おとぎ話の後は
晶と中居の帰任に日が近づいても誰も送別会を言い出さない。三年間椿インテリアの社員は彼らを同僚として扱って来たが、本当は同僚なんかじゃない。彼らは目を見えない禁色を身につけている。そんな天上人に、買収された会社の社員が親しい口を利けるわけはないではないか。熊澤りり子もそれは同じで、軽口は叩くことはあっても、かつてのようにグループでの小旅行やパーティーに誘う事はもはやない。それは小百合も同じだった。小百合は晶から与えられたブローチを化粧箱に収めてクローゼットの奥にしまった。こんなガラス玉で舞い上がって馬鹿みたい。
帰任の辞令を受けた日から晶は出張ばかりだ。中居も外出して午後は八代商事で過ごすことが多くなった。
椿インテリアの名前で受けた契約は小百合と晶でこなさねばならない。小百合は日々貿易書類を作っては海外の工場から家具を出荷し続けた。小百合を苦しめた海外からの電話は目に見えて減って来ている。小百合の気持ちも、海外進出チームの仕事も先細りだ。
六月の晦日、先に家を出る喜一は玄関で小百合を抱きしめる。いつもより長い口づけを交わした後、喜一は
「今日は遅くなるけれど平気?子ども達のお迎えは代われないけれど」
「うん、平気。でもどうしてそんな事を言うの?」
「いや、月末だから忙しいかと思って」
もしかしてこの人は今日が晶の最終出社だと知っているのかと小百合は思った。
「仕事、頑張って」
喜一はそう言って玄関を出る。小百合の胸は罪悪感で疼いた。その罪の痛みも消えぬ間に小百合はスワロフスキーのブローチを胸に刺して出社した。今日が最後なんだから。小百合は心の中で言い訳をした。
最近では珍しく晶も中居も朝から出社していた。晶は涼しげな薄い青のスーツで、最終出社日らしくきちんとネクタイを締めている。なんて素敵なんだろう。小百合の目は晶に奪われっぱなしだ。それは初めて晶を見た日から何も変わっていなかった。
晶はヘッドホンをつけて海外への電話だ。この姿も今日限り。今日が永遠に続けば良いのに。
五時の定時を過ぎてから、小百合はデスクの下に潜り込みパソコンのコンセントを外した。海外進出チームはこれにて解散。他の部署員も机の整理を始め、週明けからの異動に備えている。小百合は机の引き出しから膨大な量の貿易書類を出して、机の上に積んで行った。晶も同じく引き出しやキャビネットから書類を出して八代商事に持っていくものと椿インテリアに置いておくものとに取捨して行く。
「宅急便で送るのならば送り状を書きますよ」
小百合が言うと、晶は新しい名刺を取り出して、ここが宛先ですと言った。
株式会社 八代商事 国際営業二部二課 徳永 晶
もう晶は椿インテリアの社員ではない。宗主国への御帰還だ。戦利品はこの商権か。小百合は何も考えないようにしてダンボールを数えて、その数だけ送り状を書いた。
「僕の机の書類は持って行きます。夜にでも箱詰めしますのでそのままにして下さい」
晶は言った。普段の退社時間はとっくに過ぎて、保育園の閉園時間が迫っている。
「もっとお手伝いしたいのですが、今日はどうしても・・・」
そう言いかけた小百合を晶は制して、
「もう帰って下さい。最初から最後まで桶川さんには無理させっぱなしですみませんでした」
晶は立ち上がって頭を下げた。中居も立ち上がって丁寧に体の前で手を重ねた。小百合は晶を見上げる。いつも盗み見ばかりだったけれど、今日は真正面から見ておきたい。背が高く、端正な顔立ちで、おまけに英語まで出来る。こんな完璧な人、私は他に知らない。さようなら私のレット・バトラー。
「私こそ色々勉強させて頂きまして」
小百合も頭を下げつつもそんな月並みな事を言いたいわけじゃないのにともどかしく思う。その時中居が携帯電話を手に席から離れた。
小百合は言った。
「徳永さんと過ごしていた一年半、私はおとぎ話の中にいるようだった」
そう、砂糖菓子のように甘くて、儚い。絵本を閉じたら終わってしまう一瞬の夢。
これはおとぎ話の続きなんだ。小百合は自分に言い聞かせ、晶の手の甲を一度だけ触れて、すぐに手を引っ込めた。山と積まれた書類に遮られ、一瞬の触れ合いは誰にも気づかれなかったはずだ。この人は私の中で生き続ける。私が歳をとって皺くちゃのお婆さんになり、そしてこの人も老人となり、二人が長い歴史の中で短い生を終えようとも、私のこの気持ちは永遠に残るだろう。
小百合はもう一度深い湖を覗き込むような眼差しで晶を見た。晶はまっすぐに小百合の視線を受け止める。
晶は言った。
「小百合さんは可愛い人だ」
魔法が解ける瞬間、それは強い光を放った。