『探偵のワトソン役、つまり物語の記述者は自分の判断を全て読者に知らせなければならない』
椅子にぐったりと身を沈めていた高橋刑事は、びくりと体を震わせてからこちらを凝視した。
「何だって……瀬名君、それは聞き捨てならないね。ひとつ、君の推理を聞かせてもらおうじゃないか」
萎れていた気力を奮い立たせ、こちらに向き直る高橋刑事。彼なりに凄んでいるつもりなのかもしれないが、童顔の彼には全く迫力がない。俺は気にせず、ついさっき思いついたばかりの仮説を披露した。
「おおむらさんの部屋の扉は……いや、ここの客室の扉は全て外開きで、蝶番が左側についています。つまり、ロビーから見て右側にあるおおむらさん、世々さん、高橋刑事の部屋は、扉が開くとその向こうが死角になるわけです。更に、おおむらさんの部屋の扉が開いている間、その向こうにある高橋刑事の部屋の扉は、ロビー側からの死角になります」
「……ほう。確かにそうだね」
「つまり、犯人はおおむらさんの頭部を殴打した後、そのまま部屋に潜んでいた。電気を消したのは、誰かが入ってきた時すぐに見つけられないようにするためです。そして、松生さんがおおむらさんの部屋の扉を開けた瞬間、気付かれないように外に出る。松生さんの意識は倒れているおおむらさんに集中するでしょうから、誰かが足元をこっそりすり抜けても意外と気付かないかもしれない。この方法なら、窓についた指紋を拭き取る余裕もありますし、俺に姿を見られることなくおおむらさんの部屋を脱出できます」
高橋刑事は頬杖をついて少し俯き、眉間に皺を寄せる。その姿がちょうどロダンの『考える人』にそっくりで、俺は思わず吹き出しかけてしまった。
「……ふむ。しかし、そうしておおむらさんの部屋を脱出した犯人はどこに姿を消したのか……答えはひとつ、おおむらさんの扉が開いている間に、死角となっている俺の部屋に逃げ込んだ。つまり犯人は俺以外に有り得ないと、君はそう言いたいのかね?」
「はい、仰る通りです……部屋を脱出する際の仮説のみですけれど」
「なるほどね……では、俺が犯人であると仮定して、俺はどうやっておおむらさんの部屋に入ったのかな? まさか、おおむらさんが松生さんの部屋に向かう際に、死角を利用して俺の部屋からおおむらさんに気付かれないように忍び込んだ、なんて言わないだろうね?」
俺は首を竦めて見せた。被害者のおおむら自身が松生の部屋に向かうために出てきた時、そして松生の部屋から戻ってきた時に扉を開けたのはほんの一瞬で、高橋刑事が自分の部屋から飛び出して忍び込むような時間的余裕は全くない。そもそも、いくら酔っていたとはいえ、その状況ではおおむらに見つからないように移動すること自体がほぼ不可能なのだ。侵入した手段については、まだ有力な仮説がない。
「わかりません。おおむらさんが自分で窓を開けたとか、そんな可能性しか。或いは、おおむらさんがあの部屋にチェックインする前に部屋に潜んでいたか……」
「チェックイン前は扉が施錠されているとオーナーも証言したそうだ。不可能だよ。つまり侵入経路は窓しか有り得ない。それも、おおむらさん自身に開けてもらうしかない。それは認めるね?」
「……はい」
高橋刑事はひとつ溜め息をついた。
「まず、俺とおおむらさんには面識がない……残念ながらね。きっと認知すらされていないと思うよ。だから、こちらから働きかけて開けてもらうことはできない。不審者扱いされて終わりだ。ましてや、ファンからの殺害予告があったばかりだから、きっといつも以上に用心していたことだろう。つまり、おおむらさんが自発的に窓を開けるのを待つほかない。だが、仮に何らかの理由でおおむらさんが自ら窓を開けたとして、俺はどうやってそれを察知するんだ? まさかずっと外で見張っていたと言うのかね?」
「……考えにくいですが、全く有り得ない話ではないと思います。それに、おおむらさんが窓を開けてそのまま鍵を閉め忘れていたか、オーナーが部屋を掃除した際に閉め忘れた可能性もないとは言えません。例えば、メトロポリタン・ヴァンガードのファンである高橋刑事が、この宿に彼らが宿泊していることを知り、窓から覗きに行ってみたら鍵が開いていたからそのまま入ってみた、とか。もしかしたら、おおむらさんが松生さんの部屋に行っている間にこっそり忍び込み、戻ってきたおおむらさんと鉢合わせして、慌てて殴ってしまったのかもしれない」
しょげていた高橋刑事の目に、再び鋭い光が宿り始めた。
「ふむ。まあいいとしよう。では、何故犯人は……つまり俺は、そのまま現場にとどまったのかね? 通常、犯人は一刻も早く現場を離れようとするものだ。窓から自分の部屋に戻ればよい話じゃないか。そして、そのまま窓を開けておけば、それが外部の人間による犯行であると誰も疑わないだろう。俺は掲示板を見てメンバーに殺害予告が出ていたことを知っていたのだからね。犯行が行われたのは深夜だ。このあたりは人通りも少ないし、窓から出られない理由があったわけでもないだろう。つまり、現場に留まるリスクを負う理由がない。それに、扉から出入りすること自体、誰かに姿を見られるリスクが大きすぎる。この事件では現に、君がロビーから廊下を見ていたことで密室が成り立っているのだよ。君が言う通り、俺が自分の窓から外に出ておおむらさんの部屋の窓から中に入ったとしたら、俺にはロビーや廊下の状況を確かめる術がないのに、そんな判断をするだろうか? そもそも、誰かが扉を開けた瞬間に出て行くということ自体、リスクが大きすぎるじゃないか。いくら部屋が暗いといったって、飛び出す瞬間にばれてしまったらどうするのかね?」
彼は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。どことなく嫌味というか、人の反感を買いやすそうに見えるのは、顔の造りのせいだろうか。
「それにね、おおむらさんは生きているんだよ。ずっと部屋に潜んでいたなら、何故とどめを刺さなかったんだい? 突然目を覚まされて声でも上げられたら、それでおしまいだろう」
なるほど、見事な反論だ。俺自身、少々無理がある仮説だとは思っていたし、ちょっと脅かすつもりで言ってみたに過ぎないのだが、それにしてもこれほど簡単に論破されるとは。エリート刑事の看板は伊達じゃないということか。
「……ええ、そうですね……すみません、これ以上の反論は不可能です」
俺は素直に敗北を認めた。すると、高橋刑事は立ち上がってこちらに歩み寄り、労うように俺の肩をポンポンと軽く叩いた。
「瀬名君、君の推理はなかなか面白かったよ。素人にしては鋭いところを突いている。だが、少々詰めが甘かったね」