第四回【西洋菓子異聞】『祈りのブレーツェル』
ドイツ発祥の焼き菓子・ブレーツェル(Brezel)。
日本ではスティックタイプにしたものが『プレッツェル』として子どもから大人まで広く親しまれていますが、本来のそれは紐をねじって組み合わせたような、不思議な形をしています。
その名の由来はラテン語で『腕』を意味する“bracchium”であり、一説には、祈りを捧げる腕の形を模したものといわれ、これにまつわる数々の伝承が残されています。
その中でも、私が幼い頃にどこかで聞いた、ネット上には載っていないブレーツェルの逸話を紹介します。
もしかしたら、これは伝承でも何でもない、誰かのホラ話かも知れませんが……
ルターの宗教改革より以前、現在のドイツ南部。
とある小さな町に、小さな教会がありました。
この教会では、日曜礼拝にやって来た子供達に焼き菓子を振る舞うことを習慣としていました。
年老いた司祭は誰にも分け隔てなく接し、優しい人柄で敬愛を集めていました。
そんなある日のこと。
修道士の一人が司祭にこう言いました。
「小麦粉が底を突きそうです。このままでは子供達に出す分がなくなってしまいます。市場で買うにも値上がりしていて、これまでの金額ではとても買えません」
司祭は頭を抱えました。
「困ったね。黒パンを出すわけにもいかない。とにかく、手分けして安く譲ってもらえる所を探すとしよう」
カトリックでは正餐に黒パンを使ってはならないとされており、この教会でも子供達に小麦粉を使った焼き菓子を振る舞っていました。
しかし、これまでにない小麦粉の値上がりは教会の台所をも直撃し、司祭や修道士は方々を回りましたが結局、小麦粉は手に入りませんでした。
手ぶらで帰ってきた司祭と修道士達が、子供達に菓子を振る舞うことを諦めかけた時でした。
「ハーッハッハッハッ! お困りのようですなァ!」
何者かが笑い声を上げ、突風と共に窓から侵入してきたのです。
黒衣を身に纏い、その声は地の底から響くよう。
司祭は一目でその男が悪魔だと見抜きました。
「悪魔が教会に何の用かね」
震えあがる修道士をよそに、司祭は毅然として悪魔の前に立ちはだかりました。
「あなた方をお助けしたいと思いましてなァ。何やらご入り用と見受けますが」
「生憎、我々には君に助けてもらう理由はない。早く出て行きなさい」
司祭の毅然とした態度に、悪魔は咳払いをして静かに話し始めました。
「まあ、そう仰らないで。とにかく、私の話を聞いてはいただけませんか。私にはどうしても善行を積まねばならない理由があるんです」
「……いいだろう。その理由とは何かね」
不安を隠さない修道士を制止して、司祭は悪魔の話に耳を傾けました。
「実は、ふとしたことで魔王様のご機嫌を損ねてしまいましてね。罰として地上で善行を積んでくるよう仰せつかったのです。あなたほど徳の高い人のお役に立てるなら、魔王様にもご納得いただけるのではと思いましてね」
「それは恐れ入る。だが、悪魔の力を借りるつもりはないよ。自分達でなんとかする」
「そうやって、毎日小麦粉を探しに行くわけにもいかんでしょう。教会の仕事はそれだけではありますまい。私が何とかしようじゃありませんか」
司祭は少し考えたのち、こう言いました。
「……君が、まっとうな手段で手に入れるという保証は?」
「ご安心を。神に……もとい、魔王様に誓って、あこぎなことは決していたしませんから」
「分かった。君を信じるとしよう」
司祭は悪魔の言葉を信じ、小麦粉の調達を任せることにしました。
その日の晩、あの笑い声と共に、教会の前に何かが落ちる音が聞こえました。
驚いた司祭達が見に行くと、玄関の前には大きな袋に詰まった小麦粉が置かれていたのです。
司祭達は飛び去る悪魔の背中に感謝の祈りを捧げました。
「あの悪魔は我々との約束を守ってくれた。この小麦粉はありがたく使わせてもらおう」
礼拝に来た子供達に菓子を配り、子供達の笑顔を前に司祭達がホッと胸を撫で下ろした頃、都市部から一人の司教が教会へ視察にやって来ました。
「食べ足りないね。パンはこれだけなのか?」
大食漢の司教は司祭達から振る舞われた食事を平らげると、不満を漏らしました。
「申し訳ありません。お出しできるのはこれだけです」
「そんなはずはあるまい。小麦粉の詰まった大きな袋があったろう」
司教は台所にあった小麦粉の袋を目ざとく見つけていました。
「申し訳ありません。あれは日曜礼拝で子供達に振る舞う焼き菓子にする分です」
この言葉が司教の怒りを買いました。
「君は子供達を食べ物で釣って礼拝をさせているのか?」
「滅相もありません。幼い頃から教会に親しんでもらい、神を近くに感じてもらう為です」
「ほう! よく分かった。つまり君は、司教である私よりも子供達を優先するというわけか!」
司教が腹を立てて帰った後、教会に一通の辞令が届きました。
それは老司祭に対する辺境の村への異動命令――明らかな懲罰人事でした。
怒りを露わにする修道士達を窘めたのは、他ならぬ司祭でした。
「神が私の力を役に立てるべき場所をお示しくださったんだよ。ありがたいことだ。私がいなくなっても、この教会と町のことをよろしく頼んだよ」
人々に見送られ、司祭は笑顔で町を去りました。
そして、それが永遠の別れとなりました。
司祭の老体は環境の変化に耐えられず、村に着いて間もなく病死してしまったのです。
知らせを聞いた修道士達は涙を流しながらも、司祭の遺志を継いで日々の務めに励みました。
一方、老司祭を左遷した司教は司祭の死を知っても、何ら意に介さず過ごしていました。
そんなある夜のことです。
突風を伴って窓を破り、司教の寝室へと侵入するものがありました。
「あ……悪魔!」
目は真っ赤に燃え、口は耳まで裂けた恐ろしい形相に司教は震えあがりました。
「私の善行を台無しにしたのはお前だな。あれほどの善人を死に追いやるとは、何が司教だ! 聖職者が聞いて呆れるわ!」
「ゆ、許してくれ! 死なせようと思ってやったわけじゃない!」
言い逃れをする司教の胸ぐらを掴み上げ、悪魔は言い放ちました。
「あの司祭の足元にも及ばぬ下衆が。悪人であるお前に苦痛を与えることは悪行ではなかろう。私が神に代わって罰を与えてくれるわ!」
そして、司教を抱え夜空へ飛び立ったのです。
あまりの恐怖に気を失った司教が目を覚ました場所は、あの老司祭がいた教会の前でした。
「ようやくお目覚めか。気分はどうだ?」
司教は自分を見下ろす悪魔に声を上げようとしましたが、あることに気がつきました。
いつの間にか身体はすっかり縮んで子供となり、声すらも出なくなっていたのです。
「気付いたか? お前はもう司教じゃない。ただのガキさ」
途方に暮れる司教――少年を悪魔が嘲笑いました。
「親無し宿無し、口も利けんガキがどうやって生きるか楽しみだよ。まあ、安心しろ。ここなら週に一度はまともなものが食える。それも、黒パンより上等な食い物がな」
そう言って教会を指差しました。
言葉の意味を察した少年に悪魔は頷いてみせました。
「そう、日曜礼拝の焼き菓子だよ。お前が左遷して死なせた司祭に感謝して食べることだな。これでお前も、礼拝の大切さがよく分かっただろう?」
泣きながら追い縋る少年を振り切って、悪魔は夜の闇に消えました。
こうして、少年にとって辛い日々が始まったのです。
人目を忍んで日陰に暮らし、井戸の水で渇きを癒やす食うや食わずの生活。
口が利けないのでは、誰かに助けを求めることもできません。
心から己の行いを悔いた少年は、焼き菓子がもらえる日曜礼拝に欠かさず参加し、誰よりも真剣に祈り、礼拝の後に食べる菓子のおいしさに感激しました。
そして、いつしか礼拝は少年にとって、生きる目的そのものとなっていったのです。
それは、彼が司教であった時には理解できなかったことでした。
「君はいつも真剣に祈っているね」
ある日、礼拝の後で修道士の一人が少年に微笑んで言いました。
「実は君の祈る姿を見て思い付いたことがあってね、焼き菓子の形を変えてみたんだ。生地を細く伸ばして作ったんだけれど、どうだい。腕を組んでいるように見えるかな?」
そう言って修道士が差し出した菓子は愛らしいハートのような形をしていました。
少年は涙を流しながら頭を垂れ、受け取った菓子を噛み締めました。
現在に伝わるブレーツェルがハートのような不思議な形をしているのは、この為だそうです。
……私が知っている物語は、ここで終わっています。
その後、少年となった司教がどうなったかは語られていません。
ですが私は、きっと彼が救われたものと信じています。
そうでなければ物語の重要な部分は伝わりませんし、きっと老司祭もそう望んでいたでしょうから。