第八章 深層と、真相
ある日の夜。
俺と瑞希は「ある場所」の前に立っていた。時刻はもうそろそろ深夜の時間帯。俺たち以外の人影はない。
「壮介君……」
瑞希が俺の手をギュッと握ってきた。夏が過ぎ、もうすぐ冬の足音が聞こえてきそうな季節の夜。上着を着込んでいなければ肌寒さを感じる。
しかし、瑞希が俺の手を握ってきたのは、寒いからではない。
それは俺も感じている、得体の知れない不安から……。
事はもう始まっていた。
だから、俺は行かなければならない。
ある人物……犯人の暴走を止めるため。
怖い。正直言って怖い。相手が何をしてくるのか、全く判らない。
でも、でも……俺は!
俺は瑞希の身体を抱きしめた。瑞希の身体が、俺の身体の中へ入ってしまうかもしれない程、ギュッと抱きしめた。瑞希は全身の力を抜き、俺の胸に顔を埋めていた。
俺は、瑞希の身体を引き離した。見ると瑞希の頬は涙で濡れていた。
そして瑞希は、俺の上着の袖を掴み、離さなかった。
「やっぱり、私も行く」
正直、瑞希と一緒にいたかった。瑞希と一緒なら、どんな怖いことでも乗り越えていけるような気がする。
でも、それだけはできない。
俺は瑞希を危険な目に遭わせるわけにはいけない。
それに、今回瑞希には重要な役割がある。
俺に万が一何かあった時、警察へ通報してもらわなければいけないのだ。
「アーホ、泣くなって。大丈夫だよ、きっと」
俺は瑞希の頬を指で拭いてやった。
「全て上手くいく。上手くいくようにするために、俺はここにいるんだ」
俺は瑞希に背を向けた。
「じゃ、行ってくる。頼んだぞ、瑞希」
俺はもう、振り返らなかった。
※※※※※※※※※※
一歩 一歩 私はすすむ
今日を最後に 私の思いは 完遂する
この日を どれだけ どれだけ 待ち望んだことか
あの日から あの子を失ってから 私の時間は とまったまま
でも あいつは 今も尚 のほほんと 生きてやがる
あの子の命を奪っておきながら この太陽の下 生きてやがる
許せない ゆるせない ユルセナイ
でも これで やっと楽に なれる
私も あの子も
これで終わる……
「どこへいくのですか?」
えっ……!
※※※※※※※※※※
俺は「ある人物」の前に立っていた。
「ある人物」は胸にダンボールを抱えていた。そして額に汗を浮かべ、俺の登場にかなり動揺している様子だった。
「正直、あなたとはこんな所で、こんな形で会いたくはなかったです」
これは紛れもない、俺の本音であった。
「ある人物」はダンボールを胸の前で、ギュッを抱え締めた。隠しているつもりなのだろうか。
「どうして……ここに……?」
搾り出すような声で、俺に問いかけてきた。額から零れる汗が、ダンボールの上にポタポタと落ちていく。
「あなたを止めるために、ですよ。文子さん」
ダンボールを抱え狼狽する「ある人物」……それは文子さん。
俺たちは今、佐野クリニックの前で対峙していた。
「行かせませんよ、大学病院へは」
「は……? 何を言っているの?」
とぼけているつもりなのだろうか。俺の言葉に、文子さんは口元を歪めた。
俺の登場に少なからず動揺しているようで、その声はかすれていた。
「そのダンボール、中身は爆弾ですか?」
俺の言葉に、逐一過敏に反応する文子さん。ダンボールを隠しているつもりなのか、上体を捻り俺に背を向けた。
俺は一歩、文子さんへ近付いた。
「何!」
文子が俺に対して放った言葉。しかし、その声は俺の方を向いていない。
俺と目を合わせることができないようだ。
「どうして……どうして?」
文子さんは自身の足元に向かって、かすれた声で独り言のように呟いている。
「最初は、ちょっとしたきっかけでした」
俺はもう一歩、文子さんに近付いた。
「アンダーソン」
文子さんには、俺の口から放たれた言葉が意外なものだったのだろう。捻った上体から首だけを動かし、視線を俺に向けてきた。
「これは文子さんの、演劇部時代の芸名ですね。演劇部の芸名は、ある法則によって決められている。そうですね?」
俺の問いかけに、文子さんからの返答はない。しかし、その瞳の色が図星であることを物語っている。
「文子さんがアンダーソン。俺がニューヤ。瑞希がヒルボン。一見デタラメだけど、これには英語と日本語を利用して形成されている。例えば俺、新谷の『新』。これを英語にするとNEW。そして新谷の『谷』。『谷』を音読みすると、『ヤ』。これらを繋ぎ合わせてニューヤになったんですよね」
因みに瑞希は、岡本の『岡』を『丘』に置き換え、英語でHILL。そして『本』の音読みである『ホン・ボン』を繋ぎ合わせ、ヒルボンとなったのだ。
そして……、
「アンダーソンを『アンダー』と『ソン』にわけます。英語のUNDERは日本では一般的に『下』という意味で認知されている。そして『ソン』というのは『村』の音読み。つまり……」
俺はもう一歩、前へ出た。
「文子さん、あなたの本名……否旧姓は、下村文子。裏付けは昔の学生名簿で取らせてもらいました」
「……そ、それが何だっていうの?」
文子さんは何とか冷静を装おうとしているのが、俺には手に取るように判った。
しかし、額に浮かぶ汗と、かすれた声は誤魔化すことはできない。
そう、最初はちょっとした好奇心。
それを追いかけ続けていると、
いつの間にか、とんでもない深みにまで辿り着く。
「文子さん……。あなたについて、できる範囲で、色々と調べさせてもらいました」
勿論失礼は承知の上。俺は大学に保管されてある過去の記録等から、下村文子という人物へ行き着くことができた。
「当時文子さんの所属していたゼミの教授とお話することができました。文子さん、あなたは生まれはこの辺りではないですが、母方の実家が藤野川の中野地区にありますね。そして学生当時、そこから大学へ通っていた。そうですね?」
俺の問いかけに、やはり文子さんは無言。
しかし俺は言葉を続ける。
「文子さん、あなたには歳の離れた弟さんがいましたね」
「弟」という言葉に、文子さんの瞳が揺らいだ。夜の闇の中でも、それははっきりと確認できた。
「そして、その弟さん……大和君は、もう亡くなっていますね。十五年前に」
十五年前……やはり、今回の事件はそこから始まっていたのだ。
「あの日、中野地区で夏祭りがあるからと、実家から弟さんを呼んだのですよね? そして、あの事件に巻き込まれた」
文子さんが、呼んだ。だから殺された……。
俺はあえて、そういう言い回しを使った。
「弟さんを失った悲しみ、それは俺にはとても計り知れない。とてもとても、残酷な現実だったでしょう」
その時、文子さんの瞳が俺の顔を捉えた。
「な、何を根拠に……」
言葉は短い。しかしそれは文子さんのできる、精一杯の反論だったのだと思う。
「最初は、ちょっとしたきっかけですよ」
俺は人差し指を立ててみせた。
「俺は文子さんの旧姓が、下村だということを知った。実は俺、文子さん以外で下村という姓の人物に会ったことがありません。でも、俺は文子さん以外で、下村の姓を名乗っている人物を、あと一人知っています。それが大和君でした」
俺は持っていたカバンから、一冊の雑誌を取り出した。
これはとっつぁんが持っていた事件当時の雑誌。これに掲載されていた事件の死亡者一覧に、下村大和という少年の名前があったのだ。
二人の「下村」……。果たして偶然なのだろうか?
「文子さん、あなたは十五年前、二回生の時に大学を中退していますね。それは、看護士を目指すため、そうですね?」
俺の問いかけに、文子さんは何も返してはこなかった。尤も、俺も返答を期待していない。
「あなたは十五年前の、あの日、あの夏祭りにいた。そして、あなたはそこで、目を覆いたくなるような地獄絵図を見た」
毒物が混入したたこ焼きを食べ、血の混じった嘔吐・白目を剥いて、苦しそうに地面をのたうち回る男女・子供・老人……。
もし人類が滅亡するならば、みんなこうなって死ぬのだろうという瞬間の光景が、目の前にある。
その時、文子さんは大きなため息をついた。
「どうすることも、できなかった……。悔しかった……」
目の前で自分のよく知っている人たちが、苦しんでいる。でも、自分は何もできない。何をどうしていいのか判らない。
あの時の文子さんは、俺には想像もできないような絶望感に襲われていたのだろう。
「大学では演劇以外、何も考えずにいた。就職とか将来の夢とか・・・・・・。あの日、私は誰も助けることができなかった自分を恥じた。だから私は大学を辞め、看護士を目指したの。もう誰も見殺しにしないために……」
俺はもう一歩、文子さんへ近付いた。
だんだん目が慣れていた。
その時、文子さんの頬が濡れていることに気付いた。
十五年前、文子さんの人生は大きく転換した。
しかし、問題はその後。
そこから、どう道を曲がりくねって、今文子さんは爆弾を胸に抱えているのか?
俺がぶち当たったのは、もし文子さんが犯人と仮定した場合、動機は何なのかということ。
言いかえると、その爆弾は、一体誰のためのものなのかということ。
「俺が今回の件で、疑問に思ったこと。それは、犯人は本気で白川十未子を狙っていたのかということなんです」
あの病院爆破事件、動機を毒物で何人もの住民を殺した(かもしれない)白川に対する恨みとするのは無難であるし、白川本人も、あれは自分を狙ったものだと思い込んでいる。
しかし、それにしても、リスクが高すぎる。
爆弾は確かに殺傷能力が高い。しかし、それはあくまで対象者が一定の場所で留まっていればの話。何の拘束もされていない特定の人物を、多くの人が集まる場所の中で狙う場合、爆弾は確実性に欠ける。
事実、あの爆破事件で死者は出ていない。
「あれは白川を狙ったものではない。言うなれば、囮の爆弾」
俺はさらに一歩、文子さんへと近付いた。
「な、何を……?」
一歩一歩近付いてくる俺に、文子さんは鋭く警戒し、ダンボールを強く締め付けた。
「白川宅に届いた脅迫状。あれも囮ですね。世間の目を白川へ向けさせ、犯人が本当に狙っている対象への注目を逸らさせるために」
「何なの? 何が言いたいの!」
文子さんは声を荒げた。俺の位置から、文子さんの心臓の音が聞こえてきそうなくらいだ。
「文子さん、あなたが狙っているのは大学病院ですね」
そして、俺は突きつける。
「もっと具体的に言うと、大学病院の財部教授ですね。あの事件を最初、食中毒として処理してしまった」
文子さんの方から、グシャッという音が聞こえた。
強く締め付けすぎて、ダンボールの側面がひしゃげていた。
俺はこう推測する。
十五年前の、あの事件が起きた夜……。
事件発生後、たこ焼きを食べた数十人の人々は、次々と救急車で運ばれていった。
そして一番多くの人が搬送されたのが、藤野川の大学病院。
そこで対応にあたったのが、当時まだ一介の医師だった財部教授。
財部教授……否財部医師は、若いながらも非常に優秀な医師であると、当時から評判であったらしい。教授にも好かれ、将来の助教授・教授候補とも言われていた。
つまり、財部という医師は、将来を約束され、周囲からもチヤホヤされていた存在であった。
しかし、そこに落とし穴があった。
必要以上に周りから持ち上げられた財部医師は、自分の医師としての力量を過信してしまっていた。
例えば……どんな患者が来ても、自分は一目で最善の処置が浮かんでくるとか……。
そのような慢心で、夏祭りの会場から運ばれてきた人たちを診たのかもしれない。
そして、こう言ってしまったのかもしれない。
「これは……食中毒だ」
「そして、その後。保健所と警察が、たこ焼きの成分を分析したところ、大腸菌のような細菌ではなく、農薬の成分を検出した。ここで初めて、これが毒物混入事件であると判明した」
しかし、時は既に遅かった。食中毒と毒物による中毒、症状は似ているが処置方法はまるで違う。誤った処置をされ、症状は回復せず、あるいは更に症状が悪化していく。
その「更に症状が悪化」した人の中に、大和君がいた。
当時まだ幼い大和君は、毒物と戦えるだけの体力は備わっておらず、亡くなってしまった。
逆に考えれば、ちゃんとした処置を行っていれば、大和君は死なずに済んだのかもしれない、ということ。
「少し考えれば、素人でも気付くような判断。しかし財部医師は、それを誤ってしまった」
それに気付いた遺族の気持ちが如何様のものだったか、想像に難くない。
「当時からですか? 財部医師への復讐を考えていたのは」
俺の問いかけに、文子さんは無言。しかしその瞳は嘘をつかない。
己の力量に慢心した医師が起こした「人災」。最愛の弟を失った文子さんは、財部医師への復讐を考えた。当時から爆発物を使用したものを考えていたかは定かではないが、何らかの方法で実行しようとしていたのではないだろうか。
「しかし、ここで思わぬことが起きた。事件の犯人として、白川が浮上したこと」
犯人として疑惑の目を向けられることとなった白川は、これまた派手にメディアに露出した。連日連夜、周囲を記者やTVカメラが取り囲み、空からはヘリコプターが見張っていた。
「当時白川も文子さんと同じ中野地区で生活していた。大勢の記者やTVカメラが常に張り付いている状態だから、妙な行動を起こすことはできなかった。そしてその後、大学を中退し、看護士の道へと再スタートを切った。……そうですね?」
俺はもう一歩、前に出た。
文子さんの顔が、もう目の前まできていた。
「俺も人から聞いて知ったんですけど、財部医師が教授に就任したのは、つい最近だそうですね」
あの事件後、初歩的なミスを犯した財部医師が、病院内でどんな処分が行われたのかは定かではない。しかし、現在教授に就任しているということは、重い処分ではなかったということは間違いない。もしかしたら、処分自体無かったのかもしれない。
「……許せなかった」
文子さんの、涙で濡れた唇が開いた。
「一度は、復讐なんて恐ろしいことはやめよう、弟……大和の冥福だけを祈って生きていこう、そう決心した……」
言葉を紡ぎだしていく度、文子さんの瞳から大粒の涙が零れていった。
「なのに……! あの医者が、教授となって、大和のことなどもう忘れてしまったかのように、大きな顔でのうのうと病院を闊歩していることが、どうしても許せなかった!」
その後も声にならない声で、話し続ける文子さん。おそらく大学病院、財部教授に対する想いのたけをぶちまけているのだろうが、俺には聞き取ることができなかった。
そして、最後に。
「文子さん、爆弾はどうやって?」
唯一残った疑問。どうやって爆弾を入手したのかということ。
しばらくの間があった後、文子さんは口を開いた。
「自分で……作ったの。インターネットのサイトを観て……。材料を集めるのには苦労したけれど、こんなオバサンでも案外簡単に作れたわ……」
言い終わる頃、文子さんの声は弾んでいた。哂っているように感じる。誰の何を哂っているのだろうか……。
「文子さん・・・・・・」
俺は文子さんへ半歩近付いた。
「俺は警察じゃない。そして文子さんは俺なんかよりも大人の人だ。文子さん自身の身の振り方は、文子さんにお任せします。ただ、文子さんが後悔しない判断、そして何より大和君を悲しませない判断を、お願いします」
俺は手を伸ばし、文子さんが抱えているダンボールに手をかけた。
強く締められていると思われたそれは、まるでリボンを解くかのように、しゅるりと文子さんの手から離れた。
「では、失礼します」
俺はダンボールを抱え、踵を返した。
俺がクリニックの敷地を離れる間、後ろから文子さんの嗚咽が、ずっと聞こえていた……。