『中国人を登場させてはならない』
松生の悲鳴を聞いて、客室にいた宿泊客たちが一斉に廊下に飛び出してきた。ただ一人、鮫ちゃんを除いて。
つまり、メトロポリタン・ヴァンガードのメンバーである葉政、世々と、初めて見るもう一人の宿泊客、そこに俺と松生を含めた五人が、一斉におおむらの部屋の前に集まったわけだ。
「えっ、えっ、メトロポリタン・ヴァンガードの皆さんが何故ここに……?」
民宿『やすらぎ』を数年ぶりに満室たらしめた最後の宿泊客は、部屋に備え付けの浴衣を着た小柄な男性だった。どうやら、彼もメトロポリタン・ヴァンガードのことを知っているらしい。ファンの規模を考えれば、偶然居合わせる確率は相当低いのではないだろうか……いや、俺もどこかで彼を見かけたことがあるような気がする。小柄で、童顔で……はて。
「えっ、君、俺達を知ってるの?」
世々の問いかけに、彼は紅潮した顔で答える。
「は、は、はい! さっきのライブも、参戦させていただきました! あの、ずっとファンで……」
そうか、思い出した。ライブ会場で見かけた観客だ。終演後、ずっと俺の隣でぼんやりしていた男。そもそも、俺が東京で既視感を覚える相手なんて、あのライブ会場で見かけた人物以外に有り得ないではないか。
「あの、ごめんなさい、今はそんな話をしている場合じゃないみたいよ」
葉政の冷徹な声が、二人の会話を遮る。
俺達は、再びおおむらの部屋を覗きこんだ。
部屋の間取りは俺達の部屋とほとんど同じで、強いて違いを挙げるとすれば、廊下を挟んで線対称になっているために左右が逆であることぐらいだろうか。だが、当然ながら布団は一つしか敷かれておらず、それだけで部屋がだいぶ広く見える。布団は部屋の手前側に敷かれており、奥の開いたスペースには小さなテーブルが置かれていた。テーブルの上には大量のビールの空き缶。おおむらは、頭を布団の上に、手足は部屋の奥の方へ投げ出すような格好で仰向けに倒れていた。
頭部から流れ出た血液が布団を赤く染めている。床には小型の黒いキーボードが投げ出されるように置いてあった。このキーボードの角が凶器となったのだが、黒を基調とした外装のために、血が付着していることには気付かなかった。
その異様な光景に全員が暫し言葉を失っていたが、世々が意を決したように部屋に上がり込み、おおむらの脈と呼吸を確認し始めた。手首に触れ、鼻の前に手をかざし、胸に耳を当てる。
「まだ息があるぞ! 早く救急車を!」
世々がそう叫ぶと、松生は慌ててスマホを取り出した。すると突然、その様子を黙って見ていた最後の宿泊客が部屋に上がり、こう叫んだ。
「は、早く救急車と……警察を! そして、皆さんはもう現場に入らないでください」
彼はごそごそと懐を探っていたが、目当てのものがなかったらしく、首を捻っていた。これは後になって推測したことなのだが、きっと、警察手帳を出そうとしたが、浴衣のため入っていなかったのだろう。
「私、警視庁捜査一課の高橋と申します。この場は私にお任せください!」
「あ〜〜あれ、なんの騒ぎっスか、これ……」
その時ようやく、寝ぼけ眼の鮫ちゃんが部屋から姿を現した。
それから待つこと数分。救急隊と警察が駆け付け、おおむらは救急車で病院に搬送された。メンバーが付き添いを申し出たのだが、警察の判断でそのまま現場に留められることになったようだ。民宿『やすらぎ』はたちまち大勢の鑑識官で溢れかえり、俺達関係者は、同じ敷地内にあるオーナーの自宅に集められた。
「せっかくこれだけのお客様に来て頂いたのに、このようなことになってしまって……」
オーナーの女性が、誰にともなくぽつりと呟く。会社役員の夫と二人暮らしだが、民宿の方は彼女が一人で切り盛りしているらしい、という刑事の会話が漏れ聞こえてきた。騒ぎを聞きつけて会社役員の夫らしき人物も顔を見せたが、心配というよりは、面倒なことに巻き込まれたという態度に見える。
普段は閑古鳥が鳴いている場末の民宿。突然の降って沸いたような忙しさに手が回らなくなり、パニックを起こして客の頭数を減らそうと凶行に及んだ……なんてことがあるはずもなく、彼女もその夫も事件とは無関係なので、彼らに関するこれ以上の説明は割愛させて頂こう。
さて、目撃者である我々六人は、現場に到着した所轄の刑事の指示に従って、オーナー宅の応接室に通された。事件性があるとすれば、我々は重要参考人、ありていに言えば容疑者だ。刑事からの事情聴取及び行動の制限は免れないだろう。
しかし、一見したところ事故の可能性もないとは言いきれないような状況だった。警察の対応は些か過剰にも思える。
かつて、やんごとなき事情のため似たような経験をしたことのある俺は、今後の捜査の流れをある程度冷静に推測することができた。しかし、鮫ちゃんは明らかに落ち着かない様子だった。彼だって事情聴取そのものは初めてではないはずなのだが、やはり自分が容疑者という立場になると話が違うということか。
もちろん、かく言う俺だって心中穏やかなわけではない。警察の杜撰な捜査で、やってもいない罪を被せられるのではないかという不安はあった。俺はあまり警察を信用していない。
他の宿泊客に目を向けてみると、それぞれ様子はバラバラだった。
ギタリストの世々は、応接室の椅子に深く腰掛け、うなだれたまま両手で顔を覆っていた。その両手と長い髪に隠れて表情は全く窺えなかったが、どうしてこんなことになったのか、と途方に暮れているようにも見える。
第一発見者となったリーダーの松生は、世々とは対称的に、時折呻き声を上げながらぼろぼろと泣いていた。しかし、それでもリーダーとしての責務を果たすべく、マネージャーやスタッフへの連絡を一手に引き受けているようだ。彼が電話で話していた内容から察するに、もうすぐ彼らのマネージャーがここに到着するらしい。せわしなく歩き回り涙を流しながらも、努めて気丈に振る舞おうとしているように見えた。
彼の発言や動作がいちいちオカマのそれであることに、鮫ちゃんは驚いていたけれど。
紅一点の葉政は、赤いワンピースから覗く長い脚を組み、座椅子の背もたれに沈んだまま、じっと目を閉じていた。あれはもしかして、ステージ衣装ではないだろうか。その表情は、祈りを捧げているようでもあり、また、涙を堪えているようにも見える。重苦しい空気に満たされた応接室の中で、葉政の赤いワンピースだけが際立って鮮やかだった。
最後の宿泊客である高橋刑事は、いつの間にかスーツに着替え、髪までセットしていた。先程から所轄の刑事と何やら話し込んでいる。小柄で童顔な高橋刑事が、いかつい顔をした中年の刑事にタメ口をきいている様がなんとも妙だった。しかし、中年の刑事が彼に敬語を使っているところを見ると、彼が捜査一課のエリート刑事であることは事実のようだ。
どうやら高橋刑事は捜査の指揮を自分に執らせろと要求しているらしいが、現在は所轄が担当している事件で、客観的に見れば容疑者の一人である高橋刑事にそんな権限が認められるはずもない。高橋刑事の無茶な要求に、担当の中年刑事は困惑している様子だった。
エリートを自認するのならば、世々より先に現場に踏み込むべきだったのではないかと思うのだが……。
結局、指揮権が高橋刑事に委譲されることはなく、俺達は個別に他の部屋に通されて、中年刑事から事情聴取を受けた。事件に巻き込まれるのはこれが三度目になるが、事情聴取は緊張するし、慣れるということはない。
高橋刑事を含めた全員の事情聴取が終わると、俺達六人は再び応接室に集められた。高橋刑事を除いた五人は皆、丸テーブルを囲むように配置された座椅子に腰掛けている。
「え〜、おほん」
見張りの刑事と何やら話していた高橋刑事が、わざとらしく咳払いを一つ。
「警察では現在、事件と事故の両面で捜査を進めております。たった今、所轄の刑事から事情聴取があったこととは思いますが、私から今一度、状況の整理をさせていただきたいと思います」
つまりは、探偵の真似事をしようということだろうか。勿体つけた口ぶりで部屋の中をゆっくりと歩き回り始めた高橋刑事を見て、見張りの中年刑事は苦笑いを浮かべていた。もしかして高橋刑事は、古畑任三郎に憧れて刑事を目指したのではないか。口調や身振りから、何となくそんな印象を受けた。
「被害者、おおむらけいは、数時間前……午前一時半ごろ、宿泊している民宿の自分の部屋で、後頭部から血を流し昏睡状態で発見された。現場にあった黒いキーボードで殴打されたものと見られ、凶器となったキーボードからは指紋が拭き取られていました。第一発見者は、松生さん、あなたでしたね?」
高橋刑事が松生を見る。松生はこくりと頷いた。
「その時の様子を伺ってもよろしいですか?」
松生はおもむろに口を開く。
「今日のライブでツアーが終わって……本当なら今ごろ打ち上げのはずだったのに、それができなくなったわけでしょう。それで今夜は、私の部屋に世々くんとけいくんを呼んで、今回のライブの反省点とか、今後に向けての話し合いをしていたんです。バンドメンバーとは言っても私達はプライベートでほとんど付き合いがないから、メンバーが揃った機会に話し合っておこうと思って。でもけいくんはすぐに自分の部屋に引き上げてしまって……」
まだ事件のショックから立ち直れていないらしく、話が要領を得ない。しかし、高橋刑事は元々メトロポリタン・ヴァンガードのファンなので、この辺の事情はすんなりと呑み込めたようだった。そういえば、彼は松生のオネエ言葉に何の違和感も持たないのだろうか。ひょっとすると、熱心なファンの間では公然の秘密になっていることなのかもしれない。
「けいく……いや、おおむらさんが部屋に戻ったのは何時頃かわかりますか?」
「はっきりとはわかりませんけど……大体午前0時20分から30分あたりだと思います」
「それから、何故おおむらさんの部屋に行かれたのですか?」
「ええ、今回演奏した曲について、ちょっと確認したいことがあったものですから、まずLINEをしたんです。でも既読がつかなくて……彼、打ち上げできなかったのが随分残念だったらしくて、ここまで来る途中に寄ってきたコンビニでごっそり酒を買ってきたんですよ。それで、これから飲み直すって言っていたから、まだ寝てはいないはずだと思って。けいくんは普段からあまりLINEを見ないほうなので、声をかけてみたの。でも返事がなくて、ためしにドアノブをひねってみたら、鍵がかかっていなくて……」
ちなみに、この民宿『やすらぎ』にオートロックという近代的な機能はない。
「それで、部屋に入られたと」
「ええ、そしたら部屋は真っ暗で……もしかしたらもう寝てるのかな、と思って引き返そうとしたんですけど、でも、なんというか、少し胸騒ぎがしたものだから、電気をつけてみたの。そしたら……」
松生はそう言うと、部屋の惨状を思い出したのか、ハンカチで目を覆った。
「なるほど。その時、部屋には入られませんでしたか?」
「いいえ、入り口だけです」
「他に、部屋にどこかおかしなところはありませんでしたか?」
「……いえ、なかったように思います」
高橋刑事は少し考えている様子だった。
「では、ここには事情を知らない者もいるでしょうから、メンバーの皆さんが打ち上げに参加されなかった理由を説明していただいてもよろしいですか?」
事情とは何だろう。高橋刑事はそれを知っているような口ぶりだが、知らない者とは俺と鮫ちゃんのことだろうか。顔を覆ったまましゃくり上げ始めた松生に代わって、葉政が答える。
「実は、ライブが終わってから、某匿名掲示板の私達のスレッドに殺害予告が出されたんです。『自分の好きな曲をやらなかったから』なんて書いてあったけど、理由はよくわかりません。元々ストーカーまがいのファンがいて、警察にも何度か相談しているんですけど……刑事さんに直接こんなことを言うのは心苦しいけど、警察って事件が起こるまでは何もしてくれないでしょう?」
これには、高橋刑事も見張りの刑事もばつの悪そうな表情を浮かべた。
「それで、何かあったらいけないから、急遽打ち上げも中止になりました。我々は皆都内に住んでいますから、本来ならすぐに解散になるところですが、万が一のために空いてる宿に移ることにしたんです。自宅を突き止められているメンバーもいますからね。今夜はここしか取れなかったからとりあえずここで一晩過ごして、明日からは別のホテルに滞在しようか、と話し合っていた矢先のことで……殺害予告の件は警察にも通報したはずですけれど……」
「なるほど……実は殺害予告の件は、私は掲示板を見て存じておりました。しかし、まさかメンバーの皆さんが同じ宿に宿泊されていて、しかも私の目の前でこのような事件が起こるとは……。すぐに警察に通報したのも、殺害予告の件があったためです。対応が後手に回ってしまったこと、警察を代表してお詫び申し上げます」
高橋刑事は深々と頭を下げた。
ストーカーまがいのファン……たしかに、異常なほどのめり込んでしまうタイプのファンもいるかもしれない。現に、何か思い詰めたような表情の観客を何人か見かけたような気もする。しかし、アーティストとファンの一線を越えてはいけないし、ストーカーも殺害予告も許される行為ではない。もちろん、ファンのほとんどはそれを弁えた上で応援しているはずなのだが。
「ところで、葉政さんは松生さんの部屋での話し合いには参加されなかったのですか?」
「ええ、私はライブの後はなるべく一人で過ごしたいものですから。もちろん打ち上げがあったら参加していましたけど、その後はずっと一人ですね」
「なるほど。ありがとうございました」
葉政の話が終わると、高橋刑事は世々に水を向けた。
「先程松生さんから、おおむらさんと一緒に松生さんの部屋にいたと伺いましたが、その点、間違いはありませんか?」
世々は、顔を覆っていた両手を下ろし、訥々と語り始める。低く落ち着いた声で、もしかしたら松生よりもヴォーカルに向いているのではないかと思った。
「松生からLINEで呼び出されて、おおむらと一緒に松生の部屋に行きました。おおむらはその時既に少しアルコールが入っていて、話し合いをするような雰囲気ではありませんでした。おおむらが部屋に戻ってからはずっと二人で話していましたね。今回のツアーのこと、次に発表する予定の曲のこと、結成してからこれまでの思い出話やなんかをね。正直いって、殺害予告なんて俺もおおむらも全然真に受けていなかった。マネージャーや松生はビビりすぎだと思っていました。それが、こんなことになって……」
「心中、お察し申し上げます」
高橋刑事が神妙な面持ちで頷く。
「刑事さん、おおむらの容態はどうなんですか」
世々の質問に答えたのは見張りの刑事だった。
「まだ検査中のようです。ただ、発見が早かったのが不幸中の幸いであると」
「そうですか……あの時、おおむらを一人で部屋に帰したりしなければ、こんなことには……」
そう呟いて、世々は再び項垂れた。
「じゃ、そこの君たちは?」
高橋刑事は俺と鮫ちゃんを見ながら軽く顎をしゃくった。メトロポリタン・ヴァンガードのメンバーに対する態度と比べると、はっきりと差がある。先に答えたのは鮫ちゃんだった。
「お、俺は、部屋でずっと瞬さんと一緒にいました。シャワー浴びたら猛烈に眠くなって、爆睡しちゃって……そんで、なんか廊下がやけに騒がしいなと思って目を覚ましたら、もうおおむらさんが倒れてるって大騒ぎで……」
「へえ。で、そっちの君はそれを証明できる?」
高橋刑事は、俺達の顔すら見ずに、何やら手帳に書き込みながら言った。若干腹立たしかったが、この場で彼に逆らっても何のメリットもない。
「鮫ちゃんがすぐに寝てしまったのは事実です。でも、俺はそれからロビーの椅子に腰掛けて、ずっと本を読んでいました」
俺の証言を聞いた高橋刑事は眉根を寄せた。
「……ん? ずっと、とは?」
「文字通り、ずっとです。おおむらさんが発見されるまでずっと。その……鮫ちゃんの鼾がうるさくて、寝られなかったものですから」
高橋刑事は、手帳から顔を上げ、ようやくこちらを見た。
「……つまり、君達はお互いにアリバイを証明できないわけだね。ところで、瀬名君と言ったか、ずっとロビーにいたという君は、何か不審な物音や人影を見なかったかね?」
さて、前置きが随分長くなってしまったが、ここでようやく冒頭の場面に戻ることになる。同じ場面を俺が語っても二度手間になってつまらないだけなので、次のシーンの語り手は鮫ちゃんに譲ってみようと思う。