『探偵方法に超自然の能力を用いてはならない』
事の発端は数日前に遡る。
大学からの帰り道、彼女とのディナー(という名のラーメン)を楽しんで、マンションまで送り届けたのち、そのまま帰路についた俺は、自宅の前で鮫ちゃんに遭遇した……いや、遭遇というよりは、隠れて俺のことを待ち構えていたようだった。
「あっ、瞬さん! ちょうどよかった、ちょっとお願いしたいことが……」
ちょうども何も、そこで待ってたんじゃないか、とは思ったが、口には出さない。
京谷家は、我が家の前の道路を挟んだ向かい側にある。おそらく鮫ちゃんは家の玄関に隠れてずっとうちの様子を窺っていたに違いない。
時刻は夜九時を過ぎたところ。辺りは既に真っ暗で、冬を間近に控えた秋の夜風がひりひりと頬を刺す。わざわざこんな時間に、いったい何だろう。
「おう、鮫ちゃん。どうした? 勉強か?」
「違いますよ……実はね、一緒にライブに行ってほしいんです。さっきLINEしたんですけど、見てないでしょ?」
「あ、ああ……ごめん、見てない」
俺は基本的にLINEをあまり見ない。これについては彼女にもよく怒られるのだが、俺が自らの行いを改めるよりも、周りの人間達が俺の習性に慣れていくことのほうがずっと早かった。まあ、LINEをする相手自体、片手で数えられるぐらいしかいないのだが。
「やっぱり……瞬さん、『メトロポリタン・ヴァンガード』っていうバンド知ってます?」
「メト……? いや、知らない。俺、音楽あんまり聴かないから。有名なの?」
「あ、いや、まあ……知る人ぞ知る、って感じですかね」
知る人ぞ知る。不思議な日本語だといつも思う。知ってる人が知っているのは当たり前じゃないか。この言葉はあまり有名でないか、ニッチな、或いはコアな人気があるものに用いられることが多い。
「……実はね、今そのバンド、ツアー中なんですけど、今週末、東京でなんですよ。で、俺、どうしてもファイナルに参戦したくて、チケットとったんです」
「ふむ」
「でも、ほら、東京でライブっていうと日帰りはできないじゃないですか。だからマンガ喫茶かどっかで適当に一泊しようと思ったんですけど、母さんが『一人で東京行くなんて危ないからダメだ!』なんて言い出して……」
なるほど、話が見えてきた。俺に保護者役を頼みたいということだろうか。しかし、京谷家の奥さんがそこまで心配性な人だとは知らなかった。そもそも、京谷家は青葉に引っ越してくるまで都内に住んでいたはず。
「それで、俺に?」
「はい、姉貴にも話してみたんですけど、全然つれなくて……」
鮫ちゃんの姉は名を小雨といって、鮫ちゃん同様長い付き合いなのだが、ここでの詳しい説明は控えておこう(※)。
「週末ならまあ空いてるからいいけど、俺の分のチケットはあるの?」
「当日行けなくなった人から譲ってもらうことになってるんです。番号は離れ離れになっちゃいますけど……」
「それは構わないけど、会場は? 大きいところ?」
「いやあ、そこそこのハコらしいですよ」
ライブハウスに関する知識が全くないため、『そこそこ』の感覚がわからない。
「ライブハウスか……初めてだけど、大丈夫かな」
「大丈夫大丈夫、番号通りに並んで入っていくだけですよ」
本当だろうか。ライブハウスという場所は何となく、新参者にはハードルが高いイメージがある。
「で、宿はもうとってあるの? 都内で週末だったら、きっともうあんまりいいところは空いてないと思うぞ。ネットカフェも週末だと混み合うし」
「いやあ、宿のほうはまだこれからで……」
まあ、同行者が見つけられるか不透明だったのだから、こればかりは仕方ないか。寒空の下、野宿だけは勘弁してもらいたいものだが。こういう場合、男二人だとラブホテルが使えないのが不便なところだ。
「今からじゃ、そんなにいいホテルは取れないだろうな。宿代も吊り上がってるかもしれないぞ」
「うわ、マジっすか……参ったな」
「まあ、最悪、カプセルホテルだな。いいよ、ついて行こう」
「え、いいんですか? 本当に? いや~~マジでありがとうございます! もうほとんど諦めかけてました!」
と、こんな経緯で俺は、メトロポリタン・ヴァンガードなるバンドのライブに参戦することとなった。
もちろん、断ろうと思えば断ることもできただろう。チケット代が鮫ちゃん持ちとはいえ、交通費と宿泊費は自腹となるのだから、バイト学生の俺にとって決して安い出費ではない。
では何故同行する気になったかといえば、それはライブというものに対して純粋な興味が湧いてきたからだ。怖いもの見たさと言い換えてもいい。一人で全く知らない音楽を聞きに行くのもなんだか気が引けるし、不思議なことに、俺の周りには鮫ちゃん以外にそういう音楽を聴く知り合いがいなかった。これもいい機会かもしれない。
そして今日。
新幹線に揺られること一時間、東京に着いてから電車で二駅ほど。
「うわあ、東京だ……」
改札を出た鮫ちゃんは、初めて海から陸に揚がった生き物のように目を輝かせていた。
「あれ、鮫ちゃんは東京生まれじゃん」
「そんなの、物心つく前の話ですよ。もう全然覚えてません。青葉に引っ越してから東京に来るのは初めてです」
京谷家はもともと東京で暮らしていたのだが、俺と小雨が小学校に上がる前の年に、東北で最大の都市である青葉市、我が家の向かいの家に引っ越してきた。それはもう十年以上前の話で、当時の鮫ちゃんは三歳ぐらい。覚えていないのも無理はない。
俺が初めて東京に来たのは中学の修学旅行の時だった。
これでも一応若者の端くれだから、流行の最先端である東京に対して漠然とした憧れを持っていたのだけれど、期待はある意味で裏切られた。
もちろん、パッチワークのように隙間なく嵌め込まれた巨大な街並み、早足で行き交う人々、テレビで何度も見てきた大都市東京の姿は、画面の中と全く変わらない姿でそこにあった。初めて体感するそのスケールに面食らったことも確かだ。
しかし、東京のコンクリートを初めて踏んだ俺が感じたことは、
『東京って、なんだか汚いし、臭いな』
だった。
当時から同じクラスで、修学旅行でも一緒に行動していた小雨が、俺の心中を察したらしく、ぽつりと呟いた。
『まあ、こんなもんだよ、実際』
「瞬さん?お〜〜い」
ふと気づくと、鮫ちゃんが俺の顔を覗き込んでいた。
「あ、すまんすまん。ちょっと、俺が初めて東京来た時のことを思い出してた」
「あんまりボヤッとして、迷子にならないでくださいよ〜? まあ、それはお互い様ですけど」
鮫ちゃんはそう言うと、スマホの画面に目を落とした。地図アプリを開いているようだ。
「え〜っと、ここの大通りをまっすぐ行って、曲がって、曲がって……結構ややこしいなあ」
「この人の流れに付いていけばいいんじゃないか?」
俺は、どこかのライブに参加するらしい女の子の集団を指差す。東京駅からここまで同じ電車に乗ってきた女の子たちで、会話の中に『ライブが』『推しが』『セトリが』という単語を乱舞させていた。だから、きっと目的地は同じだろうと踏んでいたのだ。
「あ、違いますよ瞬さん。その子たちは『タイフーン』のコンサートに行く人達です。知ってますよね? 『タイフーン』」
『タイフーン』か……たしか、五人組の国民的男性アイドルユニットだ。それぐらいメジャーなところなら、俺でも名前は聞いたことがあるし、以前サークルに所属していた際、カラオケで彼らの曲を歌っていた先輩がいたので、曲もいくつか知っている。
「今日、近くでタイフーンのコンサートがあるらしくて。それで、この近辺のホテルはどこも満室で宿とるの大変だったんですよ……。俺達が行くのはもうちょい……いやだいぶマイナーなバンドの、小さなハコです。こっちこっち」
建物の間を縫って、血管のように張り巡らされた細い道路。鮫ちゃんに言われるままついていくと、駅から離れるほど、辺りの風景は少しずつ頽廃的になっていった。ここまで来ると、建物の量や密度は別にして、雰囲気だけなら地元の繁華街とあまり変わらないと思う。時折車も入ってくるが、道幅の狭さに加えて人が多いため、徐行運転を強いられている。実質的には歩行者天国のようなものだ。
タバコの吸殻だらけの細い道路をさらに奥へ。独特の濁った空気……これは混じりあった人間の体臭だろうか。それとも、周辺の飲食店から出される廃棄物の臭いか。いずれにしても、居心地はよくない。
会場へ近付くにつれて、辺りにはセーラー服や独特のファッションに身を包んだ女の子たちが増えていった。
「お、ここだここだ……着きましたよ、瞬さん」
そこは、猥雑な街中に寄木細工のように嵌め込まれたライブハウスの真ん前だった。予想していたより一回り小さい。比較対象がないので当てずっぽうにはなるが、収用人数はそれほど多くなさそうに見える。リハーサル中なのか、建物から響いてくる重低音が辺りの空気を震わせていた。
「じゃ、俺ちょっと物販行ってくるんで、その辺で適当に待っててください」
鮫ちゃんはそう言い残し、そそくさとライブハウスの方向に駆けて行った。
開演時間まではまだだいぶ時間があるはずだが、既に結構な人数が屯している。そこかしこで挨拶回りをする姿が見えるが、あれはみんな知り合いなのだろうか?
SNSが普及した今は、ファン同士の繋がりも持ちやすいと聞く。俺は蝋燭の愛好家なのだが、珍しい蝋燭の情報はSNSで得ることが多い。たとえマイナーなものであっても、同じ趣味を持つ仲間を見つけやすいという点ではもちろん便利だろう。
しかし、それはある意味純粋に趣味を楽しむことが難しくなるという側面もあるわけで、その点については、俺はかなりSNSから距離を置きながら利用しているほうだと言える。まあ、そもそも蝋燭は一人でひっそりと楽しむものだし、愛好家にも接触を好む人はほとんどいないのだが。
音楽のクラスタはどうなのだろう。ただの先入観ではあるが、人間関係がややこしそうなイメージがある。交流が活発なクラスタ内では、一人でひっそり音楽を楽しみたいだけのファンでも疎外感を受けることがあるかもしれない。ただ音楽を楽しむだけでもコミニュケーション能力が求められたりしたら、俺のようなコミュ障は肩身の狭い思いをすることになる。
開場時間が近付くと、ばらばらに散っていた群衆達が突然、アリの行列のように整列し始めた。よく見ると、お互いに手元のチケットの番号を伝え合い、その順番に従って並んでいるらしい。
物販から戻ってきていた鮫ちゃんも、その動きを見て、
「じゃ、俺は前の方なんで。見たらわかりますよね? わからなくても、周りの人が教えてくれますよ」
と言い残して足取り軽やかに列の前方に移動していった。
番号の若い人達が大方前方に集まったところで、徐々にこちらも番号の確認が始まった。
「すみません、何番ですか?」
この台詞があちらこちらから聞こえる。
「すみません、番号は……」
最初に俺に話しかけてきたのは、ピンクの髪にセーラー服、耳や唇にじゃらじゃらと鈴なりのピアスをつけた小柄な女の子だった。普段接することのないタイプのルックスに、思わず体が強張る。
その女の子は、アイシャドウを濃くひいたつぶらな瞳で俺のチケットを覗き込んだ。普通のメイクのほうがかわいいはずとは思ったが、ファッションは個人の自由だ。
「あ、私の後ろですね」
そう言って、そそくさと俺の前に立った。短めのツインテール。香水はつけていないらしい。見た目に反して、口調からは大人しそうな印象を受ける。
念のために言っておくが、この少女(いや、もしかしたら年上かもしれないが)はこの先に起こる事件とは何の関係もない。
会場に入ると、正面のスピーカーから何やら怪しげな音楽が流れてきた。座席はない。スタンディングというやつか。番号順に好きなところに立っていくというシステムらしいが、既に会場の半分は埋まっていて、どこに並んでもステージまでの距離はそう変わらないようだ。
だが、それでも俺と同時に入ってきた女の子達は、ステージ上のマイクや楽器の配置を確認しながら、あっち、こっち、と囁きあっていた。少しでも、数センチでも贔屓のメンバーに近付きたいという心理だろうか。俺はよくわからないので、とりあえず正面に立ってみた。
それにしても、観客は女の子の比率が高い。いったいどういう音楽なのだろう?
しばらくして、会場全体が一気に沸き、わっと黄色い歓声が上がった。メンバーがステージに姿を現したようだ。
最初に現れたのは、ギターの世々仁。中性的な整った顔立ちに、洒落たハットを被っている。
次に現れたのがキーボードのおおむらけい。メンバーでは唯一の茶髪で、世々ほどではないがこちらも髪が長い。面立ちはやや女性的で、身のこなしにもどこかオカマっぽさが感じられる。
彼は数時間後に生死の淵をさまようことになるわけだが、この時の俺には知る由もない。
続いて登壇したのは、リーダーでヴォーカルの松生テンガだ。
むさ苦しい顔に黒縁眼鏡。こちらも男性にしては長髪の部類に入るだろう。少なくともステージ上では、オネエキャラの素振りを全く見せなかった。男性陣は、ジャケットもボトムスも一様に黒い衣装に身を固めている。
そして最後に、一際大きな歓声が上がる。メインヴォーカルの葉政京子の登場だ。
強烈なライトを浴びて艶やかに光る長い黒髪。目にも鮮やかな赤いワンピース。スカートから真っ直ぐに伸びる細く長い足は、まるで石膏のように白かった。
しかし、何よりも鮮烈な印象を受けたのは、その大きな瞳。獲物を捉えた豹のように圧倒的な存在感を放つ両の眼が、会場全体を見渡す。左側からゆっくりと、正面に……。
その瞬間、俺は確かに彼女と目が合った。
これは感動なのか、畏怖なのか。まるで、女王に謁見する一介の騎士のように。
直後に、我ながら飛躍しすぎた連想だと思った。それに、目が合った、なんて鮫ちゃんに話したら、きっと笑われてしまうだろう。皆そう思ってますよ、と。
だが、とにかく、それぐらいの衝撃を受けたのは確かだった。
そして、余韻を掻き消すように鳴り響くキーボードの電子音と、脳髄まで揺れるような激しいドラム(メトロポリタン・ヴァンガードには正式なドラムがおらず、この日はサポートメンバーの男性がドラムを叩いていた。彼もまた、事件とは関係がない)。
真紅の紅をひいた葉政の唇がマイクに近付く。
彼女のハイトーンボイスがスピーカーから流れ出た瞬間、まさに、世界が変わった。
大人びた容姿とは裏腹に、ガーリーな歌声。
思春期の女の子の気持ちを綴った切ない歌詞が、少女のように澄んだ葉政の美声に乗って鼓膜を震わせる。
楽器よりも楽器らしく。
歌詞の持つ力をストレートにぶつけてくる、そんな感覚。
なるほど、だから女の子のファンが多いのか。
彼女達は、この楽曲の上に自己を投影し、自分だけの世界を思い描く。
クリスタルのように透き通った葉政の歌声は、彼女達の連想を一切妨げない、洗練された絵具なのだろう。
柄にもなく、そんなことを考えた。
葉政の美声に耳が慣れたころ、不意に、松生の野太い歌声が、その清らかな絵画世界に墨汁をぶちまけていく。
メトロポリタン・ヴァンガードはツインヴォーカルという形をとっている。にわかファンにすら遠く及ばない俺は、率直に言って、葉政の歌だけでいいんじゃないかと思った。松生はお世辞にも歌が上手いとは言えない。しかし、このツインヴォーカルにはちゃんと表現上の意図があって、俺がそれを理解するのはまだもう少し先のことになる。
最初の曲が終わると、会場は一旦静寂に包まれた。
何だろう、と思っていると、突然響き渡る松生の濁声。
「ところでところで! 皆さん! オナニーはお好きですか!」
はぁぁ?
間髪入れずに会場から合いの手が沸き起こる。
「「大好きで〜〜す!!」」
ここから、松生メインの下世話な曲が始まった。
なるほど、だからテンガなのか……。
ライブが終わると、鮫ちゃんはSNSで知り合ったらしき仲間達への挨拶回りに奔走していた。
鮫ちゃんは、顔立ちが整っているしノリがいいので、普段から女受けがいい。そんな彼のパーソナリティーは、女の子だらけの会場内で、まさに水を得た魚のようにフル回転していた。俺を誘うより女の子に頼んだほうがよかったんじゃないかと思うぐらいだ。口裏合わせぐらいなら協力してやったのに。
鮫ちゃん以外に知り合いのいない俺は、会場の片隅に一人で陣取って、辺りの様子を観察する。
やはり客の大半は十代〜二十代の女の子で、男は二割、いや一割ぐらいだろうか。ピンクの髪にじゃらじゃらピアスを開けているような子はむしろ少数派で、どちらかといえばバンギャのイメージより地味な雰囲気の子が多い印象を受ける。
ふと隣を見ると、俺と同様、一人でぼんやりしている青年がいた。身長は160前後だろうか、まだあどけなさの残る顔立ち。一見すると年下に見えるが、身につけているシャツや靴、アクセサリーなどはどれも値が張りそうなものばかりで、幼く見える容貌とのアンバランスさが妙に印象に残った。
彼が警視庁のエリート、高橋刑事であると知るのは、事件が起こってからのことだ。
それからしばらくして、俺と鮫ちゃんは会場を後にした。
ミステリの筋立てとしては、ライブ中のステージ上で凄惨な殺人事件が起こったほうが画になるのかもしれないが、残念ながら、現実はそううまくはいかないものだ。少々じれったいと感じる向きもあるだろうけれど、事件が起こるまで、今少しお待ち頂ければ幸いである。
ではここで一度、もう一人の語り手、鮫ちゃんこと京谷鮫太郎にバトンを渡そうと思う。
※シリーズ前作『京谷小雨の日常』参照