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可愛い人  作者: 山口にま
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軍曹への捧げ物

翌朝、子供たちが出掛け際に立て続けに便意を訴えた為、家を出るのが遅くなってしまった。復帰二日目にして遅刻する訳には行かないので小百合は駅から会社まで走り抜けた。

九時前のエレベーターホールは混んでいる。目に前のエレベーターは扉が開くが早いか、会社員達が一斉に詰め入りすぐに満員だ。小百合が諦めて他のエレベーターを探しかけると、エレベーターの中の徳永晶と目が合った。胸が高鳴り小百合は黙礼すら忘れてしまう。とっさに晶は体を横にずらし小百合のために場所を空けた。混んでいる中に無理矢理自分の体を押し込めるなんてそれこそおばさんみたいだ。小百合はためらったが晶がエレベーターの開ボタンを押したままの様なので意を決して晶の隣に滑り込む。

礼を言うために小百合は晶を見上げた。晶の背は高く、小百合はうんと顔を上げなくてはならない。間近で見るとこの人はなんて整った顔でしているのだろう。小百合は短く礼だけ言うとすぐに顔を伏せた。汗臭い自分が恥ずかしい。

小百合の会社の階にエレベーターが到着する。いち早くエレベーターから降りた小百合を追い越して大股で晶はオフィスに入って行く。


株式会社 椿インテリア

それが小百合の会社であり、晶の出向先だ。


小百合が席に着くと、既に晶は着席していて慌ただしくパソコンにスイッチを入れた。晶の隣席のアシスタントはまだ始業前だと言うのに前のめりにパソコンに向かいキーボードを打ち付けていた。今日の晶のいでたちはギンガムチェックのワイシャツに紺色のジャケット、薄い色のパンツだ。黒のネクタイが全体を引き締めている。ヨーロッパの若き王族みたいだと小百合は思う。

晶は小百合の隣の部署にいて、小百合の方を向いて座っている。顔を上げると嫌でも視界に晶が飛び込んで来るのだ。目が合いそうになると小百合はパソコンのディスプレイの陰に隠れた。

これじゃ仕事に集中出来ない。小百合は顔を手で覆う。気持ちを落ち着かせて机に積まれた書類の山に取り掛かる。五時までに全て片付けるのだ。

小百合が作業に没頭しかかると今度は、

「This is Shou Tokunaga from Tsubaki interior company.May I speak to Mr. Lee, please?」

晶の国際電話だ。小百合の心臓は魚が水面から跳ね上がるようにドキンと跳ね上がった。電話の向こうで何か頼み事をされているらあいく、晶は

「why not?(もちろん大丈夫ですよ)」

と応じている。

晶の英語には訛りがある。それで彼が日系人でも外国生まれでもない事が分かる。小百合は貿易商だった父親の英語を思い出す。


晶は立ち上がってホワイトボードに行き先を書いて、会社を出る。出掛けてくれると小百合はホッとする。


午前十時、一時間遅れの時差のある中国や香港から問い合わせの電話がひっきりなしに入り、晶のアシスタントの樋口華恵が英語や中国語で応じている。彼女は出向ではなく小百合の会社の社員だ。同僚達は彼女の事を密かに「会社の秘密兵器」と呼んでいる。


初夏の到来を思わせるある日、晶はひどくざっくばらんな服装で会社に現れた。流行発信企業を標榜する小百合の会社では服装は自由なのだ。晶は消炭色の半袖シャツを着て、オリーブ色のアーミージャケットを羽織っている。暑くなったのか晶は顔をしかめてジャケットを乱暴に脱いだ。シャツは肌に貼り付き、鍛えられた腕や胸の筋肉が服の上からでも分かる。やっぱりこの人は軍曹だわ。小百合は仕事を忘れてまじまじと晶を見つめてしまう。視線に気づいた晶は小百合の方を見やる。目が合ったその時、小百合は顎をしたたかに殴りつけられたボクサーよろしく瞬時にノックアウトだ。

小百合は顔を伏せてパソコンの画面に隠れる。蛸壺に隠れる一兵卒さながら。


ボクサーになったり、兵隊になったり、私、一体何をやっているんだろう。


子どもの寝かしつけも家事も終わった短い憩いの時、小百合は安いスパークリングワインを飲みながら、そういえば徳永さんはいくつなんだろうと考えた。三十五、六に見えるがあの尊大な態度、もしかしたら四十ぐらいかしら。

小百合はいたずらに徳永晶の名前をネットで検索してみた。


一橋大学水球部のホームページに、徳永晶 経済学部 四年 百七十八センチ 体重七十キロと記載があり、あの切れ長の目で笑っている写真が添えられていた。一橋大チームが徳永のシュートで勝利を飾った記事だった。

徳永さん、一橋大卒だったのか!一点の曇りもない、紛れなきエリートだ。

その記事は十一年前のものだった。と、言うことは、今は三十三歳である。


三十三歳と言う年齢に小百合は打ちひしがれる。


三十三歳よ!三十三!


四十三歳の二人の子持ち中年事務員に手が届くような存在ではない。あーもう!好きになって損した。私のときめきを返せ!小百合は残りのスパークリングワインを飲み干すと子ども達の待っている寝室に向かった。

徳永晶なんてもうやめるわ。


翌朝、晶は濃い青色のシャツに黒いネクタイ、クリーム色のジャケットと同色のスラックスと言ういでたちで出社してきた。小百合はパソコンの画面の隙間から彼を一瞥し、ジゴロみたいな格好をしやがって、と心の中で毒づいた。しかもあの口髭。いくら服装自由だといっても髭はどうかしらね。本当にだらしがないんだから。

小百合は自分の仕事に没頭する。やがてまた晶の国際電話が始まった。

「I will arrive at Singapore airport at 5 pm tomorrow.Can I meet you next morning?」

徳永さんは明日から出張なんだ。しばらく会えないんだなぁ。小百合はまた晶をディスプレイの陰から見つめてしまうのだ。


一流大学卒業で、上場企業勤務で、英語が出来て、水球も上手くて、やるべきことはやっているんだからちょっとぐらい遊び人風の格好してもいいわよね。

小百合は徳永晶をやめることはできなかった。


ある晩晶が残業していると、向かいの席に座る、同じく八代商事からの出向組の中居が身を乗り出してきて、

「桶川さんはお前の事が好きなんじゃないかな」

と言ってきた。

「えっ!あの人子どもがいるんだろう?」

「でもいっつもお前のことを見ているぞ。それにお前が話しかけたら赤くなっていた」

「話しかけたって、宅急便の有無を聞いただけだよ」

小百合が自分を見ているかどうかは知らないが、小百合と目が合うと恐れおののいた顔をするので、何らかの感情はあるのだろうとは晶は思っていた。

「モテますな」

からかうような口調の中居に晶はパソコンの画面から目を離さず、応じた。

「不倫で熟女。しかもぽっちゃり。悪い、俺は一部の好事家じゃないから」

「あの人だって入社当時は痩せて可愛かったらしいよ」

「そんな事を言ったら、八十のばーさんだって昔は可愛い女学生だっただろう」

「ま、そりゃそうだ」

晶はふと思いついたように言う。

「あの人土偶っぽくねぇか、失礼だけど」

「お前、本当に失礼だな!彼女はお前に想いを寄せているんだぞ」

「知らねえよそんなの。俺が誘惑したわけじゃあるまいし。あのどっしりとした体形、あのフワフワしたブラウス、あの厚化粧、土偶そのものだよ」

「産後は太りやすくなるからな」

それで小百合の話は終わりになった。


そんな矢先、部署に激震が走る。

晶のアシスタントの樋口華恵が、あろうことかボーナス支給日の翌日に辞職を申し出たのだ。

「ま、分かるけれどね」

と小百合の隣席の大鳥さん。

「若くて綺麗で、しかも三ヶ国語も話すような女の子がこんな安月給の会社・・・・。おまけに今回もボーナス、いくら出たと思っているの?給料一ヶ月分も満たないのよ。この会社に残るのは私らみたいな他に行き場のないおばさんだけよ」

その言葉に思わず微苦笑する小百合だった。


樋口華恵の有給消化中、晶は当然の権利のように新しいアシスタントを上司に要求する。

「英語と中国語が喋れて商談にも連れて行けるレベル」

そばで聞いていた小百合は、そんな秘密兵器はもううちの会社には居ないのよと心の中で呟いた。


しかし驚いた事に、会社はまた晶のために秘密兵器を投入したのだ。新しいアシスタントは喜多島はるか。前任の華恵よりも幼くおっとりした感じだ。香港支社から帰任させられてきたと言う。会社は親会社の社員に言いなりだ。


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