0-1 初めての電車通勤に少し戸惑う
古びた車内。
窓の向こうに映る景色にも見飽き、携帯電話を使って暇を潰すのにも飽き、ただ虚ろな意識のまま電車に揺られ続けて数時間。
ようやく目的地の名前を伝える車掌の声が響き渡った。
何度も閉じそうになった瞼を何とか見開いて、座席から立ち上がる。
携帯で時間を確認すると午前7時50分。今までの学生生活と比べるとかなりの早起きだろう。
ずっと同じ体勢でいた体をほぐすため軽く上半身を捻っていると、つい欠伸がもれてしまった。
やはり慣れない長時間の電車通勤に体はまだ対応しきれていないようだった。
通勤。
そう、これはもう通勤なのかもしれない。決して登校ではない。
例えまだ16歳なのだとしても、自分はもう立派な社会人なのだ。
そう自分に言い聞かせながら囲麻実来は重い鞄を背負いなおし、人という人でごった返した電車から降りた。
しかしそれは降りたというより、周りの人に流されていたら知らぬ間に駅のホームに出ていたという感じである。
(えっと。ここから真っ直ぐ進んだ最初の階段を上って、と)
携帯で確認した地図を頼りに、今まで一度も訪れた事ない場所を探す。
それもたった一人で。
とても心細く、次から次へと生まれる不安は止まるところを知らない。
しかしそれ以上に、自分がしなければならないという責任感や使命感に似たようなものを囲麻は感じていた。
囲麻には母親と2つ年下の妹がいる。
父親は幼い頃にどこかに行ってしまった。
母親の話によれば、どこかで新しい家庭を築いているらしいが、真偽のほどは分からない。
突然の夫がいなくなった不安定な精神状態で、母は不慣れなアルバイトをしながら必死に2人の子供を養ってくれたのだ。
そんな母親の負担を少しでも軽くし、出来ることなら妹には好きなことをさせてあげたい。
そんな気持ちから囲麻実来は高校生になることを諦め、社会人になることを選んだ。
例えそれが「異力」という偶然の賜物だとしても、だ。
自分では当然の選択、最善の選択だと思っていても、学生服を着た同い年ぐらいの子供を見るたびに、少し寂しい気持ちになるのも確かだった。
「それにしてもすごい人の数だなぁ……」
こんな狭い空間に、一体どうしてこれほどの人が集まっているのだろうと疑問に思ってしまった。
ふとプラットホームの端を窺うと、現在ではほとんど見られない電話ボックスのようなものが置かれていた。
しかし通常のそれよりは若干大きく、丁度人が2,3人入るのに適したサイズのように見える。
そして次の瞬間、驚いたことにその電話ボックスのような空間から突如2人の人間が現れた。
1人は黒いスーツで細身の体を包み、縁のない眼鏡をしている。
もう1人は灰色のスーツを着た、白髪混じりの彫りの深い顔をした初老の男性だった。
2人とも最初は半透明できっちりと目視できながったが、やがて完全に実体化した。
眼鏡の男性が軽く会釈をすると、老人は片手でそれに応じそこから出て行った。
そして中に残っていた男性は、現れた時の映像を巻き戻しているかのように徐々に透明になってゆき、やがて完全に消えてしまった。
(あんなのも、一昔前じゃあり得ないことだったんだろうな)
それは転送装置と呼ばれる装置だった。
駅などの多くの人が出入りする場所に設置されているそれは、人間や物ををある場所から別のある場所へ一瞬にして移動させてしまう装置なのである。
しかし正確に言えば、それは装置ではない。
それには、空間飛躍者と呼ばれる異力者が深く関わっている。
空間飛躍者とは、文字通り空間から空間へと直接移動したり、させたりすることが出来る人間の事であり、その移動距離と時間は比例しない。
つまり日本から中国に行こうが、ブラジルに行こうが、北極に行こうが、かかる時間は全て同じなのだ。
当然、それほどの距離を一度に移動することは不可能だろうが 、分割すれば理論上それも可能だろう。
つまり転送装置とは、そういった空間飛躍者の力によって成立する代物なのである。
天候や季節に影響を受けず、短時間で確実に移動できるという事もあって、この転送装置を利用している客は少なくない。
しかし、肝心の空間飛躍者の人数自体は少なく一度に運べる人数は非常に少ないため、この装置の利用には非常に高い金額がついている。
一部の特権階級のみが使える、いわばリムジンのようなものである。
(話には聞いたことがあるけど、実際に見るとやっぱり変な感じがするような)
昔と変わらない電車を使って移動する者もいれば、奇跡としか言いようのない現象を用いて移動する者もいる。
今は、そんな時代と時代が入り混じったような不思議な社会なのだ。
また新たに1人の女子高生と先ほどのスーツの男がそこから現れたが、その奇跡を尻目に囲麻は階段に向かって歩き始めた。
どうせこちらに住み始めれば嫌でも毎日見ることになる。
じろじろ見ていたら失礼だし、何より田舎者だと馬鹿にされそうだと思ったのだ。
改札口から外へ向かい、そのまま目的地である「株式会社八百万屋」へと足を運ぶ。
何はともあれ、まずはそこに行かなければ話は始まらない。
「……っとー。ちょっとー! ねえそこの君ー!!」
後ろの方から若い女性の声がした。
誰かを探しているのだろうが、自分には関係がないだろう。
囲麻は気にせず階段を上っていった。
「ねぇって。そこの……。囲麻君!?」
後ろの方から若い女性の声がした。
誰かを探しているのだろうが、自分には関係がないだろう。
囲麻は気にせず階……。え?
女性が自分の名前を呼んだ事に素直に驚きながら、囲麻は首を後ろに向け、そのまま階段の下の方を眺めた。
そこには息を切らしながらこちらに向かってくる女性がいた。
よく見るとそれは、ついさっき転送装置から出てきたあの女子高生だった。
「全く、さっきからあんなに呼んでも気づかないから別人かと思っちゃったじゃないの」
「え、あの。す、すみません」
「ホントに、一瞬自分の異力を疑っちゃったわよ」
「“異力”って……。じゃああなたも異力を使える方なんですか?」
園村は、たった今自分の名前が呼ばれた以上に驚いてしまった。
いくら異力というものが世界中に浸透しているとは言え、それは珍しい存在である事に変わりは無いのだ。
その異力を扱える人間にこんなすぐに出会うというのは、どう考えても偶然ではないだろう。
ということは……。
「もしかして、あなたは八百万屋の社員の方か何かでしょうか?」
「そゆこと。私は八百万屋新人育成院長の人野澄音。まあ、先生みたいなもんだと思ってちょうだい」
「せ、先生ですか? それにしては……」
「それにしては、何かしら?」
それにしてはあまりにも若い。
おそらく18歳前後。少なくともまだ未成年だろう。
身長は囲麻より若干低い170センチメートル弱といったところか。
黒いショートヘアーに大きな瞳、すらりとした体のラインは見惚れてしまいそうになるほどだ。
しかしその姿は黒い冬用のセーラー服。丸っきり学生の身なりであった。
ボタンは全て外されていて中からブラウンのカーディガンが見える。
防寒はばっちりというわけである。
「それに……。セーラー服を着てるのに先生って言うのは、少し違和感が」
「言われてみればそうねぇ。じゃあ先輩って言う事で」
「先輩」
「そ、先輩。上下関係ありまくり。こき使いまくりの先輩よ」
「何で会って早々自分の先輩としての評価を下げてるんですか」
「その上可愛い男の子なら、2秒で襲っちゃうくらいに欲求不満よ」
「もう少し自制心を鍛えてから先輩を名乗ってください。ていうかそれって遠回しに僕が可愛くないってことですよね!?」
しまった。思わず突っ込んでしまった。
いくら相手のがフレンドリーだからといって、自分は年下として、新入社員として丁寧に受け答えしなければいけないのに……。
「あら。思ってたより元気そうじゃない」
そんな囲麻の心遣いとは裏腹に、人野と名乗った謎の先輩は笑顔を向けた。
どうやら言うほどに上下関係ありまくりでは無さそうである。
ということは2秒で襲っちゃうほど、欲求不満でもないのかもしれない。これほどの美人なら恋人の1人や2人いてもおかしくないだろうし。
「残念ながらそっちは本当よ。現に先日来た子は私が頂いちゃったから」
「何で人が思ってる事に勝手にコメントするんですか!」
「だってそーゆー異力だもん」
「え……。な、なるほど。精神読解ということですか」
精神読解とは文字通り、相手の心を読み取る異力である。
この能力は警察で嘘発見器のようなものとして活用されたり、タイプによってはカウンセラーのような精神科の病院で活躍する事もある。だが、目の前の人野先輩はどうやら前者のようだ。
「その通りー。私の前じゃ誰も嘘をつけないってわけ。それじゃ、立ち話はこれくらいにしてさっさと出勤しましょっか」
「あっ、はい。分かりました」
もう少し詳しく話を聞きたかったが、そういうわけにもいかない。今は自分の好奇心よりも優先すべきことが山ほどあるのだから。
人野は早足で階段を駆け上がり、囲麻を追い越して、そのままのペースでさっさと八百万屋に向かっていってしまった。
「ちょっと、待ってくださいよ! 人野先輩!」
「早く早く。初日から遅刻なんてイヤでしょ?」
かついだ鞄の位置を直して囲麻は階段を駆け上がった。
背中の鞄は、さっきよりも少し軽くなったように感じた。
電車から降りたときに感じていた不安は、少しではあるがほぐれていた。
これも精神読解の効果なのかな? などと考えながら、囲麻は人野の後を追いかけていった。