ゆりかごの歌
ひどく疲れた。
弱音を吐くことも出来なければ、安らぎを得ることも出来ない。
心から信頼した人間は、必ず離れていく。
愛情を口にした女性は、必ず言質を翻す。
「最後までやり遂げると約束しただろう」
「ここまで本気だとは思わなかったんだよ、そこそこでいいじゃないか」
友人が誘ってきた一大計画。
俺は熱心にそのために資格を取り、資金をかき集め準備を進めた。
「この日のために俺が何年準備してきたか、わかっているだろう!」
「元々そこまで本気じゃなかったんだよ、冗談みたいなもんだったのさ」
実現間近になって出てきたのはそんな言葉だった。
「あの時、口にした気持ちは嘘だったのか?」
「あの時は……そう思ったのよ」
女もそうだ。
「俺に何か落ち度でもあったのか?」
「ないわ。 自分でもよくわからないけど、もうそういう気持ちはないの」
何度裏切られたことだろう?
両親が病気で倒れた時、祖父母が死んだ時。
仕事で対立した相手が悪評を吹聴した時。
仲間が情報を流出させ、俺自身の責任問題にまで発展した時。
そんな時ですら、俺は恋人を大切にしてきた。
誰とも話したくないときだって、求める分だけ力を尽くしてきた。
仕事だっておろそかにしたことはない。
家族のために助力することにも手を抜いたことはない。
……それなのに。
もう疲れたんだ。
そんな時だった。
仕事を辞める同僚が突然告白してきたのは。
「好きです」
「は?」
何を言われたのか、一瞬わからなかった。
「ダメなのはわかっています、我慢しようとも思いました。 でも、好きなんです」
不器用で地味な女だった。
取り柄があるようには見えなかった。
その上、俺からしてみれば、一緒に働いていた以上の接点があったようには思えない。
同僚といえど、別の部署だったからまともに話した記憶もない。
「なぜ、辞める今になって告白を?」
「職場恋愛はしないと言ったじゃないですか」
……言っただろうか?
ひどい目にあったから、もう職場で恋愛する気がなかったのは間違いない。
恋愛対象だと思っていなかったから、そんな話をしたのも忘れていた。
「まさか、そのために職場を辞めるの?」
「ち、違いますっ!」
そんな真っ赤になって否定しなくてもいいだろうに。
仮にそのためにやめたんだったら、脳の構造がおめでたすぎて呆れるを通り越して感心する。
よくそれで今まで社会で生きていけたものだと、感動すら覚えるだろう。
化粧はしているものの全体的にぱっとしない女だ。
というか、女としての色気にも欠ける。
話していて楽しいこともない、聞き上手ですらない。
まともに友達がいたようにも見えなかった。
……しいて言えば、時々はっきり物言いをしていたことくらいだろうか。
誰ともつるまず、会話も下手。
いつもはろくに話せない癖に、仕事のことだとはっきり口にして反感を買う。
それは気まぐれだっただろうか。
目の前で、ああだ、こうだ、と話している言葉はすべて聞き流しながら。
自然と言葉が出た。
「まあ、いいか」
「……へ?」
「正式にお付き合いしましょう」
「ええっ!?」
自分から言っておいて驚くのか。
ていうか泣くな、うっとうしい。
その後も付き合いは続き、1年後にはなし崩しに結婚することとなった。
恋愛感情とかそういったものは、一切なかった。
愛してはいないが、大切にしようとは思った。
しばらくして、妻との間に息子が生まれた。
間違いなく猿だった。
聞いた話だと可愛くて仕方なくなるはずなんだが、可愛いと思うには難しい。
可愛くて仕方ないとは、思い込みだろう。
その猿も、少ししたら人間らしく見えてきた。
……俺も最初は猿だったんだろう、とようやく実感した。
そんなある日、妻が言った。
「この子、今日泣いたのよ」
赤ん坊なんだから、当たり前だろう。
「そうじゃなくて、CDをかけたの。 ほら、童謡の『ゆりかごの歌』」
「ちょっと待て、それ、俺の部屋にあるやつだろう。 ……まさか勝手に入ったのか?」
「素直じゃないわよね、子供向けの曲を内緒で用意しておくなんて」
「質問に答えなさい」
妻は俺の言葉を聞き流して、言葉を続ける。
「とにかく『ゆりかごの歌』をかけたの。 そしたらね」
俺はその言葉を聞いて、耳を疑った。
息子は、つぅ――っと静かに涙をためて流したのだと。
「心配になってお医者さんに連れてったんだけど、時々あるんですって」
赤ん坊が特定の曲を聴いて、涙を流す。
感動なのか、寂しさなのか、喜びなのか、それは定かでないが。
そういったことはある、そう言われたのだそうだ。
「不思議よね」と妻は我が子を抱きしめ、撫でながら言った。
俺は不思議だとは思わなかった。
共働きの両親、自分の気持ちを省みない家族。
『どこか暖かい場所に帰りたい』と、そう思う切ない気持ち。
今もどこか、その気持ちを捨てきれずにいる。
俺は余計なことを口に出さずに、一言だけ言った。
「こいつは俺に似ているな」と。
妻は言う。
「それはそうよ、あなたの子だもの」
その言葉に納得するしかなかった。
こいつはきっと、苦労するに違いない。
俺がなぜ、そのCDを持っていたのか。
それを誰かに聞かれることは終ぞなかった。