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第七回【実録/プライベート・ライアンⅡ】『オマハの獣 ハインリヒ=ゼーフェロー(後編)』

 防衛拠点Wn62と後方の中隊本部は火力が大きく低下し、オマハ・ビーチのドイツ軍守備隊は効果的な防御砲火の展開が不可能となりました。

 そして、絶え間なく海岸に殺到するアメリカ軍の上陸部隊は味方の死体を乗り越えて砂浜を制圧。Wn62を側面から脅かします。

 戦車部隊も上陸に成功し、十分な対戦車火器を持たないドイツ軍守備隊は窮地に陥ります。

 しかも防御砲火の危険が去り沿岸へと進んだ連合軍の駆逐艦が砲撃を開始、Wn62を含む海岸一帯に次々と砲弾が炸裂しました。


 ゼーフェローは照準器が破損し残弾の尽きたMG42を手放し、手動装填ボルトアクションのマウザー小銃を手に戦闘を続けますが、圧倒的兵力を前に奮戦を続けた第352砲兵連隊第1中隊も組織的な戦闘能力を失いつつありました。

 これ以上の戦闘は不可能と判断した中隊長・フレールキング中尉は後方の中隊本部に海岸への射撃を命じ、部下と共に撤退を決断します。 

 しかし中隊本部にもはや残弾はなく、この命令は無意味でした。


 6月6日午後3時、フレールキングと指揮下の将兵はWn62を脱出。9時間に及ぶ戦闘は終了しました。

 しかし、フレールキングをはじめ脱出した将兵の多くは撤退中に駆逐艦や戦車の砲撃を受けて戦死。

 海岸で上陸部隊を迎え撃った31名の兵員のうち、生きて第352砲兵連隊第1大隊の前線指揮所へ辿り着いたのはゼーフェローを含め、3人だけでした。

 この中の一人、フランツ=ゴッケル二等兵は第716歩兵師団第726歩兵連隊の機関銃手であり、彼は旧式の水冷機関銃・MG08/15で多数のアメリカ兵を倒したといわれています。

 二線級であった第716歩兵師団の兵員も勇戦し、上陸部隊に損害を与えたことが窺える逸話です。

 また上記の31名という数字は第352砲兵連隊第1中隊の将兵だけを指したものともいわれ、Wn62を脱出した人数にも異説があります。


 ゼーフェローの上官である第352砲兵連隊第1大隊長・プルスカット少佐をはじめ沿岸守備隊の将兵は友軍の戦車部隊による反撃を切望していましたが、この日反撃に出たドイツ軍の機甲兵力は第21装甲師団第22戦車連隊のみ。

 制空権を奪われていた上にヒトラー総統の承認なく他の地区から装甲師団を動かせなかったことで、ドイツ軍の機甲兵力による反撃は極めて限定的なものとなります。

 陸海空の全てにおいてドイツ軍の戦力投入は遅過ぎた上に少な過ぎ、結果として連合軍は作戦初日で5つの上陸地点全てに橋頭保を築くことに成功したのでした。

 オマハ・ビーチにおけるドイツ軍守備隊の奮戦はアメリカ軍に大きな損害を与えたものの、連合軍の戦略に及ぼした影響は部分的なものに過ぎなかったのです。


 この日、戦闘に参加できなかったドイツ軍の地上兵力はその後、各地で頑強に抵抗し、連合軍の進攻計画を大きく遅らせました。

 一方、フランスから遠く離れた白ロシアで6月22日、ソ連軍の夏季攻勢『バグラチオン作戦』が開始されます。

 かつてモスクワにまで迫ったドイツ中央軍集団は死傷者・行方不明者・捕虜50万以上という回復不可能なレベルの損害を受け、東部戦線は事実上崩壊しました。

 そして西側連合軍も圧倒的な航空兵力と物量を以て徐々にドイツ軍を追い詰めてゆきます。

 二正面作戦というドイツ軍首脳部が最も恐れていた事態が最悪の形で現実化し、ドイツの敗北は決定的となったのでした。


 ノルマンディーの激戦を生き残ったゼーフェローは6月7日、アメリカ軍に降伏しました。

 捕虜となったゼーフェローはアメリカとイギリスの地を転々としますが、1947年3月、父親からイギリス軍に届いた手紙によって解放され、故郷の農場へと戻ります。

 おそらくは生涯一度、9時間の戦闘で1000人以上ともいわれる敵兵を倒した一人のドイツ兵は一人の農夫へと戻り、その後は結婚し平穏な生活を送りました。

 

 時は流れ、大戦終結から15年を経て第二次世界大戦への再評価が活発に行われるようになりました。

 1959年にはアメリカの作家・コーネリアス=ライアンがノルマンディー上陸作戦を連合軍側の視点から描いた“The Longest Day(『史上最大の作戦』)”を発表し、翌1960年にはドイツの作家・パウル=カレルがこの戦いをドイツ軍側の視点から描いた“Sie kommen(『彼らは来た』)”を発表。

 ハインリヒ=ゼーフェローの名が一般書籍に登場したのは、この『彼らが来た』が初めてと思われます。

 戦争が終わった後も凄惨な戦いの記憶に苛まれていたゼーフェローは『史上最大の作戦』を読み、かつてオマハ・ビーチで銃撃を受けたアメリカ軍の兵士・デヴィッド=シルヴァが従軍牧師として西ドイツ・カールスルーエにいることを知ります。

 ゼーフェローは彼に手紙を送り、自身がオマハの防衛戦で機関銃手として戦ったことを明かします。

 シルヴァはかつての敵から届いた手紙に返事をしたため、その後は牧師として一人の人間としてゼーフェローと親交を深めました。

 二人の文通は40年に渡って続きましたが、ゼーフェローはノルマンディーの地を訪れようとはしませんでした。


 更に時は流れ、2005年にゼーフェローはノルマンディーを訪れ、シルヴァと敵同士ではなく友人同士として再会します。

 ノルマンディー戦当時20歳の青年だったゼーフェローは81歳となっていました。

 余談ではありますが、前年のノルマンディー上陸作戦60周年記念式典にはドイツのシュレーダー首相がドイツ首相として初めて出席。

 ヨーロッパの『戦後』に一つの区切りをつける出来事でした。

 また、前述のフランツ=ゴッケルは終戦後に何度もノルマンディーを訪れて同地で戦ったアメリカの退役軍人と交流を続け、フランス・コルヴィルの名誉市民となっていました。

 『オマハの獣』ハインリヒ=ゼーフェローとかつての敵との和解は欧米のメディアで大きく取り上げられ、多くの人の感動を呼びました。

 やがてゴッケルは2005年11月に、ゼーフェローも2006年1月に、共に多くの人に惜しまれつつこの世を去りました。

 ハインリヒ=ゼーフェローの名が広く知られる契機となったパウル=カレル著『彼らは来た』に『オマハの獣』という異名は登場せず、またその具体的な戦果も記されてはいません。

 死傷者1000名から2000名という数字は客観的証拠に乏しいといわざるを得ず、また中編で取り上げたように、上陸部隊の死傷者にはドイツ軍の砲撃や銃撃だけでなく味方の誤射や艦砲射撃による巻き添えを受けたケースも相当数含まれていると思われます。

 以前、ドイツのメディアで「オマハの獣とは誰だったのか?」と題しゼーフェローとゴッケルの戦果が検証されたことがあり、研究者の中にはゼーフェローより多くの敵兵を倒したのはゴッケルとする意見もあります。

 ゼーフェローが実際に大きな戦果を上げたことが事実としても、『オマハの獣』というイメージが戦後に作られたものであることは留意する必要がありそうです。

 また、永らくドイツ軍戦記の決定版とされてきたパウル=カレルの著作は、現在においてはカレル自身の来歴などから内容の偏向性が強く指摘されていることも記しておきます。

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