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夢見る物語を夢の中で見る

作者: 七夕ハル

 夢見る物語を夢の中で見る。いつしか、そんなことも忘れてしまった僕は春咲きの桜を見る。とても暖かい日だった。小鳥たちは元気に鳴き声を轟かせる。少し大げさかもしれないけど、僕は鳥たちの鳴き声が深い啓示のように思えて仕方なかった。母が死んだと、さっき連絡が入って僕はいつも通り歩く公園の遊歩道のベンチの一つに腰かけていた。何も実感はなかった。ただ、一つの命が消え去っていくのを黙って見ていた自分に少しだけ罪悪感があった。見舞いには結局一度も行かなかったのだ。父に遠慮したわけではない。どう接していいのかわからなかった。僕は母と暮らした日々を覚えていない。ただ、そんな時代があったのを一枚の写真で知るのみだ。いつも肌身離さず持っているように父に言われた写真。父と母と赤ん坊の頃の僕が写っている。鏡で見る自分と写真の中の赤ん坊は、確かに鼻筋や目の部分で似通った部分もあったし、父も若いとはいえ、父に間違いなかった。昔は父に良く母のことを聞いたものだ。でも、父は聞かれた時、とても不快なようだった。だから、僕は父に母のことを聞くのをやめた。母には恨みもない。ただ、僕が物心つくころには母は既に病室の住人になっていた。父はやがて再婚し良い家族もできた。妹も生まれた。それでも、僕は家族というものに違和感を持っていた。今日の朝、学校で先生から授業中に呼ばれ、

「お母さんが亡くなったらしい。すぐ行ってあげなさい」と言われて学校を出た。けれども僕の足は病院に向かわなかった。桜は相変わらず咲いていて、僕は変わらないものとかわってしまったものを感じる境遇になったのだと感じた。公園のベンチはとても涼しかった。いい風が吹き、自然のオアシスのようだった。限られた自然の恩恵を一身に受けて僕は深呼吸をした。携帯電話が鳴った。父からだった。父の声はいつも通り落ち着いていた。

「お前が行ってやれ」父の言葉は短かったが、僕は父の気持ちが少しだけわかった。もう父と母は他人なのだ。唯一の肉親は僕だけなのかもしれなかった。途端に、母を哀れに思う気持ちが沸き起こってきた。母はどんな人生を歩んできたのだろう。父と結婚して、僕を産んで、病気になって…………。

 僕は病院に行く決心をした。せめて、最期に顔を見るくらいのことはしなければいけない気分になったのだ。もしかしたら、思い出してしまうことが怖いのかもしれない。母に愛された記憶が戻って今の家庭を壊してしまうのを恐れたのかもしれない。僕は母に会って何と言えばいいのだろう。僕はベンチを立ち上がると、公園の出口の方へ歩き出した。病院は歩いて15分程だ。思えば、こんなに近いのに、今まで会いに行かなかった自分を恥じる気分がある。歩くにつれて、罪悪感めいたものは大きくなっていく。それとともに、母を責める気持ちもあった。どうして、僕が成人するまで待っていてくれなかったんだ。でも、母のことをほとんど何も知らない僕は考える資格さえないのだろう。

 病院に着いて名前を告げると看護婦さんが病室に案内してくれるようだ。僕は黙って視線を落としついていく。看護婦さんの肉付きのいいお尻が視界に入る。看護婦さんが「ここよ」と言って開いたドアの先には、明るい光が注ぐベッドがあった。そこに一人の見知らぬ女が横たわっている。これが、母さん??僕は狼狽した。まるで、写真と違う。やせ細った姿は幽鬼を思わせた。看護婦さんが椅子を持ってきてくれた。促されるままに僕が座ると皮でできたパイプ椅子はひんやりしていた。僕はもう一度母であるはずの顔を見た。何も思い出さない。良かった。僕は何も背負う必要はないのだ。ただ、一人の女が死んだだけなのだ。看護婦さんはしばらく僕を見ていたが、おもむろに喋り出した。

「あなたのお母さん。とても苦しんだの。慣れてる私たちでも見ていられない程だった。でもね、最期は安らかでしょう?きっと夢を見ていたの。タカヒロってずっと呼んでた。タカヒロ立派になって、とも言ってた。誰だろう?と思っていたけど息子さんの名前だったのね。いい夢見て死んだんだと思う。だから、あなたも立派な大人になりなさい。お母さんの夢に負けないくらいのね」

 僕に母の苦しみはわからないが、母が夢を見ていたことはわかった。母はどんな僕を見たのだろう。幸せそうな顔だ。きっと、僕が見舞いに行かなかったからこそ、母の中で僕は理想化されたのだろう。母に感情の重荷は背負わされはしなかったが、僕は母の夢を背負わされた。春の風が一陣吹いた。僕は母から視線を逸らし、窓の外の景色を見た。


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