買収された会社と占領軍
育児休業明けの小百合の耳に飛び込んで来たのはやや訛りのある英語だった。ヘッドホンの男は前のめりでパソコンの画面に向かって値段交渉に躍起だ。
「ああ、あれ?」
小百合の視線の先に気づいた隣席の大鳥さんが言う。
「徳永さん。親会社からの出向よ。あっちの部署は海外進出チームで出向組が何人か来ているわ。アシスタントの女の子はうちの会社の社員だけど」
大鳥さんは徳永と呼ばれる男の方を軽く顎でしゃくる。大鳥さんは小百合よりも若干年上だ。
小百合は周りを見渡して、
「なんだか雰囲気が変わりましたね」
かつての上司達の姿は見えない。大鳥さんは一人一人名前を挙げて、
「井上部長は早期退職、速水次長は大連駐在、加藤部長代理はベトナム行きを断って辞めて行った。つまり上の人達はみんな体良く追い出されたってわけ」
そして声を潜めて
「会社か買収されるってこういうこと」
と言ってまた海外進出チームに一瞥するのだ。
「ちっ、分からず屋」
徳永はヘッドホンを外して苦々しく言う。
「俺これから円谷物産さんに行ってくるから。二時帰社。ホワイトボードに書いておいて。あ、あととこれ、中国に手配して」
彼は立ち上がりながら隣席の若い女性社員に書類の束を押し付けるように渡した。
男は背が高く、上顎に細く髭を生やしていた。スーツベストを身にまとい、もし彼を西洋人の中に放り込んだとしても決して遜色はない。しかし顔はあくまで東洋人らしい切れ長の目をしている。
レット・バトラーだ。レット・バトラーが日本に降臨したんだ。
小百合の目は最早徳永に釘付けだ。隣の大鳥さんは
「見てよ、あの人遣いの荒さ」
と徳永の背中をにらみつける。小百合はそうですねえ、と曖昧に答えながらも、まあいいじゃない、と思っている。
まあいいじゃない、レット・バトラーなんだからさ。
小百合には一歳と三歳の娘がいた。定時に会社を飛び出して保育園へ行く向かう。帰る道々三歳の美樹が言った。
「新しい赤ちゃん、いつ来るの?」
「そうねえ、もう来ないかも」
小百合はすでに四十三だ。次の妊娠は出来ないと思っている。
「でもね、レイちゃんが言っていたよ。美樹ちゃんのママのお腹には赤ちゃんがいるって。だからお腹が大きいんだって」
小百合は苦笑する。小百合は出産後も体重が戻らず未だに妊婦服を着ているような有様なのだ。
「ママね、あなた達のお世話が大変で新しいお洋服を買えないの。だから赤ちゃんがいる人用のお洋服を着ているだけなのよ」
多忙で身なりを構えない。それは半分は本当だ。
帰宅して抱っこ紐から下のあゆ美を下ろし、上の子にトイレと手洗いを促し、夕食の下ごしらえと並行して、溜まった洗濯物を洗濯機に放り込み、下の子の排便に気づいてオムツを取り替え、上の子の遊びに付き合い、風呂の準備をする。 そんな時、下の子の叫び声が聞こえ来た。おもちゃの取り合いでの喧嘩だ。
「あーもうやだ!」
パニックを起こしかけた小百合はとりあえず冷蔵庫を開けて冷たい酎ハイを取り出した。喉に流し込むと気持ちが落ち着いて来た。
「さあ二人とも、お風呂よ」
急き立てるように二人の幼児を風呂に追いやり、自分も服を脱いで慌ただしく入浴。
自分の肌の手入れなど出来はしない。浴室で子どもにワセリンを塗ったついでに自分にも塗るだけだ。
腹を空かせて騒ぐ子ども達をなだめつつ夕食の準備。急ぎつつも小百合は二本目の酎ハイを開ける。そんな時に夫の喜一が帰って来た。
「会社はどうだった?」
喜一の問いに小百合は
「占領軍がやって来ていた」
「せんりょうぐんってなーに?」
夫婦の会話に必ず美樹が割り込んで来る。後でね、と小百合は話を打ち切る。
慌ただしく食事、寝かしつけが終わり、夫婦はここで家事タイムだ。小百合は赤ワインを飲みながら食器を洗浄機に入れていく。ベランダに洗濯物を干しに来た夫の喜一に
「さっきの話だけど」
「何?」
「育児休業中にうちの会社が八代商事に買収されてた」
「すごい大手に買われたな。倒産するより良かったよ」
「八代の社員が大挙して出向して来て、その分うちの社員が海外に飛ばされたり早期退職させられたり、もう大変!」
「サラリーマンは辛いね。でも小百合は大丈夫なのか?」
「大丈夫。私は所詮安月給の一般事務だもん」
夫婦はお互いの作業に戻る。
「久々の会社はやっぱりいいね。夕方まで子どもの泣き声を聞かずに済む」
「あんまり無理しないように」
「今が踏ん張り時よ。そのうち子ども達が個室が欲しいと言い出すから頑張って働かないとね」
喜一はベランダに全ての洗濯物を出し。
「俺は終わったけれど、何か手伝うか?」
「ううん、私ももうすぐ終わるわ。どうもありがとう」
「じゃあ寝るわ」
台所で短いキスを交わすと、喜一は一人の寝室へと入って行った。下のあゆ美はまだ夜泣きをするので小百合は和室に布団を敷いて子ども達と寝ているのだ。
疲れているはずなのに布団に入った後も小百合は眠れない。八代商事が占領軍ならば徳永さんは占領軍の軍曹ね。美しいがどこか冷徹さを併せ持つ徳永のことを考えながら小百合は目を閉じた。




