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可愛い人  作者: 山口にま
13/14

不機嫌なおばさん

約束通り小百合は刺身を買いにスーパーに寄った。レジは混んでいて小百合の順番はなかなか巡って来ない。小百合は内心舌打ちする。スーパーを出たら子ども達のお迎え。そして家で待っている山のような家事。六月の夕暮れは暑く、保冷剤をつけてもらったとは言え刺身が傷まないか小百合は気が気でならない。

いつもと同じように帰宅後は小百合一人で子ども達の面倒を見なければならない。靴をしまうように、手洗いをするようにと小百合は何度も子ども達に促した。汚れた衣服を二人の通園バックから取り出し、明日の着替えと取り替える。夕食の下ごしらえと並行して子ども達を入浴させて自分も手早く入浴。自分の誕生日だと言うのに子ども達の世話は相変わらず小百合の仕事。自分の誕生日パーティーの為にわざわざ混み合ったスーパーに寄り食材を買い求め、そしてそのご馳走は一口も自分の口に入らない。そのくせ大量に出た汚れた皿を洗うのはやはり小百合の仕事なのだ。


「ただいま!小百合、誕生日おめでとう」

喜一が帰って来た。どうだ、誕生日に俺が早く帰って来てやって嬉しいだろう、愛されているだろうと言わんばかりだ。この人が帰ってくると夕飯のおかずが一品増やさなければならないのに。

「帰って来るならば子どものお風呂に間に合う様に帰って来てよ」

小百合は不機嫌に言った。

「ごめん。部長に捕まって」

「子ども達を座らせて」

小百合はおもちゃを引っ張り出して遊んでいる子ども達を顎でしゃくった。サラダを盛り付けているので両手が塞がっているのだ。スーパーに寄った分夕食が始まる時間が遅くなってしまった。

「さあママのお誕生日パーティーが始まるぞ。座って座って」

喜一は子ども達をダイニングに連れて来た。

「おもちゃは?」

小百合は喜一に聞いた。

「うん、片付けた」

「誰が」

「俺が」

「俺がじゃないでしょう。子ども達にやらせないと躾にならないじゃない」

小百合は尖った声で言う。

「ごめん、急いでいると思って」

「いい加減育児を覚えてよ」

小百合は眉間に皺を寄せた。

子ども達が座り、小百合は配膳をする。刺身の盛り合わせてローストビーフをテーブル中央に置き、あゆ美の前にパンダの皿を置いた。すると向かいに座っている美樹が、

「美樹ちゃんもパンダがいい!」

と声をあげた。

「やだ!あゆ美ちゃんが使うんだから」

「あゆ美ちゃんは朝もパンダだった。ズルい!」

確かにパンダの皿は順番に使うルールだった。しかし色んなことがあり過ぎて疲れ切った小百合は皿のことまで気が回らなかったのだ。小百合は大きくため息をついた後に自分を奮い立たせて、

「ねぇあゆ美ちゃん、朝もパンダのお皿を使ったよね。夜はお姉ちゃまに貸してあげよう」

と優しい声で言った。

「やだ!ママがあゆ美ちゃんにくれたんだもん」

「あゆ美ちゃんのバーカ!バーカ!」

美樹の怒りは頂点だ。私が大変な思いをして刺身を買って来たのに、この子達は何で皿の事なんかで喧嘩をしているんだろう。小百合は立ち上がると刺身とローストビーフの皿を冷蔵庫に戻し、

「もう食べなくっていい!食べるな!」

とマンション中に響き渡るような声で怒鳴った。

「やだお刺身!うえーん」

あゆ美が泣き出す。

「ママに謝りなさい」

喜一が取りなした。小百合の怒りは収まらず、

「何がママの誕生日パーティーよ!私の仕事が増えるだけじゃない。馬鹿馬鹿しい」

「ママ、ごめんなさい!もう美樹ちゃんパンダのお皿は使わない。ごめんなさい!ごめんなさい!」

美樹の顔は涙でぐちゃぐちゃだ。喜一は子どもたちの気持ちを変えようと、

「ね、二人とも。後でママにハッピーバースデーをうたってあげような」

「あんたは黙っていて!いつも子ども一人も満足にコントロールできないくせに!」

小百合は今度は喜一に矛先を向けた。


自分が一番なりたくなかった四十五歳の姿だ。いつも疲れた顔をして不機嫌に子どもを怒鳴り散らして。

小百合は呼吸を整え気持ちを落ち着かせてから、

「ママね、あなた達が毎日パンダのお皿は取り合うことが本当に嫌だった。パンダのお皿は捨てていい?」

子ども達は泣きはらした目で頷く。小百合はあゆ美からパンダの皿を取り上げると静かに不燃ゴミのゴミ箱に入れた。気持ちがスーと軽くなって行く。小百合は冷蔵庫から刺身とローストビーフを取り出し、あゆ美には犬の描かれた皿を与えた。姑から与えられた動物のセット皿の一枚がパンダで、食事の度に子ども達が取り合いをしていたのだ。

「あんたのお母さんが余計な事をするから」

小百合は喜一に悪態を吐く。

「あんた達、時計の針が真上に来るまでに食べ終わるのよ。あんた達が刺身を買って来いなんて言うからママ帰って来るのが遅くなったんだからね。二度とママに指図なんてしないのよ。分かったわね!」

「分かった」

「分かった」

二人は順番に約束をする。

「たまにはあんたが子ども達の世話をしてよ。私は山ほど家事が残っているんだから」

すでに小百合は夫もあんた呼ばりだ。喜一は特に逆らいもせず、子ども達に刺身を取り分ける。

「食事が終わるまで子ども達には一言も喋らせないでよ。寝る時間が遅くなるんだからね」

小百合は念を押しして席を立った。


小百合は風呂の水を汲み上げて洗濯機を回し、子どもの部屋で保育園の連絡帳を書き、園への提出書類を書いた。更に明朝の服を二人分引き出しから出しておく。一言も喋らせるなと言ったはずなのにダイニングから子ども達の笑い声が聞こえる。全くあの人は子どもを叱ることすら出来ないんだから。団欒から離れ、小百合は不思議と解放された気分だった。子どもなんてうんざりだ。自分は自分を鎖で繋がれた囚人だと思う。家族四人は互いに鎖で繋がれている。それは中世の罪人達が受けた刑罰のようだった。


幼児達の食事を終わらせるのは小百合の介入が必要だった。小百合は食事の時間が過ぎていることを告げにダイニングに戻る。子ども達はさっきまでの叱責を綺麗さっぱり忘れたように小百合に話しかける。

「ママは何て言ったっけ?時計の針が真上に来たらご飯はおしまいよね?」

「美樹ちゃんごちそうさま!」

「あゆ美ちゃんも」

二人は競い合うように皿を空にすると立ち上がった。結局小百合が食べられたのはローストビーフの最後の一切れだけだった。


予想通り山のような洗い物が出た。小百合は時間をかけて汚れた皿を食器洗浄器に入れて、調理器具は手洗いした。洗濯物は喜一に任せ、小百合はダイニングテーブルについて炭酸水を飲みながら手で顔を覆っていた。

大して仕事もできない一般職のおばさん社員のくせに、自分の立場を忘れて買収して来た会社の社員に入れあげて、おまけに相手は十歳も年下で、その男は私達の仕事と得意先を奪って宗主国たる一流商社に帰って行くのか。こんな結末になるとは。

いやいや、普通こういう結末だろう。ただ私は気づかない振りをしていた。自分の年齢や老いから目を背け続けたいように。


「英語の勉強をしているかと思った」

洗濯物を全て干し終えた喜一が声をかけた。小百合は喜一の顔を見ずに

「もうやめたの」

「今日はごめん。誕生日なのに普段通りに家事をやらせて。シャンパンでも買って来ようか?」

「いらない。最近お酒を飲むと肌荒れをするのよね」

喜一は小百合の正面に腰かけて、

「この前の総合職になりたいって話だけど・・・…」

小百合は興味なさそうに喜一に顔を向けた。

「もちろん仕事は続けてもらって構わないよ。ただ総合職っていうのはちょっと・・・。俺もこれから出張が多くなるし、夫婦揃って残業や出張になった時に子ども達の事を考えると、今は困るんだ」

小百合は自嘲気味に笑って、

「あんなの思いつきよ。馬鹿みたい。総合職なんて私に務まるはずないのに」

喜一は心配そうに小百合を見つめた。

「小百合はよくやっているよ。二人も子どもがいるのに正社員で会社に残って」

「私にはこれが精一杯。それなのに自分の歳も能力も無視して変な夢を見ていた。もっと自分が高いところまで行けると思い込んでいた」

小百合は再び顔を両手で覆い、自分が馬鹿だった、と付け加えた。

「僕は小百合と結婚をしてよかったと思っているよ。子ども達だって自分たちのママが世界一だと思っている。それじゃ駄目なの?」


夢から醒めた。魔法も解けた。季実子と同じだ。家庭に収まっているのが一番ふさわしい生き方だったのだ。つまらないことこの上ない。だけど家庭という枠を飛び出して大暴れできるほどの度量もない。もう、これで良いんだ。

「週末に外食でもしようよ」

喜一は言った。しかし小百合は気が進まない。

「外食しても子ども達の世話は私でしょう?」

「じゃあ子どもをどこかに預けようよ。良いよ、土曜の半日ぐらい」

小百合の気持ちは少しだけ上向きになった。やっと笑顔を喜一に見せて

「ありがとう」

と言った。子どもの預け先はそう簡単に見つからない。それは小百合が一番分かっている。それでも喜一が小百合の機嫌を取ってくれることが嬉しかった。

「もう先に寝ていて」

小百合は言う。喜一はまだ不安げな顔をしていたが、小百合を一度抱きしめると居間兼夫婦の寝室に入って行った。


これで良いんだ。小百合は何度も自分に言い聞かせた。季実子と同じ。自分にも埋め火なんかない。




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