第3章 救出(2)
カーロは
意識を取り戻した。
あまりの空気の不味さに
吐き気がする。
激しい咳と息苦しさに耐えながら、
カーロは確信した。
ここが、
間違いなく地球であることを。
かつて訪れた地球の感覚を、
その匂いを、
カーロは忘れてはいなかったのだ。
彼はふらふらと立ち上がると
辺りを見渡した。
目前に広がるのは、
記憶の奥に残る懐かしい光景。
そして
背の高い茶色の雑草が生い茂る、
その向こうに見えたのは‥‥
思い出深いあの別荘であった。
愛しいユウリと過ごした日々が蘇り、
切ない胸の痛みがカーロを襲う。
ここを去ってから
一度も忘れたことのなかった彼女に、
もうすぐ会えるのだ。
辺りは不気味に薄暗く、
この世の人間たちが全て死んでしまったかのような静寂に包まれている。
空気の汚染が
急激に進んだのか‥…‥。
ユウリは大丈夫なのか‥…‥。
自宅ではないこの場所に、
果たしてユウリは今いるのだろうか‥‥…。
ワープの失敗でボロボロになった身体を引きずりながら、
ようやく別荘の入口まで来たカーロは、
木製の扉にぶつかりながら倒れた。
物音に驚いて家から出てきたのは、一人の美しい娘だった。
血のにじむ身体で苦しそうに咳をするカーロを見た娘は、
みるみる瞳を輝かせて言った。
「もしかして‥‥!
あなた、カーロじゃない?
カーロがまた来てくれたのね!
本当に迎えに来たのね!
あぁ、なんて嬉しいこと!」
娘は歓喜の声を上げ、その声はカーロを我に返らせた。
この懐かしい声の響きは‥‥!
彼女を見上げたカーロの目に映ったのは、
髪を短く切り揃えた、美しいユウリの姿。
少し痩せているが、あの頃と変わらない。
優しい笑顔がまぶしかった。
「ユウリ‥‥無事で良かった‥‥」
カーロが安堵して微笑むと娘は言った。
「あ、カーロ、ちょっと待ってて!
すぐ連れてくるから!」
急いで家の中に入っていく娘の後ろ姿を見ながら、カーロは困惑した。
「‥‥‥ユウリ?」
そうして娘はまもなく、
白髪の老婆に付き添いながら戻ってくると言ったのだ。
「おばあちゃん、ほら見て!
この人、宇宙人のカーロでしょ?
おばあちゃんの話していたとおり、背中に羽が生えているから、
私、すぐにわかったのよ!」
老婆の目からは
ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
穏やかな赤茶けた顔には多くのしわが刻まれている。
足が悪く一人で歩くことのできない腰の曲がったその老婆は、
なぜか
女神のように美しいオーラで輝いていた。
カーロは理解に苦しみながら
老婆と娘を交互に見つめていると、
老婆は目を伏せてこう言った。
「カーロ。ごめんなさいね。
私‥‥私がユウリです‥‥」
ユウリは88歳になっていたのだ。
カーロは愕然として声が出ない。
「カーロは‥‥あの頃と何ひとつ変わらないのね‥‥。
孫のリサは、私の若い時に本当によく似ているわ。カーロが見間違えるのも無理はないわね。
あぁ、でも本当によかった。
カーロが無事で安心したわ‥‥」
ユウリは目を赤く潤ませた。
今までどれだけカーロの身を案じてきたのか、その表情から全てを察することができた。
こうしてようやくカーロは理解したのだ。
自らが宇宙を放浪している間に、長い年月が経ってしまったことを。
「私はすぐに戻ると言ったのに‥‥
あなたを救出すると約束したのに‥‥。
あぁ、もっと早く来ていれば‥‥」
カーロは涙を流し激しく咳込んだ。
リサが慌てて言った。
「どうぞ、早く中へお入りください。
外は空気が悪いわ。
家の中には高性能な空気清浄機があるの。
カーロがいつ来てもいいように、ずっと前から準備してあったのよ!」
カーロが家の中に入ると、
一人の少年がベッドで眠っていた。
ひどい顔色をしている。
リサは言った。
「弟なの。体調がずっと悪くて‥‥」
するとその隣のソファーに、笑顔の消えたユウリが横たわった。
「ごめんなさい。少し眠るわ‥‥」
戸惑うカーロに、リサは微笑んだ。
「いつものことなの、心配しないで。
おばあちゃんは少し疲れると眠くなるの。
弟も今日はこんなだけれど、体調の良い時は体を起こすこともあるわ。
私も最近気分が落ち込んでいたけれど、
あぁ、今日は素敵な日!
伝説のカーロに会えて、本当に、本当に嬉しいわ!」
その声。その笑顔。
まるで当時のユウリがそこに居るような錯覚の中でカーロは、
地球を離れてから今までの経緯をリサに伝えた。
「カーロも大変だったのね‥‥。
おばあちゃんの為に本当にありがとう。
おばあちゃんもね、
いつも私に教えてくれたわ。
地球人を救うために、
カーロが必ずまた来てくれるって。
私もずっと信じてたのよ。
あ、そうだ。
この曲、聴いてくれる?
『地球と共に』っていう曲なんだけど」
リサが慣れた手つきでパソコンを操作すると、
音楽と共に歌声が流れてきた。
カーロが遊園地で聴いたことのある、
ユウリの美しい歌声である。
地球をもっと愛そうよ ♬
その大切さに気づいて ♬
生活を見直そうよ ♬
大切な地球を守るために ♬
そんなに便利じゃなくていいんじゃない?
地球を汚すくらいなら!
少しくらい暑くても寒くても、
最新技術なんて使わなくても、
そんなの別に いいんじゃない?
地球を殺すくらいなら!
命の源、
母なる大地、
あって当たり前なんかじゃない。
地球にもっと感謝しよう。
私たちは
地球に生かされているのだから ♬
歌い手の熱い感情が伝わってくる。
ユウリの力強い声だった。
「おばあちゃんはね、カーロが去った後、
みんなに大気汚染や地球滅亡の話をしたけれど、誰も相手にしてくれなかったんだって。
でも、カーロとの約束を果たすために、
地球を少しでも改善して行こうとして、
行動を起こしたの。
おばあちゃんは自作の曲を、
遊園地のイベントや路上ライブなんかで歌い続けてね。
徐々に協力してくれる人達も現れたんだって。
歌の趣旨に理解を示してくれた記者から取材が来るようになったり、
世界平和を願う有名歌手たちが、カバーして歌ってくれたり、
そうしてこの歌は世界中に広まっていったのよ。
そのうち、
地球の環境を配慮しようという運動も生まれ、
多くの企業がイメージアップを図って賛同してくれたらしいわ。
地球を汚染する物質や、
私達の身体に入る物質についての
基準もすべて見直され整えられて。
すべては
おばあちゃんの歌から始まったのよ!
そのきっかけを作ったのは、もちろん
カーロ、あなただけどね。
当時
おばあちゃんの支援者の1人だった
おじいちゃんは、おばあちゃんに
どんなふうにプロポーズしたと思う?
こう言ったの。
「カーロが迎えに来るとは言え、
もう10年が経ちました。
何か事情があるのかもしれません。
カーロが迎えに来るまで、
その間だけで構わないから、
自分と結婚してもらえませんか!」って。
素敵でしょ?
おじいちゃんもね、第二の地球に
おばあちゃんを行かせたいって、
心から願ってたの。
おばあちゃんは口癖のように、
『カーロが言っていたのよ』
と言っては、
大切なことを教えてくれたわ。
私たち人間は、
本当は、
とても素晴らしい能力を
持っていること。
自分で不可能だと決めつけてしまわない限り、できないことなんて何一つない。
人間は誰しも必ず超能力が備わっていて、
その能力を使えるか使えないかは
自分次第なんだって。
だから、
おばあちゃんは迷わず出産に挑戦したのよ。
幼い頃から身体が弱かったから、
子供は産めないって
医者から言われていたのにね。
周りの反対を押し切って、
私のママを産んだの。
もし、カーロがいなかったら‥‥
人間に不可能はないって
教わっていなかったら‥‥
きっと、
私のママは生まれてこなかったし、
孫の私も生まれていないわ。
本当に…ありがとう、カーロ!」
リサが満面の笑みを浮かべる。
カーロも思わず微笑み、
そして気がついた。
他の家族の気配がない。
リサの両親も祖父も。
静かに空気清浄機の音だけが、部屋中に響き渡っていた。
「あなたのママやおじいちゃんは、
今どこにいるのですか?」
カーロが尋ねるとリサの表情が曇った。
「行方不明。
っていうより、亡くなった、
の方が正しいかもね。
私の家族はもう、
弟とおばあちゃんだけなの。
三年前、
変な病気が急に流行り始めて、数日で多くの人間が死んだわ。
道でバタバタと倒れて、
救助をする自衛隊や病院関係者まで次々と病気を発症して、
その場で亡くなっていった。
遺体を探した人や処理した人もみんな
亡くなったわ。
結局、原因がわからないまま、
多くの遺体が放置され、白骨化していくのを遠くから見届けるしかなかったの。
その地域に近寄ることさえまだ許されていないのよ。
おばあちゃんが言ったわ。
原因は『Rp44』に違いないって。
カーロがそう言ってたって。
他にもね、恐ろしいことがたくさん。
外で日に当たると皮膚病になったり、急に息ができなくなったりすることもあるの。
だから今は長時間の外出は控えたり、特殊加工の服や傘で太陽光を浴びないようにしたり、
呼吸困難に備えて酸素マスクを持ち歩いたりしなければならないわ。
地球が‥‥
すっかり狂ってしまったの。
あまりにもたくさんの人や動物が死んで、
花や木が枯れて、
空気も薄汚れた色になって、
今の地球は、
史上最悪の危機的状況だと
言われているわ。
誰が死んでも
もう葬式なんてしない。
次はすぐに自分だから。
もうすぐ地球ごと滅びるから。
私と弟とおばあちゃんは、
この別荘にいて助かったの。
おばあちゃんは
いつカーロが来るかわからないからって、
毎日のようにここに来たがっていたから、
私と弟で、ちょうど連れてきていたのよ。
でも……
地球はもう‥‥終わりね‥‥」
紛れもなく空気中の有害物質『Rp44』が
異常な進化を遂げ、
地球全体に悪影響を及ぼしている‥‥‥。
カーロがそう考えると同時に、
強烈な眠気が彼を襲った。
ワープの疲れか‥‥?
その場で崩れ落ちるように倒れたカーロは、
薄れていく意識の中で気づいた。
そうか、脱皮だ!
前回の脱皮は
地球に出発する前だった。
あれから、70年が経ったんだ‥‥。
「どうしたの?カーロ!」
リサは驚いた。
倒れたカーロは、どんなに呼んでも揺さぶってもピクリとも動かない。
死んだようにぐったりしている。
「え?死んじゃったの?いやー!」
リサの泣き叫ぶ声でユウリが目を覚ました。
ユウリも不安を隠せないまま
恐る恐るカーロに近づき、
彼の胸に耳をあてる。
そして微笑んだ。
「あぁ、やっぱり!
大丈夫、心臓の力強い音が聞こえてる!
昔、カーロに教えてもらったのよ。
パラダイス星人は70年毎に脱皮するんだって。
すべての細胞が生まれ変わるまでの数日間、眠り続けるんだって。
このボロボロの羽も身体も、きっと美しく生まれ変わるわ。
あぁ、よかった!」
リサはホッとして胸を撫で下ろし、
ユウリは安堵の笑みを浮かべながら、
カーロの身体にそっと布団をかけた。
「カーロ、ゆっくり休んでね。
そしてお願いよ。
どうか、第二の地球へ連れていって。
この孫たち、二人を‥‥…」
〜続〜