三社様のご利益は
浅草の三社祭は小百合も子ども達も楽しみにしている初夏の祭りだ。子どもや喜一には甚平を着せた。小百合は股引に見えなくもない濃紺のスキニーパンツに桜吹雪の刺青を彷彿させる鯉口シャツ。髪の毛は鯉口に合わせて結い上げた。上の子を妊娠してから浴衣を着ていない。もっとも五月の三社祭には浴衣はいささか早すぎるが。
「気持ち悪い」
出かける間際、上の子の美樹が青い顔で訴えた。抱き抱えてトイレに連れて行くと、朝食を全て吐瀉し始めた。小百合は美樹の背中をさすりながら出かける前に吐瀉してくれて良かったと安堵する。
日曜日の今日は救急病院以外は診察していない。小百合は手早く美樹に吐き気止めと整腸剤を与え、
「今日は寝ていようね」
小百合の言葉に美樹は布団の中で頷いたが、下のあゆ美は甚平を着たまま
「やだ、お祭り!」
と騒いだ。
「分かった。あゆ美ちゃんはお祭り行こうね。ねえ喜一が美樹ちゃんを見ていてもらっていい?」
「俺で大丈夫かなぁ」
「あゆ美ちゃんにも移ったら大変だから外に連れ出したいの。トイレのお世話があるから出来れば女親の方があゆ美ちゃんについてあげたいわ」
実は喜一には動物園であゆ美を迷い子にさせた前科がある。三社祭の人混みではぐれることだけは避けたいのだ。
美樹のそばに膿盆や水差しを置いて小百合は外出の準備をする。出かけ際、
「お土産は何がいい?」
と美樹に声をかけたが、美樹は土色の顔をして眠っていた。
今年の三社祭は本祭だ。神輿も多く、馬にまたがった神主が信徒の間を進んで行く。そうそう祭りはこうでなくっちゃ。小百合は酒を出す屋台を探したが、興奮したあゆ美と手を繋ぐことに必死で飲酒どころではない。 神輿を追いかける道すがら屋台の食べ物で娘の空腹を満たし、子どもが残したものを小百合が食べた。
午後になり、祭りに飽き始めたあゆ美が
「ここ!」
と叫んで飛び込んだのは遊具がある公園だ。同じく祭りに飽きた子ども達が甚平や浴衣でブランコに乗っている。法被に鉢巻の男達がベンチを陣取って酒盛りだ。男達の中には腕に彫り物がある者もいた。ちょっとガラが悪いわね、小百合は思った。もっとも遠山金四郎景元を彷彿させる桜吹雪の鯉口を着た小百合も似たようなものだが。
「あゆ美ちゃん滑り台する。ママも!」
あゆ美が小百合の手を引いた。小百合は草履が脱げないように気をつけて滑り台を登った。子ども達が小さいうちは着物や浴衣は夢のまた夢だ。
晶は地下鉄浅草駅から地上に出た。私鉄に乗り換えて埼玉の実家に向かう為だ。母親の誕生日が近く、三社祭を見てから帰省することがここ数年続いている。
晶は屋台でビールを買って祭りを冷やかして歩いた。一人で見る祭ほどつまらないものはない。去年も一昨年もアリスが一緒で、夕方まで祭を楽しんだと言うのに。
そして夕方になったら晶はアリスと別れ一人で実家へ。
晶は今になって気づいた。今まで晶がアリスを祭りの喧騒の中に一人放ったらかしにして来たことを。
やれやれこれじゃ女に振られるわけだ。晶は自分に呆れ果てる。彼は屋台でワインに氷を浮かべたかち割りワインを買った。これを飲み終わったら実家に帰って孝行息子するか。
晶は隅田川方向に歩いた。そこで公園で子どもを見守っている小百合を見つけた。
小百合は砂場の縁にしゃがみ込み、コックになりきって砂を固めているあゆ美の相手をしていた。神輿が近づいてきているのか掛け声がだんだん大きくなって来た。小百合は顔を上げて通りを見やる。
そこにまさかの晶が立っているとは。
小百合は微笑みかけたり手を振ることも出来ず、まるで会社のようにさっと立ち上がり深々と頭を下げた。小百合はこんなふざけた鯉口シャツを着て来たことを心から後悔した。こっちに来ないで。そう思ったそばから、こっちに来て、とも思う。
晶は立ち上がった小百合の装束に目を見張る。刺青みたいなシャツを着て、下はご丁寧に濃紺の股引だ。この人レースのブラウスに膝丈のスカートが好きじゃなかったっけ?もしかしてこの人は栃木の暴走族出身か?
小百合の豹変ぶりに晶は笑いがこみ上げて来た。ハレの日に思いっきり羽目を外す昔の小作人みたいだ。そうそう祭はこうでなくちゃ。晶は小百合に歩み寄った。
「こんにちは」
晶は公園の垣根越しに声をかけた。小百合の胸はこれ以上はないというほどに高鳴っている。小百合は再び丁寧に頭を下げた。晶は黒い半袖シャツに色落ちしていないジーンズだ。服装はいたって気取らないのに、足元は手入れの行き届いた革靴だった。やっぱり徳永さんは紳士だ。休日であっても服装に手を抜かない。それに引き換え私は・・・・。
晶は改めて小百合を見、
「どうしたんすか、その格好?お神輿でも担いだんですか?」
「いえ、そういう訳では・・・。日常を忘れたくって」
「お似合いですよ」
お似合いだって?あんまり嬉しくない褒め言葉だ。
「徳永さんこそ今日はどうして?浅草にお住まいなんですか?」
「僕、実家が埼玉なんですよ。浅草から私鉄に乗るんで、乗り換えついでに酒でも飲もうかと」
小百合は晶のプラスチックのコップが気になる。
「何を召し上がっているの?」
「かち割りワイン」
「私も後で飲もうかしら」
「今買って来ましょうか?」
晶の申し出に、そんなとんでもないと小百合は断ったが、足元であゆ美は砂遊びに夢中だ。とても屋台を連れて行ける状況ではない。
「僕行って来ますよ。白ですか?赤ですか?」
「甘くない方」
「赤は甘くなかったですよ。赤にしますね」
晶は公園から離れ、間も無く赤と白を一杯ずつ持って公園に入って来た。今度は垣根越しの会話ではなく、横に並んでの飲酒だ。小百合がワインの代金を払おうとしても晶は受け取らなかった。晶に奢って貰うのはこれで二回目だと小百合は思う。小百合が赤を、晶が白を選んだ。もう一基神輿が公園の脇を通り抜ける。
「三社祭祭が終わると本格的な夏ですね。そう言えば毎年お祭りには来ているような・・・・」
「あ、僕もっすよ」
恋人と来ていたのかしらと小百合はちらりと思った。もちろんそんな事は口には出さないが。
「前は宮入りの喧嘩を見にくるような感じでしたけれど、最近はめっきり大人しくなっちゃって」
小百合が言うと、
「桶川さん、喧嘩が楽しみだったんですか。と言うか、もしかして桶川さんが喧嘩していたんじゃないですか」
「違います!」
小百合が否定すると晶は声をあげて笑った。どうしよう、楽しくって仕方がない。小百合は時間を忘れて晶と話し続けた。
気がつくと砂場からあゆ美が消えている。小百合が見渡すとあゆ美は一人でブランコに乗ろうとしているところだった。
「あゆ美ちゃん!危ないわ」
小百合は空になりかけたコップを片手にブランコに駆け寄り、もう片方の手であゆ美を抱き上げてブランコに載せた。このうなじや腰の細さはどうだろう、晶は小百合の後ろ姿を見て思った。
「俺、行きますよ」
「ごめんなさい。引き止めて」
小百合はあゆ美のブランコを揺らしながら言う。
「コップを下さい。捨てておきます」
晶は小百合からコップを受け取った。小百合はまだ喋り足りない気持ちを持て余し、公園を離れようとする晶に向かって言った。
「私、徳永さんの英語が好きです。徳永さんはレット・バトラーです。ただし和製の」
それは小百合にとってある種の告白と同じだった。晶はまんざらでもなさそうに笑顔になり、
「僕はカマキリと罵られる事が多いんですが」
そう言えば前のアシスタントも晶をカマキリと呼んでいたことを思い出す。この人自身も気付いていたのか。小百合は笑ってはいけないと思いつつ、笑いを抑える事が出来なかった。肩を震わせて笑いを堪える小百合に、
「笑いすぎですよ、小百合さん」
と手を振って公園から出て言った。
あ、上司にゴミ捨てをさせちゃった。そんなことより今小百合さんって呼ばれたの?小百合は呆然と立ち尽くす。
「今の人誰?」
ブランコに載ったままあゆ美は聞いた。
「ママの会社の人?ハンサムでしょう?」
小百合は上機嫌であゆ美の頬を指で突いた。
翌朝小百合は白いワンピースで出勤した。
「昨日はありがとうございました」
晶に慇懃に頭を下げた。恥ずかしさが先に立ち、昨日のようには喋れない。晶は静かにしている小百合を見て言った。
「昨日はびっくりしましたよ。まさか桶川さんがテキ屋になっているとは」
「テキ屋なんかになっていません!」
「副業もほどほどにしないと。就労規則で禁止られているはずですよ」
晶はニヤニヤしながら小百合をからかった。更に
「ああ言う刺青シャツはどこで買うんですか?僕も是非一枚購入したいなぁ」
小百合は唇を噛み締めながら自分のパソコンで祭用品専門店のサイトを開き、
「ほら、ここですよ」
と晶に教える。晶は身を乗り出して小百合のディスプレイを覗き込んだ。あらやだ、私、徳永さんと親しくなっている。胸の鼓動を悟られないように、小百合は男性向け衣装のページを開き、法被とふんどし姿の男性をクリックした。
「これなんかいかがですか?さぞかしお似合いになるでしょうね」
仕返しだと言わんばかり小百合は言った。しかしその実、こんな格好が似合うのはずんぐりした猪首の男だと言うことは分かっている。
「徳永、そろそろ出ようぜ」
中居が声をかけた。
「そうだったな」
晶はリュックに携帯を放り込んで立ち上がった。
「あ、ホワイトボード書かなきゃ」
「私が書いておきましょうか?」
と小百合。
「すみません。丸山商事、正午帰社です」
晶はそう言い残すと大股で中居を追いかけた。
エレベーターに乗った晶と中居。
「なんだか随分桶川さんと話し込んでいたけれど」
中居がそう水を向けると、晶は中居の方を向き、目を見開いて、
「桶川さんって変わった人なんだよ、物凄く!」
まるで河童かツチノコにでも出くわした口調だ。
いやはやあそこまで変わった人とは、と晶は繰り返し、盛んに首を捻っている。
変人同士引き付け合うんだろうなと中居は思ったが黙っていた。




