魔法が解けた日
最近の喜一は残業続きで、帰宅後の小百合は一人で子供たちの世話と家事で大忙しだ。洗濯物を干し終え十一時近くにやっと自由な時間。小百合はダイニングで英語検定のリスニング問題にあたる。ヘッドフォンから聞こえて来る英文が頭に入っていかない。耳も脳もカチカチだ。小百合はため息をつきながらも問題を聴いていく。小百合は一日二問を自分に課しているのだ。徳永さんならばこんな問題、あっと言う間に解けるだろうに。
問題の合間に小百合は今日の事を思い出す。
夕方一本のメールが海外の客から小百合と晶に届いた。諸々の条件が合わなくなったので売買契約を解除したいと言う内容だった。小百合が分かる単語を拾い読みし、本当にキャンセルするつもりかと考えていると、隣の晶は、
「おい、ふざけんなよ!」
とパソコンの画面に向かって怒鳴りつけた。
「この大量の机どうすんだよ。週明けにも出荷だったのによ。ベトナムの工場で保管してもらうか。あー畜生。絶対に違約金と倉庫使用料を踏んだ食ってやるからな!」
晶は早速パソコンにヘッドホンを差し込み、国際電話の準備をする。
「全くとんでもない客だわ」
小百合がそう相槌を打つと、晶は微かに笑って、
「桶川さん、こんな奴制裁を加えてやって下さいよ」
「制裁!」
「昔の血が騒ぐんじゃないですか?地元じゃさぞかし有名だったんでしょうねぇ」
「ちょっとやめてよー。私暴走族にいたわけじゃないからね」
小百合は顔を紅潮させて強く否定する。血が騒いでいるのは晶の方で、電話口で既に臨戦態勢だ。
最近の晶は小百合をからかってばかり。親しくなれたのは嬉しいけれど、小百合が望んでいたのとは少し違う。じゃあ私が望んでいたのは?
そこで小百合は考え混んでしまうのだ。
二人で会ったり?ではその間子どもたちはどうする?喜一に任せて私はデート?いやいや人間としてどうよ?
では徳永さんと二人で示し合わせて休暇を取り、知り合いのいない場所で束の間の逢瀬を楽しむか?徳永さんの実家があると言う埼玉なんかどうかしら?徳永さんは車を出してくれるかしら?そもそも徳永さんは車を持っているの?ご実家から車を借りたりして。そして二人の気持ちが高まったら岩槻インター付近のラブホテルで結ばれる。そして今後は人目を避けるためにホテルで待ち合わせ。
この場末感・・・・。
大体デート費用やホテル代は誰が出すの?年上だし私が徳永さんの事を好きだから私が出すの?うーん、金を出してまで抱いて欲しいとは思わないのよね。それは徳永さんも同じで、金を払ってまで私を抱きたいとは思わないでしょうね。
セックスのことなんてどうでも良いの。もっと人として尊敬し合うと言うか、お互いを高め合うと言うか。でもやっぱりそれだけじゃ。徳永さんのお家で抱きしめて貰って、キスされて。ダメダメ。そんな事をされたら、私、徳永さんの事を求めちゃう。恥を忍んで徳永さんのお洋服を脱がせちゃうかも。でもあんな高そうなお洋服、そこら辺に脱ぎ捨てちゃ駄目よね。ちゃんとハンガーにかけてあげないとだらしがない女だと思われちゃう。
あー、なんだか体の触れ合いまで考えが及ばないや。
やっぱり一番の望みは可愛いって言ってもらうことね。
可愛いよ、小百合。小百合は晶が身をかがめてそう囁く事を甘い気持ちで想像する。
「小百合」
いつの間にか帰って来ていた喜一が小百合の肩を叩く。小百合は飛び上がらんばかりに驚き、ヘッドフォンをずらした。
「待っていて。この問題だけやっちゃうわ」
と言って最後の問題に取り掛かるのだ。喜一は冷蔵庫から麦茶を出して飲んだ。問題をやり終えてヘッドフォンを外した小百合に、
「随分熱心だな」
と険のある口調で言った。小百合は
「仕事で使うからね」
と答え、そして独り言のように
「総合職になろうかな・・・・」
「おいおい待ってくれよ。俺、これ以上小百合の仕事に協力しきれないぞ」
「今すぐとは言っていないわ。子ども達がもう少し大きくなったら。今の一般職のままじゃ仕事の内容も制限があるし」
「おい」
喜一は音を立ててグラスをテーブルに置いた。そして怖い顔で小百合を見下ろし、
「もう仕事は辞めなさい」
「えっ?」
小百合が聞き返すと、喜一は同じ言葉を繰り返した。
「俺、疲れて帰って来ているのに洗濯物を干したり風呂洗いをするのはもう嫌だよ」
「何言ってんのよ。喜一が残業した日は全部私がやってあげているじゃない。それに洗濯物は喜一の服も入っているでしょう?喜一の仕事でもあるんだよ。そのぐらいやってよ」
「お前、俺を舐めるのも良い加減にしろよ」
「舐めていないわ感謝している。私が仕事を続けられるのは喜一のお陰よ。喜一のお陰でこんな通勤に便利な場所に住めるし、色々手伝ってくれるから仕事と家事を両立出来るのよ」
「感謝ねぇ。俺、もうお前に協力するのが馬鹿らしくなった」
「何で?何でそんな事を急に言うの?」
「お前、三社祭で誰と会った?」
この人、徳永さんのことを言っているのか。小百合は合点が行った。
「あゆ美ちゃんから聞いたのね」
「上司だろう?随分ハンサムだったそうじゃないか。俺が美樹ちゃんの看病をしている時に男と落ち合って」
「落ち合うなんて・・・・。偶然会っただけよ」
「一緒に酒まで飲んで」
「お祭りだからね」
「お前が後生大事にしている百合のブローチだって男に買って貰ったんだろう。小百合さんだから百合の花か?気障ったらしいったら」
「あれは私が独身時代に・・・・」
「嘘なんかつかなくっていいから!包装紙だって見たんだからな」
小百合は内心舌打ちをする。脇が甘かった。小百合は季実子の事を考えている。季実子みたいになるのは絶対にごめんだった。自分の収入がなくなって、旦那の顔色を伺いながら養って貰うなんて。
「神に誓って言えるけれど、本当にそんな関係じゃないのよ」
私がただ徳永さんを好きなだけで、恋人でも何でもないの、小百合はそう心の中で付け足した。
「そいつ、結婚しているの?」
「してない。そろそろしても良い年頃だけど」
小百合の返答に喜一は怪訝な顔をする。
「何歳なの?」
「言っていなかったけ?三十四か三十五」
喜一は目を見開き、
「君の上司はそんなに若いのか?!」
「だから何度も言っているじゃない。そんな関係じゃないって」
そして
「十歳も年下の男性を私が籠絡出来るかしら」
と絶望的な目で喜一に聞いてみた。喜一は
「もう勝手にしろ!」
と言い捨てて乱暴にダイニングの扉を閉めた。
小百合は英語の教材をしまうと冷蔵庫を開けて高価な美容ドリンクを飲み干した。
もしあの人が不貞を犯す時は、きっと今夜のことを言い訳に使うだろう。小百合は夫婦の未来を暗い気持ちで考えるのだった。
六月の初めは小百合の誕生日だ。まだ梅雨は始まっておらず初夏の心地よい風がカーテン越しに部屋に入って来る。小百合は四十五歳になった。自分への誕生日プレゼントに買った薄黄色のワンピースを着て、胸元にブローチを刺した。歳を取るのは怖くない、鏡に映る自分を見て思った。
一足先に家を出る喜一は小百合を抱き寄せて、
「誕生日おめでとう」
と言った。喜一とはずっと冷戦状態であったが、今日の喜一は優しかった。
「今日は早く帰る」
「ありがとう」
「美樹ちゃんとあゆ美ちゃん、ママにおめでとうを言いなさい」
喜一が子ども達に促すと、子ども達は口々に
「おめでとう」
「おめーとー」
「ありがとう、二人とも」
小百合は身をかがめて二人を抱きしめた。
「今日はパーティー?」
美樹が目を輝かせて言った。
「あゆ美ちゃん、お刺身食べたい!」
小百合は苦笑しつつ、
「分かったわ。お刺身ね。帰りに買って来るわ」
歓声をあげる子ども達。喜一はもう一度おめでとうを言って、小百合にキスをして玄関を出て行った。
小百合が出社すると既に晶は席に着いていた。小百合はいつものように朝の挨拶をして隣に座る。結婚もできて子どももいて、好きな人と仕事もできて今の小百合にはこれ以上何も望むものはない。つい晶に、「今日誕生日なんですよ」と軽口を叩きたくなる。「何歳になったんですか?」と聞かれるのが怖いので余計なことは言わないが。
「あの、桶川さん」
晶は小百合に身を乗り出すようにして声をかけた。
「何でしょうか?」
あらやだ、今日もお綺麗ですよとか言うつもり?小百合は機嫌良く次の言葉を待った。晶はこわばった面持ちで言いにくそうにしている。小百合の胸に不安がよぎる。まさか、まさか、結婚するから式に出てくれなんて言うんじゃないでしょうね!パソコンのディスプレイの隙間から中居が言うなと言わんばかりに小さく首を横に振る。それでも晶は言うつもりだった。
「急に決まったことなんですけれど・・・・」
その時木村部長が小百合に近づき、
「桶川さん、打ち合わせをしたいんだけど、第一会議室に来てもらって良いかな?」
小百合は晶に後でで良いですかと断ってから、木村部長に従って席を立った。
「徳永君と中居君も来て」
木村は二人にも声をかけた。随分丁寧な口調だなと小百合は思った。
四人が会議室の席に着くと、木村は切り出した。
「椿インテリアが八代商事さんの支援を受けるようになって三年。同時に海外進出チームが立ち上がって、徳永君や中居君たちに出向してもらうようになった。桶川さんがこのチームのアシスタントになってどのぐらいだっけ?」
「一年半です」
小百合は答えた。
「そう、桶川さんには随分頑張って貰ったんだけど」
小百合は小さく首を横に振る。木村は続けた。
「海外進出チームの業務は八代商事さんに移譲することに決まったんだ」
小百合は改めて木村と、そして晶を見た。晶は唇を固く結んで小百合の眼差しを受け止めた。
「それに伴い、残念だけど徳永君と中居君は八代商事さんに帰任して貰って、桶川さんには以前の国内業務に戻って貰おうと思うんだ」
小百合の魔法はついに解けた。
私は何を思い上がっていたんだろう。小百合は自分が恥ずかしくなる。こんなつまらない一般職の自分が、目もくらむような一流商社の社員と肩を並べて仕事をしていると勘違いしていた。
木村はさらに言う。
「これは仕事を取られるとかじゃないからね。今や八代商事さんと椿インテリアは対等な関係で、椿は八代グループの一員だ。業務の一部が本社に移管したと思えば良いから」
嘘だ。小百合は思う。対等な筈はないではないか。私たち椿インテリアは買収された側だ。私達は植民地で八代は占領軍だ。
「分かっていると思うけれど、国内の売り上げは頭打ちで、海外進出は火急の件だと言うのは椿も八代さんも共通の認識だ。ただ椿だと人員も集まらないし、桶川さんは良くやってくれたけれど、元々椿は海外に特化した業務体制じゃない。だったら八代さんにここはお任せした方が良いという結論に達したんだよ」
つまり私じゃ役に立たなかったと言いたいんですね、小百合は嫌味の一つも言いたくなる。 目の裏側に涙が湧いて来たので、小百合は目を見開き涙が表に出てこないようにした。
「七月一日をもって徳永君達には帰任して貰うから、それまで桶川さんもよろしくお願いしますね」
木村は慇懃に頭を下げた。小百合は顔を上げることが出来ない。分かりましたと答えるのが精一杯だ。
小百合達が会議室を出て席に戻ると、中居が済まなそうに、
「僕たちも先週末にこの話を八代で聞かされて・・・・、桶川さんには色々無理をお願いしていたのに、こんな結果になってしまって」
「今更何があっても驚かないわよ。長く勤めていると色んなことが起きるからね」
小百合は何とか笑顔を作って言った。晶は黙ったまま小百合を心配そうに見つめている。
「八代さんに仕事をお渡しするならば綺麗な状態にしておかないとね」
小百合は誰に言うともなく言って、仕事に取り掛かった。晶は言葉を探している様子だったが国際電話の回線が鳴ったので、迷った末に電話を取った。
「Thank you for calling me back.(折り返しのお電話ありがとうございます)」
今日の晶は小百合の大好きなベストスーツだった。唇の上と下あごに薄く髭を蓄え、英語で電話をして、相変わらずレット・バトラーみたいだ。私、この人の事を本当に好きだった。
「お茶でも飲ーもうっと」
小百合は独り言を言いながら自分のマグカップを持って給湯室へ駆けて行った。壁に向いて目頭を押さえた。季実子と同じ泣き方だ。大人はこうやって泣くんだな。小百合は涙をまぶたの中に押しとどめながら内心苦笑する。
みそぼらしく歳を取った灰被り姫。服だけが金ピカの哀れな老婆だ。
小百合は自分の十年後を思う。定年まであと僅か。すでにその時は初老に差し掛かり、中年女ですらない。しかし徳永さんは?その美しさ、知性に更に深みが増し、絶対に私の手の届かない存在になっている。下手すれば椿インテリアの社長の席に収まっているかも知れない。その時徳永さんと私は王様と婢女だ。いいえ、今だってそう。王様と婢女だ。徳永さんと私の人生は決して重ならない。




