別れ話によく合う靴
企画「カウント5」概要
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ガラスの靴、推定二十八センチ。
どういうシンデレラだと言いたいのをぐっとこらえ、その違和感の塊を検分する。造形は文句なしに美しい。が、一体これはどういうことなのか。僕は困惑して持ち主を見やった。
「まさか違いますよね」僕は良く蓄えられた髭を弄るマスターを窺う。
「そのまさかなんだよなあ」にかっとマスターは笑った。
「え、この靴マスターのなんですか!」驚きの余り立ち上がってしまう。そして、喫茶店を営むこの中年の男が、ガラスの靴を履いている所をイメージする。お世辞にも綺麗とは言えない足、透明な故に目立つ毛。いや、もしかしたらちゃんと毛を剃っているのかもしれないとふと考える。
「そんなわけないだろうよお」とマスターは、独特の間延びした口調でそう言った。
「え、だって今、そのまさかって」
「だからあ、いつもの癖で持ってきちゃったよっていうことだよお」それを聞いて僕は納得する。「今朝も起きたら枕元に置いてあってびっくりしたよお。まあ、昨日もたくさん飲んだからねえ」
マスターは酔っ払うと無意識で物を拾ってくるらしい。それも、珍しいものを。マスター自身にそういう物を引き寄せる力があるのか、はたまたマスターが引き寄せられているのかよくわからないが、喫茶店を訪れる度に珍しい物を見せられるのは事実だ。
「で、またですか?」
「そう、そのまたなんだよねえ。だって、なんか楽しそうじゃないか」その言葉を聞いて僕は苦笑する。
僕には昔から、物の気持ちがわかるという異能があった。人間に魂があるように、物にも魂がある。僕はその物の記憶や取り巻く空気が、触れるだけでわかるのだ。
ここのマスターとは、その異能の関係で出会った。それ以来、珍しいものを拾ってきては「触ってくれ」と言われる。まあ、その代わりとしてその日の代金を全部持ってくれるのだが。
「じゃあフレンチトーストとロイヤルミルクティー追加で」
「また高いの頼むねえ」マスターはそう言って苦く笑った。
少し傷ついた桐の箱に入っているのは、右足のみのガラスの靴。やけに大きいそれを慎重に触る。目を閉じ、意識を触れている手へ集中させる。暗闇の中に、一筋の光が差す。やけに尖った光に違和感を感じる。途端、暗闇を閃光が塗り替えた。
真白が映像を映し出した。そこには長い黒髪の綺麗な女性が、嬉しそうに手をあわせていた。手には、ピンクのマニキュアが塗ってある。
一瞬暗くなり、場面が変わる。ゴミ捨て場の中、無造作に捨てられる。近くには有名な博物館があった。そして、黄色い屋根の家。
ぷつん、とブラウン管のテレビが壊れた時のような音を立てて、世界は暗くなった。
一つ溜息を吐いて僕は目を開ける。「ダメですね。今日は調子悪いみたい」
「どんなことが探れたんだい?」マスターが出来立てのロイヤルミルクティーを、僕の目の前に置く。
僕は先程視た情報を思い出していく。「黄色い屋根の家とか、ゴミ捨て場とか」
「あのさあ、感太くうん」マスターがパンを卵に浸しながら聞いてくる。声のトーンからして、嫌な予感しかしない。「今回もお願いできないかなあ」
やはりか、と僕は苦笑する。「報酬によりますね」
「来店三回分タダっていうのはどうだい?」それは嬉しい、と僕の顔から苦味がとれて微笑みに変わる。「まあ、結果次第で報酬は上がるから頑張ってねえ」
「わかりました」どっちにしろあの光について調べるつもりだったから、マスターの提案はラッキーだった。
「そう言えば感太くん、大学四年生だろう? 就職活動とか卒論とか書かなくていいのかい?」
「知り合いが勤めている探偵社に内定もらったんですよ。卒論はぼちぼち書いていってます」僕は少し冷めたであろうロイヤルミルクティーを飲む。まだ少し熱かったそれは、ほどよい甘さを口内に広がらせていく。一言で喩えるならば「まろやか」と言ったところだろうか。
「単位もほぼ取り終えて、論文だけかあ。暇だねえ、感太くん」のんびりとした口調に似合わず、マスターはてきぱきとした動きでフレンチトーストを作っている。甘く香ばしい香りがカウンター越しの僕の元へと届く。
「暇ですね。バイト入れても暇です」
「本とか読まないんだっけぇ?」
読書かあ、と僕は思う。好きでもないし嫌いでもないといった所か。漫画もあまり読まないため、僕の本棚は大学で使ったものしか入っておらず、半分ほどが空いている状態だ。「まあ、ぼちぼちと」
「暇な時は好きなバンドのアルバム流しながら読書がおすすめだよお」そう言ってマスターは鼻歌で曲を奏でる。軽やかな曲調だった。よく晴れた日の朝食時に聞きたい曲だと思う。
「なんて曲ですか?」生憎僕はその曲を知らなかったので正直に聞く。
「フレンチトーストによく合う唄」
「あの、曲名を聞いたんですけど」
「フレンチトーストが出来たよお」
苦笑混じりに聞いた僕の質問は無視され、フレンチトーストが出てきた。湯気と共に甘い香りが僕の前に広がる。
「……いただきます」
結局あの鼻歌の曲名は何だったんだろう、と考えながらフレンチトーストにフォークを刺す。
午前十時過ぎ。博物館が開いたらしく、賑やかな声がこちらの住宅街まで届く。だがそことは違い、この住宅街はあまり人通りが少ない。今僕が見た限りここにいるのは、僕とゴミ捨て場をじっと見つめる彼女くらいだ。たかが数メートルしか違いはないのに、こんなにも賑わいが違うのかと不思議に感じる。
ガラスの靴を触った翌日、僕は昨日視たあの場所へと来ていた。幸い『黄色い屋根』というゴミ捨て場を見つける為の大きなヒントがあったので、すぐにそこを見つけることが出来た。建物の外にゴミ捨て場があったというのも、勝手に調べる上ではラッキーだった。
だが一番ラッキーだったのは、当事者がいたことかもしれない。僕がここに来た時、そこには僕が視た時に写っていた、長い黒髪の彼女がいた。長い黒髪だけならわからなかったが、目の前の彼女は手にピンクのマニキュアを塗っていた。一か八かで声をかけよう。そう思った。
僕は彼女に近づいていく。ゆっくりと、ゆっくりと。ここで驚かれて逃げられたら大変なことになる。
彼女は微動だにしない。何を考えているんだろうか。探りたいが、僕には無機物の心の中しか探れない。
僕は静かに息を吸い込んだ。「可哀想ですよね、捨てられた物って」
彼女の肩が大きく揺れ、こちらを振り向く。怯えた顔で彼女はこちらを見てきた。その顔は紛れもなく、僕がガラスの靴の中で視たあの顔だった。
「なん、ですか?」掠れた声で、彼女はそう言った。視た時よりも目がやけに充血していて、頬が少しこけている。眠らず食わずという所か。
「だって、ろくに愛されもしないで捨てられるんですよ? しかも自分勝手に。みんな神様だと思っているんですよ、馬鹿馬鹿しい。同じ人間として恥ずかしいですよ」
ちらりと彼女を窺うと、目を見開いてこちらを見ていた。やはり驚いているのだろう。そりゃあ、いきなりスーツ姿の知らない男が話しかけてきているんだから無理も無い。
「自分たちだって捨てられたら喚くくせに、捨てたときはすっきりしたような顔をする。最初しか愛していないくせに。――そう思いません?」
「なんで……」彼女はわなわなと唇を震わせる。「なんで、私が捨てられたことを知っているんですか?」
「それはですね」独自の情報網から、と続くつもりだった。だが、彼女の言葉に引っかかった。「捨てられた」と彼女はそう言った。
――詳しく話を聞かなければ。僕はそう思い、彼女をまっすぐに見る。
「申し遅れました。探偵をやっています、愛永と申します。少し、ガラスの靴の件でお話を伺ってもよろしいでしょうか」
「……探偵?」
「ええ、探偵です」
途端、彼女の顔つきが一瞬にして変化した。暗闇の中で一筋の光を見つけたかのような、そんな瞳をしていた。
彼女は僕に背を向け「どうぞ」と言って歩き出した。
ピンクを基調とした、女の子らしい部屋だった。ファンシーなぬいぐるみや、もこもこのベッド。一瞬聞き込みということを忘れ、少しどきどきしてしまった。頭を振って、けじめをつける。
「どうぞ」彼女が僕の前に紅茶を出し、その向かいに座った。
「とりあえず、お名前の方をお訊きしたいんですが、教えて頂けるでしょうか」
「須藤と言います。須藤真由美」しっかりした口調で、彼女はそう言った。先ほどまでの雰囲気は皆無だった。そのことに違和感を感じつつ、話を先に進める。
「えー、先日ですね、僕の所にある依頼が舞い込んで来たんですよ。それが『ガラスの靴』でして、なんとおよそ二十八センチ。依頼主さんはこれについて調べて欲しいということでして、調べることになったんですよ」少し嘘を交える。さすがに依頼主が勝手にゴミ捨て場から持ってきた、なんて言えるわけがない。
彼女の方を横目で見る。反応は特に無し。相変わらずじっと僕を見たままだ。「それで調べた結果、どうやらあなたがガラスの靴を捨てたという情報が入りまして、今回伺わせていただいたというわけです」
「なるほど」
「で、先ほどの捨てられたとはどういうことでしょうか。あ、ガラスの靴の件と関係が無い場合は、お話されなくても大丈夫ですよ」強制ではないことを予め言っておく。あくまでも僕は、ガラスの靴に関することを調べに来ているんだ。探偵が依頼とは関係が無いことに首を突っ込むなどあってはならない。
「あの、探偵さん。その事をお話する前に、一つ約束していただけませんか?」
「約束、ですか」この事は依頼者以外に他言無用、とかだろうか。そんなこと言われなくても当たり前だと思うが。「なんでしょう」
「私からも依頼をお願いしたいのです」
何で他人の依頼を受けなければいけないんだ。僕は口に出したいその言葉を胸に留める。
「あの、申し訳ないんですが」
「前払いとして、ガラスの靴のことを全てお話しします」
その言葉を聞き僕は心の中で舌打ちをする。彼女の話を聞いてしまったら、僕は彼女の依頼を受けなければいけないということだ。溜息をつきたくなるがやめておく。探偵は私情を持ち込んではいけない。とりあえず僕は、どんな依頼かを訊くことにする。
「申し訳ないんですが、依頼の内容を先にお話ししていただけないでしょうか。依頼内容を話さずにやってくれというのは、無理難題かと」
「気が急いていたようですね、すみません」彼女は丁寧に謝った。「探偵さんには、元彼が私を振った真意を調べて欲しいんです」
しかも厄介な案件だよ、と頭を抱えたくなる。今回の依頼のような『想い』を調べるというのは、周りの人への聞きこみでわかるものではないし、結果がはっきりとしていない場合が多い。他の探偵はどうなのかわからないが、僕はとてもやりたいとは思わない。
余程のことがない限り、探偵は調査対象と関わってはいけない。もし探偵だとわかってしまったら、相手はこっちを信用しないしそれに、調査対象に情が湧いて依頼者に嘘をつく可能性もあるからだ。だが彼女の言う依頼内容だと、僕は調査対象と関わらなければいけない。正直言って、自分で解決してくれという気分だった。
「……僕には難しい案件なので、話を聞かせてもらってからでもよろしいでしょうか」僕は長考の末、そう言った。
彼女は僕のその提案に「わかりました」と不満気に言う。案外素直に引いたな、と長期戦を覚悟していた僕は思う。
「私には二日前まで彼氏がいました。しかも結婚を約束していた彼氏が。その彼氏が一ヶ月前に突然言い出したんですよ、別れようって」
頭の中で警鐘が鳴る。全くもってガラスの靴なんて関係なさそうじゃないか。まさか、話をすり替えられているのか、と嫌な考えが頭に浮かぶ。
だが、まだ話は始まったばかりだ。怪しむ自分を僕は宥める。
「で、私は言ったんです。じゃあ、ガラスの靴を履かせてよ、って。私達が運命で結ばれているのなら、あなたはきっとぴったりの靴を持ってくるから、と。そしたら、彼は作ってくるからそれまで信じて待っててくれ、って言ったんです。私は彼を信じて待つことにしました」
そこで信じるのか、と僕は驚く。どうやら、好きな人の言葉は魔法らしい。「それで?」
「そして一ヶ月後、彼が家に来ました。彼は背負っていたかばんから桐の箱を取り出しました。開けるとその中には、ガラスの靴が入っていました。見た目は少し大きく、履けるかなと思いました。けど、運命はきっと私達を結ぶ。そう思って、履いてみたんです」
結末がわかり、僕は少し苛立ってくる。この男、屑野郎だ。
「そしたら、ものすごくぶかぶかなんですよ。で、何でこんなのをって訊こうとしたら、そういうことだからじゃあなって家を出てかれて」彼女は唇を噛みしめ、泣くのを堪えている。「私は知りたいんです! 何で彼がこんなことまでして私を捨てたのか!」
僕は苛立っていた。何をやっているんだ、こいつは。そして、僕が知りたかったあの『やけに尖った光』がどういう意味だったのかを理解する。そう、ガラスの靴は怒っていたのだ。
ガラスの靴というのは、シンデレラに出てくるあの靴だ。王子様が一目惚れした彼女を探す唯一のアイテム。それをこの男はあろうことか恋人を振る為にそれを使ったのだ。許せなかった。怒るのも当然だ。
ガラスの靴は、そういう風に使ってはいけないのだ。どういう風に使うも使わないも持ち主の自由だが、物にだって魂はある。暑かったり寒かったり、寂しかったり苦しかったり、色々なことを感じている。だが、僕ら人間はそれを理解しようとせず「俺らが作ったんだからどう扱ったって別に問題はない」と言う。僕はそれが許せなかった。物だって、本来の用途で使われたいと思っているのに。僕は同じ人間として恥ずかしかった。
こいつは、そういう奴らと同じだ。物の気持ちをわかっていない、屑野郎だ。
「須藤さん、わかりました」今はまだ探偵だ。僕は熱くなっている自分を落ち着かせる。「けれど、依頼は受けられません」
「なんで!」彼女が机を叩いて立ち上がる。「どうしてなんですか!」
「探偵は、依頼に私情を持ち込んではいけません。僕は、この男が許せない。ガラスの靴をこんな風に使うような人間を、許せない」抑えているが、怒りが出そうになる。落ち着け、落ち着くんだ。「だから僕は、『愛永 感太』として奴に、何故そんなことをしたのかを問い詰めてきます」
そう、探偵じゃなければいいのだ。あくまでも探偵であるから調査対象と関わってはいけなくて、依頼を受けなければそんなことは関係がなくなる。
「本当に、本当にありがとうございます!」彼女はお辞儀をした。机の上に水滴が落ちるが、見なかったことにする。
「僕個人のことなので、お代はいりません。強いていうならば、これから物を使うときに少しでも、彼らのことを考えてやって下さい。それだけでも、彼らは喜ぶんで」
彼女は頭を上げないまま「はい!」と言った。
「じゃあ、対策会議へと移りましょうか。真由美さん」そう言うと、彼女はお辞儀をやめた。僕は泣いている彼女に微笑みかける。「理由をばっちり訊ける方法、考えましょう」
「やりましょう!」彼女も微笑んだ。今日僕が見た彼女の表情の中で、それは一番綺麗だった。
インターホンを押す。最初が肝心だ、と僕は気を引き締める。
「はい」沢中の声がした。僕は一つ咳をして、計画通りに話し始める。
「沢中さん、少しお話があるんですがよろしいでしょうか」
「……なんでしょうか」
「出来れば、直に会ってお話ししたいことなんですけれども」
「……帰って下さい」まずい、インターホンを切られる。咄嗟にそう思った僕は、奥の手を使う。
「ガラスの靴」三秒ほど、そう言って待ってみる。インターホンは切れない。話を続ける。「その件で、本日はここまで来たんです」
この男は須藤真由美にガラスの靴を渡した張本人――つまり、須藤真由美の元彼なのだ。
「今、取り込んでいまして」
「彼女さん、いらっしゃるんですか?」取り込んでなどいない。そんなことはもう調査済みだった。ボロを出させるために、そちらへと誘導させる。
「あ、はい。そうなんです」思った通り、沢中は乗ってきた。にやりと笑って、一気に攻める。
「彼女さん、先程出ていかれてたようですが」沢中の驚く顔が、ここからでもわかるようだ。溜まっていく苛立ちを発散させるため、皮肉を一発浴びせる。「へえ沢中さん、他にも『彼女』いたんですかあ。またガラスの靴買わなきゃいけませんねえ」
「どなたか知りませんが、帰ってもらえませんか?」声に少量の怒りが混ざっている。
「帰っていいんですか? このまま彼女さんに、ガラスの靴のこと言っちゃいますよ?」
インターホンが切れた。これは、告げ口してもいいということだろうか。
すると、ドアの向こうで足音がこちらへ向かってくる。高鳴る心臓と沸き上がってくる苛立ちを抑えこむ。冷静に、冷静に。
ドアが開き、男が現れた。写真よりも髭と髪の毛が少し伸びている。隈も少しできているだろうか。
「汚いですが、どうぞ中へ」
「それではお言葉に甘えて」
沢中の彼女が帰ってくるまで約一時間。それまでに話は終わるだろうか。僕は心の中でにやりと笑う。少し、ゆっくり喋ってやろう。
玄関で靴を脱ぎ、廊下を通りリビングへと案内される。「どうぞ、汚い部屋ですが」
中はそれなりには綺麗になっていた。きっと沢中が今、片付けたのだろう。彼の努力が垣間見れる。
「意外と、綺麗なんですねえ」皮肉をぶつけてみるが、反応はなかった。
「お茶を持ってきますんで、そこに座っていて下さい」沢中が卓袱台よりも少し大きい机を手で示す。
「ああ、いいですよ。そんなに話すこともありませんし」それに彼女さんに帰ってこられたらまずいでしょ、という言葉は付け加えないでおく。
沢中は無言で僕の向かいへと座った。怪訝な表情で僕を見てくる。とりあえず、自己紹介だけでもしておくか。
「申し遅れました。愛永感太というものです。本日は須藤真由美さんに代わって、あなたにあることを訊きに来ました」
自己紹介は終わったが、怪訝な表情はそのままだった。めんどくさい、本題に入るか。
「僕が今日あなたに訊きに来たことは一つです」僕は人差し指を伸ばして『一つ』ということを強調する。「何故、須藤さんにあんなに大きいガラスの靴を渡したか、ということです」
さっき、彼女に言いつけると脅しておいたのですぐに話してくれるだろう。これで話さなかったら、呆れを通り越して尊敬する。
「……あなたもわかっている通り、俺は浮気をしていました。あいつと、真由美と。でも正直、俺は真由美と結婚しようとは思っていなかった」
「真由美さん、綺麗じゃないですか。何か性格的な面で問題があったんですか?」今の彼女より、という言葉は控えておく。
「俺は、あいつとは釣合いませんよ。真由美は可愛いし、性格もいい。実を言うと、俺は彼女が何で俺と付き合っているかわからなかった。俺より他の、もっと格好良くて性格のいいやつの方が相応しい。そう思ったんです」確かに、沢中はあまり格好良くはない。真由美さんに写真を見せられた時、僕は外見より中身なのかと実感した。「だから、結婚するつもりもありませんでした」
「ほうほう」相槌をうつ。一つ、ここで疑問が残る。確か真由美さんは『結婚する約束をした』と言っていた。なのに沢中は結婚するつもりは無かった。矛盾がある。「でも、真由美さんは結婚する約束をしていたと言っていましたけど」
すると、沢中の目が点になった。「え、そんな話した覚えはないんですけど」
初めて聞いた、という顔だ。まあ、これは彼女の思い込みだろう。
「で、それでガラスの靴は何故」僕としては一番重要なところだ。正直、別れた理由なんてどうでもいい。
「真由美から、話は聞きましたか?」話というのは、沢中が真由美さんに靴を持っていった話だろう。僕は頷く。
「俺としては、これは最初で最後の彼女を振るチャンスだと思ったんです。言い訳になるかもしれませんが、真由美は少し頑固な所がありますし」確かにそれは少しわかる。彼女は多少頑固なところがある。「それで、絶対に履けないガラスの靴を作ったんです。これなら真由美は履けないし、きっと諦めてくれるだろうって」
苛立ちが膨れ上がった。溢れ出そうになる苛立ちは右腕に宿り、机を叩いた。僕は、怒っていた。
「お前さあ、物の気持ちになってみたことあんのかよ!」
「は?」何で怒られているのかわからない顔をしている。馬鹿かこいつは。
「ガラスの靴は、幸せの象徴だろうが。それを何でお前は相手を振る道具として使ってるんだよ!」
「別に、俺がオーダーメイドで頼んだものだし俺の勝手だろうが」俺の勝手? その言葉が僕を苛立たせる。
「てめえなに神様気取ってんだよ! じゃあお前は会社の上司にクビにされた時に、うちが雇ったんだからうちの勝手でしょって言われて納得できんのかよ!」沢中が下を向く。何も言い返せないのか。
「納得できねえだろ? 物だって納得できてねえんだよ! 本当は喜んでもらうはずなのに、使う側が勝手に使って相手に嫌な思いさせて。挙句の果てに物が悪いと言い出す。どこが悪いんだよ、使う側が悪いに決まってんだろうが!」
叱られた時のガキのように黙っている。静かにしていたからって、僕が許すと思うか。
「作っている人間も驚いているだろうよ! せっかく心込めて綺麗に作ったガラスの靴が、別れるための道具に使われてたってな!」
「……いや、だってそれしか方法が」ぼそっと、沢中が言った。ガキの言い訳かよ。
「そんなの自分で言えばいいじゃねえかよ! お前が本当に今の彼女を愛しているんなら、ちゃんとしっかりとけじめつけろよ!」机をもう一度叩く。驚いた沢中が僕と視線を合わせる。「今日中だ。今日中に、真由美さんに話つけてこい。つけられなかったら、今の彼女に話すからな」
僕は立ち上がり、家を出ていく。携帯を見ると、着信が一件着ていた。マスターからだった。気分を落ち着かせるため、息を吸い込む。苛立ちが、空気と触れ合って中和されていく。そして、それを吐く。赤みが混じった黒が、口から出ているような気がした。
それを三回ほど繰り返して、電話をかける。三回ほどコール音が鳴り、受話器が取られる。
「あ、もしもし」少し声が低い。寝起きだろうか。
「もしもし、愛永です」
「ああ、感太くんかあ。どうしたの?」
「ガラスの靴の件が終わったんで、報告しに行こうかと」そう言って時計を確認する。二時。まだ少し早いか。
「ああ、丁度良かったよお。こっちも話があったんだよお」嫌な予感がした。思わず顔がひきつる。
「なんですか?」
「また昨日拾ってきちゃってさあ」残念ながら、嫌な予感は的中したようだ。
「またですか」
「まただよお」
今度の報酬はどれくらいにしようか、とふと考えてしまう。なんだかこれが日常になっているなあと苦笑してしまう。
「わかりました、気が向いたら行きます」とりあえず、帰って卒論を書いて少しゆっくりしよう。マスターの言っていた『フレンチトーストによく合う唄』を探すのもいいかもしれない。
「はいー」とマスターは電話を切った。
それにしても、フレンチトーストによく合う唄というのは響きがいい。何にでも合うんじゃないか、と思い頭の中で色々と単語を組み合わせていく。
帰り道が、少し楽しくなりそうだった。
幼い頃に父に買ってもらったテディベアがあるんですが、それがすごく好きで毎晩抱いて寝ていたんですね。
でも、歳を取るにつれ抱いて寝ることは無くなり、気づけば飾っているだけになっていました。
きっと埃をかぶっていると思うんで、今日は「ごめんね」と声をかけながら手入れをしようと思います。