無条件に努力を肯定する文化が僕は嫌いだ
「努力しなさい!」
この社会は努力を無条件に推奨しているように僕は感じている。
みんなはどうだろうか?
確かに、努力をしなければ高校に合格することもできないし、大学に進学することもできない。それに安定した収入を得ることもできないし、相手に好かれて結婚することもできないだろう。
全く努力をしないというのは確かに問題なのではあるが、だからと言って努力を無条件に肯定するのも問題であると思う。
というのも今先ほどの例から、「努力をすること自体に一定の価値はある」とは言えるが、「どんな時にも努力は大事である」というのは説明できていない。
【①】「どんな時にも努力は大事なのか。」
例えば、あなたの母がとある宗教に入っていたとする。その宗教の教えとして「献金を教団にすることが救いとなる」というのがあったとする。あなたの母親は仕事をたくさんしてその教団に献金し始めたとする。
母親は間違いなく努力をしている。
その努力をあなたは肯定するだろうか?
本当に母親のことを考えているのであれば、止めると思う。
これからわかるのは、「方向性を間違えた努力は否定される」ということだ。
ここですでに無条件に努力は肯定されるということへの反例が見つかった。もっと見つけてみようか。
次に考えてほしいのはより大勢の人に関係のある事柄だ。
大学受験である。
あなたはオタクで、受験生だとする。
さらにあなたはかなり頭の良い高校に通っていて、そのクラスの多くが難関大学に受験するとする。
そうすると、そのクラスの中では「勉強をサボることは良くないことである」という前提があると思う。
そして、「努力をして難関大学に入ることが良いことである」という前提もあると思う。
いわゆる学歴厨である。
ではオタクのあなたも難関大学を目指すために努力をするべきだろうか?
ここで考えるべきことはあなたは好きなことがあるということだ。
オタクなのだから、勉強をしている時よりもずっとアニメや漫画を読んでいる時の方が楽しいだろう。
では、大好きなことを置いておいて、目の前の問題集に無条件に青春を溶かしたいと思うだろうか?
いや、アニメ観たいだろう。
つまり、難関大学に行くことが大いに価値のあることでなければ、努力して難関大学に行こうとは思わないというところである。
では、難関大学に行くことにはどんな価値があるだろうか。
まず学歴を考えてみる。
大学卒業後、学歴というのがまず効果を持つのは就職の時だと思う。しかし、その後転職する際は、学歴よりも一個前の会社での実績が見られる。
また、個人的な話として20代の時は大学受験は鮮明に思い出せる過去だが、30代、40代となっていくと過去の話でしかない。
学歴であったり、難関大学に合格したということを表面的に観た場合、最初の就職で少し有利になるくらいしかないと言えるのかもしれない。
またよく聞くメリットとしては、「難関大学では質の高いことを学べる」、「質の高い学生がいる」などがあると思う。
しかしあなたはオタクである。そこまで研究や学問に興味がないのであれば、それは逆に邪魔にならないだろうか。
私は実際に高校生の時にかなり頭の良い理系のコースに通っていたが、
私も同じように研究や学問よりも圧倒的に創作やアニメが好きだった。
土日にアニメを観たいのに、なぜか英語発表の練習しないといけない。特定のテーマを決めて休日も研究しないといけない。(私は数学だった)
最終的には論文を書かないといけなかった。(高校生なのに)
それらは、質の高い学びを求めている人なら良いことなのかもしれないが、
学び自体をそこまで大事だと思わない私からすると逆にノイズであった。
同じように難関大学に合格した後、創作をしてコミケで頒布したり、部活をしたり、バイトをしたりなどの学び以外の部分を重視する人で、
研究者になったり、そうでなくとも専門的な学問を学びたいのでなければ
質の高い学びという観点で、
難関大学に行くことに価値はないのかもしれない。
質の高い仲間という観点から、難関大学に行けばコネをゲットできるというのもあるかもしれないが、
それは社会の上積みで生きたいという思いが前提にあるから言えることだと思う。
ただ普通に結婚して、普通の会社でなんとなく働いて、アニメや漫画を生き甲斐として生きるというような平凡な生き方を望む人からすれば、
コネを頑張ってゲットして、それを拡張してというような高カロリー高タンパク質な生き方は逆に嫌かもしれない。
つまりコネをゲットすること自体を望んでいない人もいるということだ。
そう考えた時に、難関大学に行くことが無条件にどんな人にとっても薦められるべきことではないとわかる。
一定以上、学問に興味があったり、質の高い学びをしたい人であったり、コネをゲットして社会の上積みで生きたいという人であったり、そういった目的を持つ人には難関大学は価値のあることかもしれないが、
そうでない人には価値のあまりないことだ。
そのように考えると、「難関大学を目指さない=ハイレベルな受験勉強をしない」ことを無条件に批判することはできないと言える。
別に、難関大学でなくても国公立大学に進学できるくらいの努力はして、そこそこの生活をするというのが目標にあって、
そのために受験勉強は一心不乱に勉強するのではなく、アニメを楽しみながら勉強すると行ったものでも良いとわかる。
その物事に普遍的な価値ない場合、同時にそのための努力も無条件に肯定されるのは間違っているというのが言えたと思う。
このように「努力を無条件に肯定する」というのには色々と問題があることがわかった。
そのため、何かのために努力をするときは、そもそもそれが本当に努力するべきことなのか、その努力にどこまで意味のあることなのか、というところまで考えるべきだと思う。
受験などのかなりの時間を要するものなどは特にである。




