初恋以上
泣き疲れて眠った幼なじみに気づかれないよう、俺はそっとため息ついた。
「二股かけられてたぁ! 何なのよ、もおおお……何で、私って男運ないのかなあ……」
酔っ払って、俺に散々絡んで潰れたコレは、志乃。
二つ年上で、三件隣に住む『ご近所のおねーさん』という奴で、先月二十歳になったばかり。三件隣といっても、相手はそこそこ大きな一戸建てに住む中流家庭のお嬢さんだ。なんにも躓くことなく、絵に描いたような真っ当な人生を謳歌中。
……どうしようもない男運を除いては。
バイト帰りの俺を玄関先で待ち受けた彼女は、「遅かったじゃないの」と恨み言を口にし、その直後、ボタボタと盛大に涙をこぼした。
げ、と回れ右しかけた背中で「千晴ぅ……」と子どもみたいに泣きつかれては、放り出すこともできない。関わったってろくなことにならないと知っていたのに。
「別にね、二股かけられてたのは、いいんだよ。いや、良くないけど、悲しいけど、傷つくけど! いいの。許せるの」
家にあげると、持ってきた酒を飲んでぐずぐずと洟をすすっていた。自慢の長い髪もぐちゃぐちゃで、アイメイクも涙とこすった指で滲んでいた。
「じゃ、問題ないんだろ?」
「問題大ありでしょ! だって振られたんだよ? あいつは私のところに帰ってきてくれなかった。そんなの、悲しいに決まってるじゃない」
私のどこがダメなのよー! と喚きながら志乃は焼酎をぱかぱか呷る。つまみも何もない状態で酒を入れていく。携帯が何度志乃を呼んでも、「知らないよ!」と無視を決め込んだ。そして俺にも飲めと強要する。それを宥めすかして、話を聞いて、酔いつぶれるまで一時間とかかった。
困ったことがあると、いつもすっ飛んでくる志乃。
二つ年下の俺は彼女にとって安全圏の弟でしかない。従順で愚痴を聞いて甘やかしてくれる弟。
(それで良かったんだけどさ)
茶色に染めた髪をかき上げ買ってきた酒を飲み、その苦さに辟易とした。窓から入ってくる冷たい風が、梅雨のまどろんだ空気を押し流す。
俺の携帯が着信を告げた。メールだ。
駅前の●●で二十時に暇な奴集合!
女友達からだった。じっとそれを見つめた後、適当な返信を打つ。
安アパートに母親と二人暮らしの俺は塾へ行く金もなくて、高校も公立の単願で受かった。大学へ行くべきだと勧める教師に、就職しますんで、と言うしかできない生活レベルだ。
小学生の頃、父を亡くしてやむなく引っ越した。それまでの生活全部手放さなきゃやっていけないと、母は謝った。以後寝る間を惜しんで働いても、金食い虫の俺を養うので精一杯。我が家に余裕なんてまったくない。
そんな事情を抱えたガキに、手を差し伸べてくれたのは。
「ね、よかったらうちへ夕飯食べにおいでよ。お母さん作り過ぎちゃって」
道ばたに捨てられた犬かネコのように、俺は志乃に拾われたんだと思う。
それ以来、仕事漬けの母に代わって何かと世話を焼いてくれた。作ったお菓子を持ち込んで勉強を教えてくれたり、一緒に遊んでくれたり、家へ上がらせてくれたり。うちの部屋を掃除したり、洗濯物を取り込んだり、簡単な家事までしてくれた。
(ほんと、ねーちゃんって感じで)
意味もなく頭に触ってきたり、抱きついてきたり、見つけたら必ず声をかけてきた。いつも傍にいてくれた。
しかし成長するにつれ暴かれていく、志乃と俺の差。中学にあがるとそれは顕著に表れた。
別に、うちに後ろめたい何かがある訳じゃない。母さんは水商売じゃないし、離婚したのでもない。でも、俺の中には埋められない空白があった。両親がいて安定して暮らせる人間とは決定的に異なる何かが、胸の内を巣くっていた。片親だから愛情に飢えていたのかもしれない。
――姉貴面すんなよな。本当の姉でもないくせに。
親切を素直に受け取れないほど、俺は捻くれるばかりだった。向けられたやさしさなんてシロモノは、突き刺さるナイフのように俺を深くえぐった。声をかけられるたび怒鳴りたくなる衝動が暴れたりして、どうしようもない。苛立ちがいつ爆発してもおかしくなかった。
あげく志乃の母親から、近づいてくれるなと頼まれたら、終わりだなって思うだろ普通。幕を引かざるを得なかった。噂されていたのだ俺たちの関係が。笑えたことに志乃が俺に入れ込んでるという話だった。志乃の善意が歪められていた。
俺たちのか細い絆は汚点でしかなかったのだ。
『うるせえ! 世話焼いて欲しいなんて頼んでねーよ。うちにだって勝手にくんなよ。迷惑なんだって。色々言われてんの、気づいてねーの? 姉貴面すんなよ、本当の姉ちゃんでもない癖に!』
いつものように家へ上がり込んだ志乃が、きょとんとしていた。何を言われたか理解していない顔だった。当然だ。志乃は私学へ通っている。近所の噂なんて無縁なのだ。それが徐々に、寂しそうな笑みへと変化して――
『……む、無神経だったかな。ゴメンね、千晴』
そこからだ。
志乃が壊れたのは。
それまで全くなかった男の匂いを、纏うようになったのは。
表向きは『お嬢さん』の枠組みにいながらも、志乃の周辺に男の影がちらついた。近所では噂が立たないようあいつは注意をしてたけど、そこから出ると耳に入る。志乃の噂が、嫌でも。
あいつはどんどん綺麗になりながら男たちに埋もれていった。短い期間で男を乗り換えていく女。そんな似合わないレッテルがべったりと彼女にこびりつく。
――俺には関係ない。
そう無視しても、三件隣という微妙な位置が嫌でもあいつを意識させる。
見るたび違う男と一緒にいた。志乃も相手の男の顔も直視する勇気なんかなかったけど。声や、雰囲気や、格好で、それは察せられた。
そのたび苛立ちが募った。
志乃を頭から追い出そうと部活に打ち込んだり、バイトやったり、遊んだり、ゲームしたり……。でも、ふとした拍子に現れる。志乃の声、志乃の噂、志乃の姿。
俺たちの微妙な距離が縮まったのは、志乃が泣きながら歩いていたのを見かけたせいだった。あの日のバイト帰り、見覚えのある後ろ姿に戸惑った。街灯がぽつぽつ照らす暗い路地を歩く姿は、ひどく孤独に見えた。
『何かあったの、志乃ねぇ』
数年ぶりに話しかけたのだった。志乃はくしゃりと顔を歪ませ、泣きついてきた。
――それ以来、この関係はずるずると続いている。
俺は、志乃が惚れっぽいことも、どうしようもないバカだとも知らなかった。
性懲りもなく男と付き合ってはそのたび泣いていた。
(今回の相手は四ヶ月か。もっと長く持つと思ったのに)
無防備に眠る志乃の髪に、触れた。長い髪はさらさらと冷たかった。志乃はずっと髪が長い。背中ほどある長くて黒のストレートは、針金のように真っ直ぐだ。
「見る目ねーよな……志乃を振るなんて」
料理だってうまいし、片付けや掃除もうまいし、面倒見もいいし、よく笑うし、見た目だって全然悪くないし、勉強だってできる。音痴で、運動神経はいまいちで、変なセンスしてても、それだって可愛い。
志乃は十分魅力ある。あの噂分を差し引いたとしても、だ。
(自棄になってる気がすんだよな。自分で自分を追い詰めてるっつーか)
泣いてるのに自嘲しているような、好きだと言いながら投げやりのような。
自分から望んで暗い沼に身を落としているような。
(わけわかんねーよ)
眠る志乃がごろんと仰向けになった。顔にかかった髪を払ってやると、つややかな唇に目が奪われる。酔っ払った分だけ赤い頬は素の彼女より色気があった。白い首筋と鎖骨を視線がなぞる。夏服の大きく開いた襟元にキャミソールのレースが見えた。
――千晴くん。あなたと噂になってるの。申し訳ないけど、もう志乃に構わないでやってくれる?
志乃の母親の声が、俺を縛る。
わかってるよ、おばさん。志乃は俺なんかよりもっといい男と結ばれるべきだ。邪魔しちゃいけない。住むべき世界が違うんだから。
あの日、声をかけるべきじゃなかった。いつもみたいに顔を背けて無視するか、露骨に道を変えれば良かった。そうしたら志乃はこんな風にやってこなかった。
――千晴、私のこと嫌いになったんじゃなかったの?
「……くそ」
――どうして私、男運ないんだろ。ねぇ、千晴?
「知るかよ」
子どもの頃から志乃は俺を振り回す。あいつのこと考えないようにしても、頭の中が志乃で埋め尽くされてしまう。
頬に触れた。酒で赤く染まっているのに、思いの外ひんやりしていた。志乃は目を覚まさない。
(母さんは、今日遅いって連絡あった)
時間は、まだ九時を過ぎた程度だ。狭い六畳間に志乃と二人きり。
心臓がうるさかった。顔が近づく。志乃の、唇が――
志乃の携帯が騒ぎ声を上げた。タイミングを見計らったようなそれに、仰天して身を離す。そういえば、志乃が部屋にきてからも数回鳴っていたか。
相手はだれだ?
そんな疑問が浮上する。大学の誰か? サークル仲間とか? 遊び相手? 友だち? 女? ……男?
拳が苛立ち紛れに卓を叩いた。想像以上にデカイ音がした。
「……起きろ、志乃。起きろよ、携帯鳴ってる! うちで寝こけんな」
志乃は眠気をふんだんに残しながら、身を起こした。不機嫌そうに眉根を寄せたのは眠りを妨げたせいか。ぺたんと座ったまま指先で自分の唇をなぞり、
「もうちょっとでキス、できそうだったのにな」
はあ? と耳を疑った直後だ。両手で頭を引き寄せられた。唇が一瞬だけ重なる。
呆然と固まるしかできなかった。ぽかんとしたまま、
「……志乃?」
彼女は僅かに目を伏せた。乱れた髪に手を通し、
「ねぇ、ずっと好きだったって言ったら……困る? ずっと千晴だけ好きだったって言ったら――」
何故か手が、志乃の頭を叩いていた。
早鐘のような心臓を無視して、平静を装い、
「起きろ、この酔っ払い。まだ寝てんのか。目ぇ覚めましたかあ?」
「い……ったぁい」
「そっちがバカみたいなこと言ってるからだろ。振られたから今度は俺って、何ソレ。そんな男に飢えてんの。誰でもいいって? っは、ジョーダンじゃねーっつの。ほら、帰るんだ、ろ……」
台詞は尻すぼみに消えた。ガシガシと頭をかいた。
だから、冗談だって、言えよ。
そんな傷ついた顔しないで、泣きそうになってないで、冗談だよって笑えよ。
お前にとって俺は弟でしかなかったろ。これ以上距離詰めたら、その関係だってぶち壊すしかなくなるってのに。
「……そうだよ、飢えてるよ、千晴に」
「はあ? 何言って」
「だって、好きなんだから仕方ないでしょ? ずっと好きだったんだから!」
俺を睨みつけ、唇を結んだ志乃は顔を背けた。
「他の人と付き合ったって、千晴と比べてばかりだった。千晴ならどうしてた? 千晴ならどう言った? って私、千晴のことばっかり考えてるんだよ」
だからいつも振られるんだ、と志乃はこぼした。
「忘れようとしてたの。迷惑だって言われたんだからさ、いつまでも未練たらしくしちゃいけないって。……でも、他の人といたってダメだったんだよ!」
「志乃」
「この人を好きになろうってがんばっても、千晴を思い出してばかりで」
「志乃ねえ!」
ようやっと志乃が俺を仰ぐ。笑った顔が歪んでいた。
「今だって触れたくてたまらないの。押し倒しちゃいそうだよ、千晴」
助けを求めるような熱っぽい視線とぶつかる。志乃の手がそっと腕に触れた。そこから志乃の熱が伝ってくる。逃げるように後ずさると、いつしか壁際に追い詰められていた。
「……本気で言ってんの? からかってるとかそんなんだったら」
身を乗り出した志乃の顔が近づく。
「本気じゃなきゃ、自分からキスなんて、しない」
二度目のキスは啄むようなものだった。誘うように何度も唇を重ね、志乃は俺の頬に、耳に、首筋にキスを落とした。耳元に甘い息がかかる。酒の匂いがのし掛かってくる。
「志、……ん」
キスで口を塞がれる。名前を呼ぶことさえ許さなかったのは、拒絶の言葉を恐れたせいか。実際迷っていた。このままじゃ厄介ごとにしかならないと、わかっていたから。
どうすれば志乃を傷つけずに済むか、そればかりが頭を占める。どうすればこの状況から逃げ出せるか。力ずくで引きはがすのが正解なのか。
志乃の手が、迷う俺のTシャツをまくり上げた。腹の辺りを指先がなぞり――躊躇うように止まる。
「好きなの……。好き。千晴がずっと……好き。他の人となんて比べられないぐらい」
すがるような、かすかな囁きが耳元で発せられた。同時に生温かな何かが、ぽた、ぽた、と俺の首筋に落ちてくる。肩口に顔を埋める志乃は震えていた。
「……志乃?」
「ふ……ふふふっ、私、最低だ。千晴のやさしさに付け込んで、甘えて、酔いに任せて」
パッと身を離した彼女の顔は、前髪に隠れてわからない。その頬が濡れているのは明らかなのに。
「ごめん……。嫌いにならないで」
逃げようとする手を咄嗟に掴んでいた。腕の中に引き寄せて抱きしめる。
子どもの頃に触れたのとは違う柔らかな身体だった。どこか怯える目を捕らえ、俺のほうから今度はキスをした。志乃がしたそれとはちがう、いっそ暴力的で、貪るような深い口づけだった。
そのまま体重をかけて押し倒すと、畳の上に長い髪が広がる。涙を拭う志乃の胸が、呼吸するたび大きく上下していた。もう一度キスしながら、そこに触れたときだ。
携帯が再び着信を告げた。今度はメールじゃない。電話だ。何度も俺を呼ぶ。
相手はさっきメールをくれた女友達だった。内容が想像できた。バイト終わって暇でしょ? 今何してるの。こっち盛り上がってるよ? ふっと苦笑を落として電源をオフにした。転がった携帯は短い明滅を繰り返して静かになる。
「……千晴……?」
いいの、と問いかけてくる志乃の大きな目は不安混じりのものだった。白い手が伸びて俺の髪と頬に触れる。
そういえば、ずっと前から志乃は人の髪に触れるのが好きだった。
事あるごとに、飛びついたり頭をなでたり腕を組んだりする。それは無邪気な志乃の癖なんだと思っていた。誰にでもするたわいないスキンシップだと。
――ずっと好きだったんだから。
あの言葉が本当ならその意味だって変わってくる。
ああ、そうだ。もうずっと俺にとっても志乃は特別だった。何かで気を散らして荒れても、忘れられないほど特別な人。姉だ無関係だと言い訳して、距離を取るのがお互いのためだと思い込んでいた。俺たちは、互いに互いを傷つけて、思い合っていたのか。
志乃の細い指を掴んで、唇を押しつけた。悪戯半分になめると志乃の顔が耳まで真っ赤になる。その目が泳ぎ、やがて視線がかち合った。躊躇うような志乃を真っ直ぐ覗き込む。全身が熱く疼く。
「馬鹿な志乃。こっちの気も知らねぇで押し倒すとか」
せっかく気安い弟でいたのに、自分から逃げ道を塞いで。
息を呑んだ志乃へ、笑いかけた。もしかしたら、泣きそうに歪んでいたかもしれない。
「これでもう逃れらんないから」
いや、今までだって鎖に繋がれていたのは俺のほうか。
「ちーはーるー! 寝てたでしょ。さっきまで寝てたでしょ」
志乃がひょっこりアパートの窓から顔を覗かせた。手土産にレジ袋をぶら下げている。
「ちゃんと勉強してたって。ほら、志乃に言われたとこちゃんとやってるし」
「じゃあそのおでこに付いた、変な跡はなんでしょーねー」
思わず額を押さえてしまい、志乃がにやりと笑う。寝てたんでしょ、という確信を得た笑みだった。慌てて洗面所の鏡を覗くと、確かに赤い跡が出来ていた。うわ、なんだコレ、と驚くと「罰ゲーム用意しなきゃねー」とケラケラ笑う志乃の声が飛んできた。
遅まきながら大学への進学を決めた俺は、勉強漬けの日々を送っている。志乃と付き合うって決めた日、母さんに相談したことで一気に進路は開けた。
ごめん、また負担かけてしまうけど。
頼み込むと、母さんは嬉しそうに言った。
『何か目標でもできたの? 目が生き生きしてる』
目標とは言わないのかもしれない。ただ、母さんと同じように真っ当であろうと決めた。そのために、卑屈な自分を取り除く。志乃と一緒にいて負い目を感じる関係でいたくない。卑下しない為に自信を持つ必要もある。
この絆が恥だと捉えられないために。
「ケータイ、鳴ってるよ」
「遊びなんか行かねーよ。んな余裕ねーし……志乃といるんだし」
交際を許して欲しいと、先日志乃のおばさんに頭を下げた。そのために掲げた目標は怯むほどに高い。眉を潜めたおばさんからは何の返答もなく、今も志乃は親の目を盗んでこっそり会いに来る。
俺たちは、まだ親公認にはなれていない。でも、自分で決めたことだ。
「うん。がんばろ? ……待ってる」
志乃が嬉しそうに笑い、ごそごそと荷物を取り出した。参考書や過去問をチョイスしては持ってくるのだ。やっと一冊片付きそうなのに、また新しいのが届いた。うんざりする俺を尻目に、志乃がアイスの袋を破く。
「俺のは?」
「この過去問のここからここまで終わったらね」
志乃が挑発的に笑って、ポリ袋を冷凍庫に押し込んだ。そういう顔も近頃はよく見せる。男を作って荒みまくってたころには失われていたものが、戻っていた。小学生のころにあった親密さとはまた違った距離感が心地良い。
ずっと俺は志乃が欲しかった。欠けて飢えている俺が何かを与えるなんてできないと思っていた。
「しのねえ」
「志、乃。ねえちゃんだなんて、呼ばないでよ」
「志乃」と繰り返しながら、ずっと遠くにあった存在を腕の中に引き寄せた。
当然のように唇は重なった。
ご意見やご感想などお待ちしています。
最後まで読んで下さって、ありがとうございました。