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うさぎ

作者: 栗田 逢

――垣間見える夜の話。

僕を十まで育てたあげた母がぽっくりと死んでしまって、その躯が共同墓地の桜にのみこまれた、その少し前の頃、僕は彼女に連れられて、旭川の大きな祭りに出かけたことがあった。当時、僕の家は千歳のほうにあって、函館本線に乗りさえすれば、じきに旭川まで連れて行ってくれるのである。母は何を思ったのか、七月も後半のある日、僕に唐突に浴衣を着せ、自分も器用に着付けて、旭川まで電車に揺られた。

母はとてもうつくしい顔立ちをしていたけれど、状況に応じて自分を平凡に見せる技術だけはずば抜けてすぐれていた。そして、その本性はとてつもなく奔放な女性であった。そんな母が特にであったときに自由に生きていたときに生れ落ちたのがこの僕、白縫亜灯である。僕と母は、他人から言わせれば『生き写しのように』似ていたけれど、父とされる人間とは、いっさいの血のつながらぬ顔をしていた。

片目だけ赤目だし。銀色じゃくて白髪だし。

僕はいつまでも女、たる、自由に生きる荒野の旅人の母がきらいだ。生き写しの自分もきらい。

女、や、男、そのものだって。

僕と母は手をつないで、仲良く屋台を周りはじめた。物心ついたときから僕は母がきらいだったけれど、母は逆に僕のことをたいへん好いていた。母は屋台でヤキソバを買って、僕にも一口、与えた。おだやかな店の主は、僕の顔を見て顔をしかめて、でも母を見たとたん、女、を値踏みする男、の目に豹変した。それから、もう一度だけ、僕を見て、それでようやく、納得したようにあいまいな笑みを浮かべた。

ああ、女なぞ。男なぞ。

だからいやなのだ。

「なにが食べたい?」先程の店主の視線に感づいたのか、母はやけに間延びした、ねっとりした声で聞いた。僕は黙って、もくもくと歩いた。「ねぇ、なにが食べたいったら」母はなおも続けた。僕は歩く。

五メートルほど歩いたときだったろうか。

ふと視線を横にずらすと、青いビニールシートが敷かれたそこには、ずらりと檻が並べられていた。五、十、十五……!檻の数を数えて、僕はひどく興奮した。

それは兎であった。一つの檻に一匹の兎が入れられ、せまいせかいを必死に跳ねていたのである。僕は吸い寄せられるようにその檻に近づき、しゃがみこんだ。「うさぎ、好きか?」黒いランニングを着たお兄さんが店の奥から出てきた。乾いた唇にアイスをくわえている。僕は十五の檻のうち、一番右端にあるのを指差した。何が楽しいのか、お兄さんはくっくっく、と笑って、鍵の束を投げてよこした。僕がもし、ここのうさぎたちをすべて放ったら、いったいどうするつもりなのだろう、と頭のどこか片隅で思いながら、僕はじゃらじゃらとした束のなかから、てっぺんが星形にくりぬかれているものを選び取った。一番右端にあるうさぎの檻の鍵穴だけは、なぜかとても個性的なかたちをしていたから。

鍵を開ける。束がまた、じゃらじゃらと鳴った。

なかでは、片目だけが真っ赤なうさぎがうずくまって草を食べていた。薄暗い檻のなかでもわかるほどきれいな黒い瞳なのに、片目だけは、すべての血を集めたような真紅色。

僕の左目と、おんなじだ……。

僕はしばらく、そのうさぎから目を離せなかった。「その子な」お兄さんはアイス棒をくわえたまま、話しかけてきた。「遺伝子の病気で、もうじき、遠いどこかに行くんだよ」

暗く沈んだ声だった。「遠い、どこか」僕が聞き返すと、「そう。荒野の、果て」

うさぎは言われてみればたしかに、他のうさぎとは違い、一回りほどちいさなからだをしていて、どこかぐったりしているようにも見えた。おかあさんの真紅を継いだばっかりに。

僕は腕を伸ばし、そのつやつやとした白い毛を愛撫した。どこを触れてもしっとりとやわらかく、そして、なんとも形容しがたいあたたかさをもっていた。「お兄さん、これ」「売れないよ、この子ばっかりは」暗いのに、うさぎのような、不思議なあたたかさにくるまれた言葉だった。「荒野の果てくらい、見届けたいんだ……」白い毛を撫でながら、僕は静かにうなずいた。うさぎはだまって、僕に身をまかせていた。

視界のはしで、走ってくる母の姿をとらえた。お兄さんは僕の手から鍵束を取り上げて、また気だるげに、店の奥へと消えていった。僕は茫然と立ちつくしたまま、あの檻を見つめ、そしてもうじきに荒野の果てにたどりつく、つややかな毛をしたうさぎのことを想った。真っ白でつややかな毛と、唐紅の片目。

ああ、僕のかたわれよ。

母に手を引かれながら、僕はちいさく、口に出してささやいた。

ゆき着く荒野の果てで、やすらかにねむれ。


――そして見えなくなる。

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