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可愛い人  作者: 山口にま
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中年女、貧困を語る

小百合は今日の日を待ち遠しい気持ちで迎えた。一年ぶりに親友の季実子と会うのだ。季実子はまた地味だが上品ないでたちで来るだろう。桜が終わりかけの季節。小百合が選んだのは薄手のピンクのブラウスに黒いスカート。ブラウスはスカートの中に入れてウエストを強調。ブラウスに合わせてピンクの靴を履きたかったが、季実子の言う「引き算のおしゃれ」を守り、黒い靴にする。もちろん晶から貰った百合のブローチを胸に光らせた。


今回季実子が選んだ店は少しだけカジュアルな感じのイタリアレストランだ。子連れでも入れるような店だか、オフィス街のここには多分子どもは来ないだろう。

先に店に入った小百合はメニューを繰りながら季実子を待った。季実子はすぐに現れた。親友の姿を見て、小百合は表情には出さないようにしたが、いささか奇異な印象を持った。

季実子は去年と同じ紺色のワンピースを着ていた。同じ服なのに、何だかぼやけて見える。季実子が近付いて来て思ったのは、全体的にワンピースがきつそうな事だ。腕も胸もパンパンだ。

「待った?」

「とんでもない。私も今来たところ」

小百合が答えると、季実子も席に着いた。

「このお店、黒板に書いてある料理も美味しいのよ」

季実子はそう言うと天井近くの壁に掛かった黒板を見上げた。その額に深い横皺が走る。こんな皺、美容外科に行けば注射一本でやっつけて貰らえるのに。小百合は思った。

この店にはシャンパンはなかった。二人はワインで再会の乾杯をした。

「ずいぶん痩せたわね」

季実子は言った。

「うん、晩酌をやめたら痩せられた。去年季実子が言ったじゃない?私達ぐらいになると余計なものがどんどんくっついて来るって。その余計なもののせいで、私達は悪い意味で存在感が増すのだと。余計なものをそぎ落とす気持ちで脂肪を落としたり、若作りの化粧をやめたりしてみたんだ」

「あら、私、そんな事を言ったかしら?」

季実子がまた額に皺を走らせて困ったような顔をした。そして、

「今の私には余計なものがいっぱいくっついているけれどね」

と自嘲気味に笑うのだ。話題を変えるため、小百合は

「お仕事は?まだ続けているの?」

「辞めちゃった」

「そう。残念ね」

「いいの、単なる暇つぶしのパート仕事だもん」

そこで前菜のカルパッチョが運ばれて来た。二人は黙って口に運ぶ。

「小百合の仕事は?年下の上司と一緒?」

「うん。歴代のアシスタントの中で私が一番長いかも。気分は糟糠の妻よ。うふふ」

「まさかそのブローチ、彼から貰ったってオチ?」

「え、分かっちゃった?」

小百合は自分の頬が熱くなって行くのを感じながら、その時の喜びを隠しきれない。

「いつに間にそんなに進展したの?」

季実子は唖然とした表情だ。

「残念ながら恋愛感情でくれたわけじゃないんだけどね」

小百合は成田空港に晶のパスポートを届けた経緯を説明した。

「私は成田空港を走ったわよ。韋駄天走りってああ言うことを言うのね。走れ小百合!って感じよ。離陸十五分前に私は空港に到着。何とか予定の飛行機に乗せられたわ」

「走れメロスみたい。愛の力ね」

季実子のからかいの言葉を小百合は真に受けて、

「本当、愛に力は時に奇跡を起こすわ。何でもできそうな気持ちになってきた。ー私、英語検定をまた受けようと思って。もうちよっと英語が話せたら仕事の幅も広がるでしょう?」

「楽しそうに働いていて羨ましいわ」

季実子は硬い笑顔だ。小百合はさっきから親友も顔色が冴えないのが気になっている。小百合は聞いた。

「そう言えば職場で親しくなった人がいるって言っていたけれど、まだ交流はあるの?」

「それが・・・・」

と言ったきり季実子は黙った。

「ごめん、聞いちゃいけなかったかな?」

「ううん、良いの」

季実子はテーブルに目を落とし、何かを迷っている様子だったが、やがてまた額に皺を走らせて上目で小百合を見ると

「実は、彼とのことが旦那にバレちゃって」

季実子は苦しそうな顔で言った。一番嫌な結末だ。小百合まで暗い気持ちになり、

「どうして旦那さんに知られちゃったんだろう」

「分からない。多分彼と一緒のところを旦那の知り合いにでも見られたんだと思う。それでパートも辞めさせられちゃったの」

「そうだったの」

「おまけに舅や姑にまで言いつけられて・・・・」

「親は関係ないでしょう!」

小百合はつい怒った声を出す。

「勿論姑からうちの親にも連絡が行って、本当は離婚させたいけれど孫のためにこっちは我慢しているんだとまで言われ、正月に夫の実家に呼びつけられて、親戚一同の前で淫乱呼ばりよ」

「最低な義父母だね。親も最低だけど、そんなことをさせる旦那さんも最低だ。最低なんて言って人の旦那さんに悪いけれど。なーにが離婚させたいよ!あーこっちから離婚届を叩きつけてやりたいね」

「旦那には子どもを置いて出ていけとも言われたわ」

「へー旦那さんに子どもが育てられるんだ。子どもの外遊び一つやってこなかった人なんでしょう?子どもと関わるなんて今更出来るわけないのに」

「私が出て行ったら姑が娘の世話をすると思う」

季実子は暗い目で言った。そして顔を上げると

「離婚は出来ないわ」

と強い口調で言った。

「一人で出て行ったら、もう娘とは会えない」

「そんな・・・・。日本ではほとんど母親が親権を取るって聞いたけれど」

「私一人じゃ娘を育てられないし。経済力がないんだもの」

「旦那さんから養育費を貰って・・・・」

「一体どれぐらいの離婚した男性が養育費を払っていると思うの?たったの二割よ。それに貰ったところで夫の収入じゃ養育費なんて知れた額よ」

季実子は顔を両手で覆い、

「良いの。全部自分が悪いの。全部取り上げられた。彼も、仕事も、自分の収入も」

「彼は今の季実子を助けようとしないの?彼はなんて言っているの?」

「もう連絡を取っていない。自分に火の粉がかかったら困るんじゃないの。どうせ私の事は遊びだったろうし」

小百合は親友にかける言葉が見つからない。季実子は顔から手を離すと

「後悔はしているけれど反省なんかしていないわ。私、彼と一緒にいる時は本当に幸せだった。分かっているわよ。私は恵まれているって。結婚して、子どももいて、夫は私を養ってくれて、私は小遣い稼ぎでパート。これが私が望んでいた未来よ。でもね、完全な幸せじゃない。夫はすぐに恩に着せるし、舅と上手くいっていないせいか姑はうちに入り込んで、娘も思い通りには育っていないしね。イジメに遭っていて毎日泣きながら学校に通っているわ。こんなことになるならば最初から私立に行かせるべきだったわ」

と一気にまくし立てた。

「この年齢になると新しいことも楽しいことも何も起こらない。衰えだけを日々実感する一方」

小百合は深く同意した。そう、老いへの坂道を下りて行く毎日だ。

「そんな時、隣の部署の男性と飲み会で話してみたら好きな映画監督が一緒で、久々他人と育児以外の話しをしたわ。彼と一緒だと、私は夫の妻でもないければ子どもの母親でもない。パートのおばちゃんでもなく、西念季実子と言う一人の人間であり女だって思えるの」

西念とは季実子の旧姓だ。そして小首を傾げ、

「そうね、女扱いというよりも、私と言う個人を尊重してくれたのが嬉しいと言うか・・・、家庭以外の世界を持てたのが嬉しいと言うか。そうそう、彼と一緒だと嫌な事は全部忘れられる。彼の前では違う自分になれるの」

「それすごく分かる」

小百合は思わず親友の手に自分の手を重ねた。

「私もね上司と一緒だと勇気が出てくる。もっと自分が伸びたいと言うか。いや、伸びるんだと言う自信が湧いて来る。実際の私はつまらない女よ。どうでも良い大学を卒業してどうでも良い非上場の三流企業で一般事務している女。家じゃ金切り声で子ども達を怒鳴りつけてさ。でもね、上司と仕事をしている時は違う世界にいるみたいなの。若い時みたいに何にも怖い事がなくなる。それこそ愛の力よ。だから幾つになっても、女には絶対に愛とか恋が必要なの。それがどんな形であってもね」

小百合は晶への気持ちを言葉に出さずにはいられない。

「分かっているのよ、上司が私に振り向いてくれる筈はないって。でも、私は彼に対して感謝しかないわ。こんなに私を幸せな気持ちにさせてくれるんだもん」

季実子は小百合の言葉を黙って聞いていたが、やがて

「私だってすごく幸せだった。そして身分不相応な幸福を得た報いで、今は罰を受けているのよ」

季実子は目を閉じて目頭を指で押さえた。瞼の中に涙を押しとどめるかのように。

「私は小さな不満を抱えながらも家庭の中でしか生きられない女だったのよ。それなのに浮気なんてしちゃって、結局全てを取り上げられて専業主婦に逆戻り。こうやって一生旦那や義理の親のご機嫌をとって娘の幸せだけを生きがいに生きて、気がついたらおばあちゃん、それで良いの」

本当はそれで良い筈はない。季実子は涙がこぼれないように怒った顔で壁の黒板を見上げている。そして

「魔法が解けたの。シンデレラは元の灰かぶり姫に戻っただけ。さらに厄介なのは姫はもはや若くはないと言うことね。あ、そろそろ帰るわ」

季実子はさっと手鏡で化粧が崩れていないか確かめた。

「これから子どもの塾なの。せめて勉強だけはいじめっ子に勝たないとね」

「季実子は良い母親だよ」

「こう言う生き方しかできないの。離婚されなかっただけで御の字よ。あーつまんない。ごめんね。愚痴ばっかりで」

「私はあなたの中に埋み火を見たけれど」

それは埋み火を持っていて欲しいという小百合の願いでもあった。季実子は一瞬虚を衝かれように表情を失ったが、首を横に振って

「もう、それはない」

とだけ言った。



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