合がそう返答すると、
「海外からの問い合わせには徳永と中居が応じるから君は電話に出なくてよろしい。主に貿易書類の作成をして。徳永、これでいいな」
晶は平坦な声でいいです、と答えた。木村は更に晶に向かって、
「桶川さんは小さなお子さんが二人もいるから残業させるなよ」
「分かっています」
と同じトーンで答える晶。
木村部長の隣にはいつの間にか田渕部門長までやってきて、彼等のやり取りを聞いている。
「私には荷が重すぎます!総合職でもっと出来る人の方が…」
小百合が固辞しようとすると、木村は
「みんな自分の仕事を抱えて大変なんだよ。それに桶川さん、今暇でしょ?」
よく見ていやがる。小百合は黙った。
「喜多島さんが辞めるまで時間がないから今日から引き継ぎして。じゃあ僕出かけるから。田渕さん、行きましょう」
木村と田渕はお互いに連れ立って出かけて行った。
晶と二人で残される小百合。徳永さんと話すのは初めてだと小百合は思う。
「私では役不足かも知れませんがよろしくお願いします」
小百合が頭を下げると晶は相変わらず感情のない声で、こちらこそと応ずる。私じゃ不満なんだな。小百合は思った。
木村と田渕はエレベーターに乗った。田渕は言った。
「徳永の奴、不服そうだったな」
木村がその言葉を受けて、
「仕方ないですよ。あいつのところに優秀な女の子をやってもすぐに辞められちゃうんだもん。その癖前任者が辞表を提出した矢先に、新しいアシスタントを寄越せって矢のような催促。もうあいつの要求には応え切れませんって。会社は打ち出の小槌じゃありませんよ」
「桶川さんだって社歴が長い分しっかりやっているんだろう?」
「普通にやってくれますよ。新しいアシスタントは桶川さんだと徳永に言ったら、あいつ、英語の喋れるアシスタントにして下さいってごねたんですよ。だから僕、言ってやりましたよ、桶川さんだって二十年前に英文学部を卒業しているんだぞって」
田渕は声を出して笑った。
「だいたいうちは採用条件に英語を入れていないんだから、英語を喋る社員なんていないよ」
二人の男は通りに出て地下鉄に向かう。田渕は
「桶川さんなら二回も育児休暇を取って、二回とも戻って来たんだから辞めないだろう」
「そう、桶川さんなら」
しかし口には出さないまでも二人は別のことを考えていた。
桶川さんならば辞められてもいいし。
小百合は自分の席に戻り、残りの業務を片付ける。隣の席の大鳥さんに、
「異動することになりました。隣の国際業務推進チームです」
大鳥さんは驚いた顔で、
「桶川さん英語を喋れたっけ?」
「あんまり。私に務まりますかね」
そして声を潜め
「どうせ私ならば辞められても構わないと思っているんでしょう。木村さん達の思惑なんて分かっているんだから。えーいこうなったら嫌がらせで定年まで居座ってやる」
と強がりを言いつつ、
「不安だなぁ。あんまり歓迎されていないみたいだし」
と本音を吐露した。
「歓迎されていないって誰に?」
小百合は言い淀んだ後、
「・・・・・徳永さんに」
「ふん、あの人か。生意気ね」
大鳥さんは憎々しげに言い捨てるのだった。
午後から小百合は晶のチームに席を移した。晶はとっくに出かけている。晶の隣が喜多島はるかでその隣が小百合だ。はるかは具体的に業務内容を説明した。
「海外からの電話には出なくていいです。外線五六七が徳永さんと中居さん専用回線です。国際電話はここにかかってきています。一番にやって頂きたいのはこちらです」
と言ってはるかは貿易書類を差し出す。
「海外の工場で作らせた製品を日本に輸入したり、他の国に輸出したりします。大丈夫ですよね?」
これならば小百合が二十年間飽きるほどやって来た仕事だ。小百合は深く頷いた。
「後は徳永さんとか中居さんに頼まれたことをやって下さい。中居さんは自分でやるけれど、徳永さんはアシスタントに振ってきますので」
ここで電話が鳴る。はるかは受話器を取り、外線五番を押してから英語で話し出す。小百合は与えられた輸出書類をパソコンに打ち込んで仕上げていく。
お互いに仕事の手が空いた時に、小百合は
「徳永さんってどういう人なのかしら」
と世間話の体で聞いてみた。
「せっかち」
はるかは即答する。小百合は大股で歩く晶の姿を思い出し、思わず苦笑する。
「それから?」
恋人とか奥さんはいるのかしら、そんな気持ちで小百合は質問を重ねる。
「それから、自分の思い通りにならないとムッとする」
はるかの返答に不安を覚えた小百合は一番気がかりなことを聞いてみた。
「喜多島さんが辞めるのは、もしかして徳永さんが嫌だったから?」
それはないですとはるかは答えた。
「待遇面の不満が原因です。香港にいた時は赴任手当が出て、アパートの家賃も会社持ちだったのに、帰国したら手当はなくなり家賃も自分持ち。これじゃやって行けませんよ」
とはるかは溜まりに溜まった不満を爆発させる。
小百合を安心させようとしてか、はるかは付け加えた。
「徳永さん、普通の人ですから。顔がカマキリなだけで」
若い女性にかかってはあんな美しい人が昆虫か。喜多島さんはよっぽどハンサムを見慣れているのね。小百合は小さく整ったはるかの横顔を見つめた。
「この人事、酷くねぇか?」
連れ立って外出した中居に晶は愚痴った。
「確かに酷いな。木村さんも田渕さんも俺たちの業務内容を把握していないんだろうな」
「俺、播磨さんに相談しようと思う」
播磨とは、八代商事での晶の上司だった。
「それだけはやめろ」
中居は即座に反対する。
「どうしてだ?」
晶はムッとした顔を見せた。
「角が立つだろう。そりゃ播磨さんの力ならば英語が喋れる総合職の女の子をアシスタントに変えられるよ。でも、それをやっちゃったら木村さんも桶川さんも面目丸潰れだよ」
「確かにな」
晶は渋々同意する。
「俺もこの前変な事を言っちゃったけれど、桶川さん、きっと普通の人だよ。普通に仕事してくれるって」
「だから普通じゃ俺たちのアシスタントは務まらないって」
中居は苦笑しつつ、
「分かる、分かるよ、分かるとも。でもな徳永、椿の社員は一体いくら貰っていると思うんだ。男性社員の年収は俺たちの半分だぞ。況んや女性をや。みんな薄給で働いているんだからさ、英語を喋ろとか商談について来いとか言えるはずないだろう。ここは八代じゃないんだから、もう諦めろ。そうしないと自分が辛くなる。俺はもう悟りの境地だぞ」
中居は涼しい顔だ。晶は深くため息をついた。
「試練のクリスマスイブだ」