第六章 貴方のお名前、何てえの?
白川に脅迫状が届いてから一週間が経過した。
今のところ、白川の周囲に変わったことはない。白川宅は相変わらず記者たちに取り囲まれているが、以前と比べカメラの前へ出てくる回数は減っていた。
本人も警戒しているだろうし、周りを何人もの人間に囲まれているのだから、そう易々と手は出せない状況。
脅迫状が届いた頃は、けっこう騒がれていたが、今となっては、やはり悪戯だったのではという見解が多数を占め始めていた。
講義終了後、俺と瑞希はレポート作成に必要な資料を探すため、市立図書館へと向かった。
一応大学にも図書館があるのだが、蔵書量がそれ程多くないため、目当ての資料が見つからない時は市立図書館へと出向くことがある。大学からは自転車で十分程度の所にあり、羽音の学生もちらほら見ることができる。
俺はとっつぁんに野暮用があったので、瑞希は先に図書館に向かってもらい、場所取りを任せておいた。
瑞希に遅れること三十分、ようやく大学を出発。用事はすぐ済むはずだったのだが、とっつぁんの長無駄話に捕まってしまった……。大学を出たところで、俺は瑞希にメールを送信し、これから向かうことを伝えた。
「あら、こんにちは」
自転車を走らせ、図書館の近くに来たところで、見知った顔と出会った。
佐野クリニックの文子さんである。ナース姿ではない文子さんは、けっこうレアだ。
俺は自転車を停め、軽く会釈をした。
「ども。こんなところで会うなんて奇遇ですね。図書館ですか?」
文子さんの自転車の前カゴには、妙に膨らんだトートバッグが入れられており、また文子さんには珍しく、リュックサックを背負っていた。どちらにも本が入っているのだろう。
「うん、そうよ。新谷君もこれから図書館? さっきカノジョさん見かけたわよ」
「あ、はい。レポート書くのに、図書館で待ち合わせしているんです」
そんなカンジで俺と文子さんは、他愛のないことを話していた。
しかし、俺は図書館に瑞希を待たしている身だし、文子さんもこれから午後診の準備だし、お互いここで長く時間を潰せなかった。
俺は適当に話を切り上げて、その場を離れようと思った。文子さんも自転車から降りず、急いでいる様子だったので、話を切り上げてくれた。
「さようなら、また今度」
お互い、そう言い残して別れようとした。
しかし、文子さんとすれ違った時、あることに気付いた。
「あ、文子さん、リュック開いてる!」
文子さんのリュックは、ファスナーが半開き状態となっていて、中の本が落ちかかっていた。しかし文子さんはそのことに全く気付いていない様子であった。俺も何度か叫んだが、俺の声に気付かず、そのまま走り去っていった。追いかけようかと思ったが、もう大分瑞希を待たせているので、仕方なく図書館の方へと向かった。
今度会ったら笑いのネタにしてやろう……。
しかし、文子さんは図書館からああいう状態だったのだろうか?
もしかして道に何か落としていないのだろうか?
気になったので、俺は図書館に到着するまで、道に何か落としていないか、一応注意していた。
俺が図書館に到着するまでの間、さすがに本は落ちていなかったが、数枚の書類が落ちていた。
それは病院に関する資料のようで、幾つかの病院の案内図や見取り図・住所や電話番号が記載されていたが、どこの病院かまでは判らなかった。
おそらく文子さんが落としたものだろう。仕事で必要なものかもしれないので、後でクリニックへ届けに行ってこよう。
俺は拾った書類を自分のカバンにしまい、図書館の中へと入った。
「壮介君、これ年表のコピー」
「おう、サンキュ」
大学のレポートというのは、作成が非常に面倒くさい。単に、一つのテーマに対し自論を主張しているだけでは、何の評価も得られない。それを裏付けるための資料や他の人が書いた論文を引用・添付しないといけないのである。うちの学部の教員陣は「裏付け」に関してはかなり舌鋒鋭く、特にとっつぁんは斜め四十五度から突っ込んでくるカンジなので、いいかげんな気持ちでやると思わぬ火傷をしてしまう。
俺は基本的にキャンパスライフをエンジョイしていると思っている。しかしこのレポート作成がやってくると、とても気が滅入ってくる。しかも今回は必修科目でのレポートなので逃げることができない。
瑞希はレポート作成に関していえば、俺よりも遥に要領がいいので、どんな無理難題が出ても、必ず及第点を取っていた。
「よし、これで何とかなりそうだな」
そんな瑞希のおかげで、今回のレポート、何とかメドがついた。まあ色々突っ込みどころはあるかもしれないけど、少なくとも「不可」をくらうことはないだろう。我がカノジョ、瑞希に感謝だ。
「壮介君、ゴメンちょっと待っててね」
瑞希はケータイを持って出口の方へ歩いていった。律儀にも図書館内では電源をオフにしている。
残された俺は、とりあえず資料等をカバンにしまった。その時、図書館前で拾った数枚の紙が目に入った。
「帰りに届けに行かなきゃな」
俺はカバンを閉め、瑞希が戻ってきたらすぐ出発できるよう、帰る準備をしておいた。
「でも、その前に一つ……」
俺はカバンを置いたまま、司書受付へ向かった。
「え、壮介君何やってるの?」
戻ってきた瑞希が、俺の姿を見て目を丸くしていた。
俺の周りには新聞が何十部も広げられていたからだ。
「何をって、見ての通りだ」
「見ても何が何だがさっぱり……」
まあ、そうだろう。この絵ヅラだけを見て、今俺が何をやっているのか判るヤツがいたら、そいつは絶対に俺の心が読める!
「あれだよ、十五年前のたこ焼き事件」
それを聞いた瑞希は、さらに目を丸くした。
白川に脅迫状が送りつけられてから一週間。一向に何の動きもないが、俺は事件についての興味を失ったわけではない。巷では悪質な嫌がらせではないかという説が大勢を占めているが、俺は今回の騒動について、十五年前に起きた事件が関係しているように思えるのだ。
最初は単なる好奇心。それを突き進んでいくと、とんでもない深みへと入り込んでしまう。
そして誰も辿り着けないようなところまで……。
「ここ、読んでみろよ」
俺は瑞希に、ある新聞を手渡した。
「え、これ……」
新聞を受け取った瑞希は、さらにさらに目を丸くした。瑞希の目はどこまで丸くなるのだろうか?
俺が瑞希に渡した新聞。それは十五年前、八月十一日の夕刊。
事件翌日の夕刊である。
俺は社会面のある部分を指で差した。瑞希は俺の指先を目で追った。
「えっと、十日夜、藤野川市中野で催された夏祭りで、集団食中毒・・・・・・」
社会面の隅、僅か三行の記事。そのスペースは、同じく社会面に掲載されている四コマ漫画にも負けている。
「そしてこれが、八月十二日朝刊」
今度はどこに何が書かれてあるか指し示す必要はない。一面にデカデカと「毒物混入」という文字が躍っていた。
「うん、すごい騒ぎになっていたみたいだね」
確かに、この日以降、しばらくはこの事件の記事が一面を飾っていた。当時、この事件に対する関心度を伺うことができる。
「でも、一つ気になることがあるんだ」
俺は他の八月十一日夕刊と、翌十二日朝刊をいくつか広げてみた。
「見ろよ。十一日の夕刊では、どの新聞社もこの事件の第一報を『集団食中毒』って報じているんだ。でも、翌日の朝刊では『毒物混入事件』に変わっている」
これが一体何を意味するのか?
「つまりこの事件って、最初は食中毒として扱われたってこと?」
この新聞記事の移り変わりを見ると、多分そうであろう。最初は単なる集団食中毒騒動、社会的にさほど重大な問題ではないと思われていた。だからこんなに扱いが小さいのだ。
しかし、それが毒物混入事件ということが判り、扱いが一変したのだろう。
「でも、それってちょっとおかしいんだ」
「え、どういうこと?」
俺は瑞希から新聞を受け取り、手元で広げてみせた。
「食中毒と毒物による中毒。この二つは似ているけれど、発症の仕方は全然違う。大体食中毒ってのは、痛んだものを口に入れて、何日かの潜伏期間があって発症するものなんだ。一方毒物が混入していた場合、大体は口に入ればすぐ発症する。そして今回の事件、みんな夏祭りで出されたたこ焼きを食べて発症している。だから潜伏期間がないんだ」
ここまでくると、瑞希もピンときたようである。
「じゃあ、詳しい人なら、それが食中毒なのか毒物による中毒なのか、状況を考えたら判るんだ」
「ああ、そういうこと」
しかし、ここで一つ疑問が出てくる。何故そのような報道がなされたのかということである。
はっきり言って、これらの違いは専門家でなくても判りそうなこと。一社の新聞が第一報をこう書いてしまっても、まあ不思議な話ではないが、八月十一日夕刊で第一報を伝えた新聞が揃ってこのような記事を書いていたことは、ちょっと信じられなかった。
八月十一日の夜、事件の背景に一体何があったのだろうか……。
ああ、また新たな謎が増えてしまった……。
図書館を出発した俺たちは、文子さんが落としたと思われる書類を届けるため、佐野クリニックへと向かった。
「壮介君、まだ開いてないみたい」
佐野クリニックに到着すると、入り口には『休憩中』と書かれたプラカードがぶら下がっていた。クリニックの午後診は五時半から。時計を見ると五時十分前。もうそろそろ待合は開くはずだ。
俺は試しに入り口のドアを引いてみた。すると鍵はかかっていなかった。
「こんにちは〜。文子さんいますか〜?」
俺は扉を開け、名前を呼んでみた。
「あら、新谷君?」
すると待合室には文子さんと、見覚えのある後姿があった。
「あ、新谷君。こんにちは」
ショートカットの茶髪頭がこちらに振り向いた。間違いない、大学の演劇部部長だ。俺の後ろにいた瑞希も演劇部部長に気付き、お互いに挨拶を交わした。
「何してんの? どっか調子悪いの?」
「年下のクセに相変わらずタメ口ね。うちの部じゃ許されないわよ」
この演劇部部長、大学三回生で一年浪人しているから、俺より二つ上。しかし、背が低く童顔のため、どうも「先輩」というカンジがしない。よって、敬語は「自然と」出てこない。
「全くもう……」
しかし、同じ文化系サークルの繋がりから、度々一緒に活動することがあるので、俺たちとは見知った関係。だから、この程度のことでいちいち目くじらは立てない。
苦笑いしている演劇部部長の横で、文子さんは一冊の本を膝に置いて笑っていた。
「何ですか、それ?」
瑞希が本の存在に気付き、文子さんに訊ねた。
「ああ、これ」
文子さんは俺たちの方に本を向けてきた。それは芝居の台本のようであった。
「文子さん、芝居でもやるんすか?」
「ハハッ」
俺の問いかけに、文子さんではなく、演劇部部長が割って入ってきた。
ていうか……何だ、人を小バカにしたような今の笑い方は……。
「文子さんは、羽音大学演劇部のOGなんだよ。新谷君知らなかったの?」
俺と瑞希は同時に驚きの声を上げた。文子さんが羽音のOG!?
「え……、ちょ、ちょっと待てよ。じゃあ何で今看護士やってんだよ?」
うちの大学に看護系の学部はなかったはず。なのに、何故看護士?
「もしかして、無免?」
盗んだ注射器持って走り出したりするのだろうか?
「アーホ」
演劇部部長に冷たく一蹴された。……何かイラッとくる。
「その言葉、壮介君が言われているのって、けっこう新鮮かも」
新鮮もクソもねーよ!
「フフッ。OGっていうのは、ちょっと違うかもね」
文子さんは、俺に台本を手渡してきた。
「これは?」
文子さんから手渡された台本。それは少々年季が入っていた。
「私は元羽音の学生で、その時演劇部に所属していたの。でも二回の時に中退しちゃった」
「え、どうしてですか?」
「それは……見ての通り」
文子さんは瑞希の問いかけに、笑顔で両手を広げ、俺たちの方へ白衣を強調してきた。
「看護士になるため……?」
すると文子さんは、笑顔で人差し指を立てた。
「ちょっと、思うところあってね。別に大学が嫌になって辞めたわけじゃないわよ」
「へ〜、知らなかったな」
俺は文子さんから手渡された台本に目を落とした。
「それはね、私が学生時代に出演した芝居の台本よ。前にね、探してほしいって部長さんに頼んでいたのよ」
タイトルの書かれた表紙をめくると、一ページ目に出演者一覧が記載されていた。
「なんじゃこりゃ」
俺は思わず顎を突き出してしまった。一覧に書かれてある名前が、ちょっと変わっていたからである。
マウンテンボン・アキラ
フラワーデン・ チサト
スターヤ・ マモル
…………
こんなカンジである。どんなセンスで、この名前をつけたのだろうか?
「ああ、それね。変わっているでしょ」
ページの内容に気付いた演劇部部長が身を乗り出してきた。
「うちの演劇部はね、芝居に出演する際、自分の本名をもじった芸名をつけることが決まりになっているの。でないと、出演者一覧が漢字ばっかりになって、つまんないでしょ」
観る側がそこまで求めているかどうかは別として、まあ面白い趣向ではあると思う。
「ちなみに文子さんは何て呼ばれてたんすか?」
すると演劇部部長が指を差してきた。
アンダーソン・アヤコ
他の芸名に比べ、文子さんの芸名は、割と普通だった。勿論「この中では普通」ということである。
「へえ〜、何かカッコいいですね」
横に目をやると、何に対して喰いついたのか、瑞希は目を輝かせていた。
「あなたたちにも、つけてあげようか?」
目を輝かせている瑞希を目の当たりにした演劇部部長が、そう提案してきた。
そんな簡単にできるようなものなのか……。
「そうねえ……。岡本さんは……、ヒルボン・ミズキ!」
ヒルボン……? 昼にBON! ……?
「そして新谷君は……ニューヤ・ソースケ」
演劇部部長よ、人に人差し指を向けるのはやめなさい……。
てゆーか何だよ。その訳の判らない芸名は!
「私ヒルボン! 壮介君ニューヤ!」
訳が判らない俺の横で、瑞希が異常に盛り上がっていた。ちょっと、引く……。
そんなくだらない話をしているうちに午後診の時間となった。別に診察を受けにきたわけではない俺たちは、クリニックを出発した。
芸名をもらった瑞希は、出発してからもテンションが上がりっぱなしで、しかも、
「これから壮介君のこと、ニューヤって呼んでもいい?」
などと提案してきたため、これ以上調子に乗せないために一発頭突きを喰らわせておいた。
ところで、俺は今日何をしにクリニックへ赴いたのだろうか?
…………
あ、文子さんが落としたと思われる書類を届けるためだった……。