Ext.30 さよなら、
年をまたぎ、夏怜は高校卒業を控え、璃杏と強乃は受験を控える高校三年、知子は中学一年となった。
だが時は変われど状況は変わらず。
祈世樹の身体は日に日に蝕まれ、いつ逝ってもおかしくない所まで来ていた。
『分かってる。
祈世樹はもう助からない。
それでも……彼女が生きようとしているなら、俺たちはそれに答えなくちゃならない』
たかが病気ごときに打ちのめされて死んでいくなんてそれはバカバカしい。
そんなのは俺も嫌だ。
それに治らないと決まったわけじゃない。
運任せや神頼みに頼るのは気に入らないが、理論上はそう言える。
だからこそ、俺たちは家族全員で祈世樹に手を尽くしてきた。
……三月、雪も徐々に溶け始め、暖かみのある晴れ間が目立ち始めていた。
「おはよう祈世樹。
ぐっすり眠れたか?」
現在、朝の八時。
声をかけるも、彼女は死んでるように寝ているか、声もつまりづまりで話す事しか出来なくなっていた。
見た目ももはや極限状態までやせ細り、知る人が見れば目を伏せたくなる程だった。
「……」
そんな祈世樹を後目に俺はとにかく語りかけていた。
「なぁ聞いてくれよ。
昨日、知子が変な形の風船見つけたって持ってきたのが、まさかのコンドームでよ。
すぐ捨てて来なさいって捨てさせてきたんだけど、たまたま仕事から帰ってきた海麗にこっそり捨てさせようとしてたって勘違いされてよ。
いくら俺でも自分の娘に手ぇ出すわけねぇのに…とんでもない勘違いだよなほんと。
年頃でそういう事に敏感になるのも分かるけどよ…」
いつ頃からか、祈世樹が寝たきりの日はこうして俺からラジオばりに一方的に話しかけるようにしている。
たまに入って来た看護婦に聞かれて恥ずかしい思いをすることもあったが、それでも辞めず続けていた。
『ご家族の話されている会話というものは、患者が話せなかったり意識がなくても聞こえてるものなんです』
以前、先生がそう教えてくれたことでよりプッシュしている。
治療の効果に繋がるわけじゃないのは分かってるが、話せないからと黙って見てるだけではあまりに寂しすぎるということもあり、こうして始めたわけ。
そうしてると…。
「……ふぁ………そ…き……ね…」
ガチ寝をしていたっぽい祈世樹を起こしてしまうこともしばしば。
それでも祈世樹も頑張って返事をしてくれる。
「あっ、ごめん起こしちゃったか。
具合どう?」
「……だい………じょー………ら……ょ…」
「そか。
そんだけ喋れれば全然元気そうだもんな」
もちろん言いがかりではあるが、はっきりとした言い方は身体に毒だ。
「あ……か………。
ごめ……ね…」
「ん〜?
俺が好きでやってる事だ。
お前は何も気にすんな」
そう言ったものの、彼女は壊れたラジオのように同じ言葉を繰り返していた。
その日の晩のこと。
『ピリリリリ!』
一本の着信音が鳴り響いた。
「…もしもし、碧乃です」
『…もしもし、碧乃さんですか!?
もし来れるなら大至急、病院に来てください!
ご家族の方たちも同伴してもらって大丈夫ですので!』
「………分かりました」
俺は静かに応え、電話を切った。
「みんな……病院に行くぞ」
その場に居た夏怜たちに俺は「あくまで冷静」にそう伝えた。
『………』
誰一人として言葉をすら発さなかった。
ただ淡々と、知子ですら黙って着替えていた。
全員の支度が整って外に出ると、天気予報にはなかった大雨が降りしきっていた。
――一週間前――
俺は先生に呼び出された。
「先生。
話とは…」
「……」
先生は何も答えない。
むしろ、答えることに少し言葉を詰まらせているように見えた。
「……奥さんは………もう…………持たないかもしれません…」
「………」
分かってた。
いつかその言葉を言われるんじゃないかと。
もしかしたら、その言葉を言われる前に彼女は逝ってしまうんじゃないかと。
「……奥さんの容態が芳しくありません。
白血病細胞がリンパ管から肝臓、脾臓へ浸潤……転移しています。
もう…これ以上の施しは………」
「先生」
先生は俺の声に驚きつつも振り向いた。
「先に言わせてください。
……今まで、妻が本当に世話になりました」
立ち上がって深々と俺は頭を下げる。
先生はどんな言葉をかければいいか分からずいた。
「……私どもの方ではもう手のかけようがありません。
ですので、このまま自然に逝くのを待つか、薬で苦しまずに安楽死させるか…」
「このままでいさせてください」
俺の返事に先生は再び凝視するも、分かっていたと言わんばかりに目を逸らした。
「分かりました。
奥さんの容態は私どもの方で「最期」まで診させていただきます。
…「その時」が来たら、すぐ連絡しますので」
「分かりました」
そう言って俺は診察室から出た。
病室に入ると、先生と二人の看護婦が焦りの色を醸し出して付きっきりになっていた。
その傍らにリルドさんと西浜さんも居た。
「先生、心拍数がみるみる下がってます!」
「有馬さん、蘇生マッサージを!」
「は、はいっ!
…碧乃さん、まだ逝っちゃダメですよッ…!!」
「祈世樹くんっ、持ちこたえるんだ!
燈くんたちが来るまで何とか耐えてくれ!」
「祈世樹さんっ、あなたはまだ逝ってはいけませんっ!
燈さんたちをおいていくなんて、神が赦しても燈さんたちは赦してくれませんよ!」
その時、一人の看護婦が俺たちに気付いた。
「あぁ良かった…!
碧乃さん、旦那さんと娘さんたちが来てくれましたよ!」
看護婦が祈世樹にそう呼びかけるも、彼女は目を覚まさなかった。
「お母さんッ!!!」
ただ事ではない雰囲気を感じとった知子が駆け寄ると、それにつられて夏怜たちも駆け寄った。
「先生、母さんの状態は…!」
冷静さを欠いた夏怜が冷や汗を流しながら聞くも、先生の反応は重たいものだった。
「それが……非常に言いにくいのですが………もう今夜が「峠」かと……」
「ッ……そんな………」
意味を分かっている知子以外の全員が身体を強ばらせた。
「とーげ…?
とーげって何ッ…!?
……ねぇ知子分かんないよぉぉぉッッ!!!!」
泣きながら知子は怒鳴り散らすも、皆その言葉の意味の重さを分かってるゆえ、誰一人言い出せずにいた。
「ねぇお父さん、とーげって何!?
お父さんなら分かるんでしょ!?
知子ばかだからわかんないの…ッ!!
…ねぇ……教えてよぉぉぉぉぉ…!!!!!!」
知子が半ギレで俺に泣きすがるも、俺は黙って知子を抱きしめてやる事しか出来なかった。
「…鳴海さん、有馬さん」
看護婦二人に声をかけ先生は入口の前に下がった。
「…リルドくん……」
「ッ……」
看護婦に連なるようにリルドさんたちも引き下がると、璃杏と強乃が駆け寄った。
「お母さまッ…!!」
「母さんッ…!!」
心拍数を測る機械の音の間隔が、彼女の命の灯火の弱さを物語っていた。
現実の祈世樹もまた、酸素マスク越しに呼吸してるものの、その息遣いはかなり弱っていた。
「目を開けてくれ母さん!!
あんたは今ここで死ぬべきじゃねぇんだよ!!!!」
「起きてくださいましお母さま!
せめてお休みになるのであれば……せめて……私たちの顔を見てくださいまし…!!!!」
璃杏と強乃の声がけの甲斐あってか、ようやく祈世樹は目を覚ました。
『……すぅ…………り……あ…………し…………の……』
「母さん!?
…良かった……まだ生きてんな…」
「………良かった…」
璃杏がわずかな安堵に腰が砕けてその場に座り込むと、知子も声をかけた。
「お母さん!
知子もいるよ!
分かる!?」
『………ち………こ…』
うっすらと細目で視認した祈世樹は弱々しく手を伸ばすと、すぐさま知子がその手を握りしめた。
「……」
「……」
夏怜と海麗は空気を読んでか、ただ黙って様子を見ていた。
『…か……れ………うら………ら……』
祈世樹が二人の存在を確認するために声を発し、ようやく夏怜が祈世樹の手を握って答えた。
「母さん。
私も海麗もここに居るわ」
「私らも居るぞ祈世樹くん!
まだ逝くには早すぎるぞ
ッ!」
「祈世樹さん、私も……リルドもここに居ます。
みんな、ちゃんと居ますよ…!」
…思い込みかも知れないが、酸素マスク越しに祈世樹は笑っていた気がした。
「お母さん、大丈夫だよね?
ちょっとからだが苦しいだけだよね?
…知子………いい子にしてれば………お母さん……元気になるよね…!!?」
きっと知子も分かっているはず。
ただ、認めたくないだけ。
『………』
祈世樹は何も答えず知子の手を握り返していた。
「…みんな。
母さんの手を握って」
夏怜が不意にそう言うと、まだ触れていなかった璃杏と海麗と強乃がそれぞれ両手に触れた。
『……あり……がと………暖かい……』
わずかに生気が戻ってきたのか、心拍数がほんの少し回復した事を心電図が伝え、会話も少しだけしどろもどろさが無くなった。
『………あか………お父さん……いる…?』
その問いに俺は祈世樹の頭に手を乗せた。
「…ちゃんと居るよ。
リルドさんも西浜さんも居る」
俺の声に祈世樹ははっきり笑った。
それはもう………ムカつくほど幸せそうで。
『マスク……取って…』
突然、祈世樹は酸素マスクを取るよう要求してきた。
その役目を夏怜が担うも、マスクを取る際の夏怜の手は、はっきりと震えていた。
「……ありがとう夏怜…」
久しぶりのシャバの空気を吸ったような様子の祈世樹は落ち着きを増していた。
「はぁ〜………いいなぁ…。
…こうして見ると…………みんな……大きくなったね………」
きっと昔を思い出したのだろう。
その言葉に璃杏がベッド脇で泣き伏せた。
「…璃杏……。
女が簡単に泣いちゃダメよ。
女は男に頼ることない強さを持たないといけない……でしょ…?」
その言葉にハッと我に返った璃杏は涙を拭っていつも通りの強気を取り戻した。
「そ、そうですわ!
…女がか弱いなんて、いつの時代の恋愛ドラマなんですの!
………私は……弱くなんかッ……」
それでも耐えきれなくなった璃杏は再びほろほろと涙を流す。
分かっていたと言わんばかりに祈世樹は笑顔を浮かべていた。
「…母さん、何か食いてぇもんとか欲しいもんとか無いか?
俺が出来ることであれば何でもしてやるから……」
「…ありがとう……強乃。
あなたの優しさは…ほんとお父さんそっくり…」
優しく返されたのが悔しかったのか、それとも何も出来ない自分を呪ってか、強乃もまたうつむいて歯を食いしばって涙を零した。
「…海麗…。
バイト…頑張ってる…?」
「……あぁ…」
ここに来てようやく声を発した海麗は少しだけ戸惑っていた。
「お父さんだけじゃ………きっとみんなを養っていくには……大変だと思うの…。
…ちょっとだけでいいから……支えになってあげてね…」
「…まぁ稼ぎはいくらか寄越してるかんな。
心配しなくても大丈夫だよ…」
その返答にも祈世樹は嬉しそうに微笑んだ。
海麗もその笑顔にムカついてか知らずか、祈世樹から顔を背けて涙を噛みしめていた。
「お母さんっ、知子もいるよッ!
知子にも何か言うことないッ!?」
自分を忘れられてると思ってか、飛び入るように知子は割り入ってきた。
「…ごめんね知子…。
……お母さんこんなんだから……みんな元気無くしちゃってるから………あなたがみんなの太陽になって…明るくしてあげてね…。
勉強も…怠ったらダメだよ…」
「うんッ……。
知子がんばるの…。
べんきょーもガッコーも……算数もがんばるからッ…!」
泣きながらも知子が言い切ると、祈世樹はゆっくりと知子の頬に触れた。
一瞬しかもたなかった祈世樹の落ちかけた手を、知子は持ち前の反射神経で掴み止め、再び自分の頬に当てた。
「……夏怜…。
あなたにもいつも迷惑かけたね。
長女で頭も良くて…面倒見も良いから……すごく…助かってたよ…」
知子の頬に触れながら祈世樹は夏怜に目線を向けた。
「…そんなの感謝される事じゃない。
私は……私がしたいからしてるだけ…。
……「家族」だから…」
夏怜のセリフを聞いてか知らずか祈世樹はほろりと涙を流した。
「……ごめんねぇ………迷惑ばかりかけて…」
ぽつりと漏らした祈世樹の言葉に誰も触れられずいた。
だからこそ…かな。
「迷惑かけて何が悪い」
少し後ろで俺は腕組みをしながら少し説教じみた言い方をした。
「燈さん……」
俺が半ばキレると思ったのか、リルドさんが不安げに合いの手を入れるも俺は止めなかった。
「家族ってのは一番近しい「他人」だ。
一番近しいからこそ、お互いの良い部分も悪い部分も見えるし迷惑も情けもかけるんだよ。
でもそれは「家族」だから許される事だし、かけて当たり前なんだよ」
誰一人文句も返さない。
リルドさんは俺に伸ばしかけていた手を自分の胸に当てて握りこぶしを作り、西浜さんは腕を組んで俺の話にただ黙って相槌を打っていた。
ただ一人、祈世樹だけは泣いていた。
「…………ほんと……優しいね……「空」は…」
皮肉か妥協か、祈世樹は俺も読めない笑みを浮かべていた。
「はぁ〜〜〜………」
大きくため息をついて祈世樹は何かを決断した。
「…お母さん、もう「ダメ」になっちゃうけど……お父さんやおじさんたちを困らせたらダメだよ………みんな…」
その言葉に死期を察した知子が飛びついた。
「お母さんッ、死んじゃやだッッ!!‼!!
知子、まだお母さんといっしょにいたい!!!!
いっしょにご飯作ったり、お母さんのかたもんだり、お風呂であらいっこしたり…それから…それから…ッ………」
急いで答えを出そうとするも、祈世樹は止めるように知子の頭をなでた。
「………ありがとう知子…」
それはもう、ド畜生にムカつくほど満面の笑みで。
「ッ…!!!!
やだッ……いかないでお母さんッッッ!!!!!!」
懸命な知子の呼び掛けも虚しく、祈世樹の目蓋は涙を零しながらゆっくりと閉じた。
「…お母……さん………。
いま…………そっち……に………いき………ま………」
『ピ――――――――――――』
そして彼女は琴切れた。
心電図の単調な機械音が、彼女の命の終わりを確かに告げた。
「うそッ…………いやッ……………いやぁぁぁぁぁあああぁぁあぁぁぁッッッ…!!!!!!!!
やだぁぁぁぁァァぁぁああああぁぁ……!!!!!!」
二度と動くことの無い手に知子は必死に縋り付き、これでもかと言わんばかりに泣き叫んだ。
「ッ…………母さん……………」
「あ……あぁ…………お母さまッ………」
「なんでっ………なんで逝っちまうんだよッ…。
死ぬには早すぎんだよッ………!!!!」
「クソがッ………こんなの………認められるわけねぇだろうがクソッタレッ……!!!!」
璃杏は夏怜に縋り付くように泣き崩れ、強乃と海麗は祈世樹に背を向けて静かに泣いていた。
その様子を見届けてからずっと後ろで見守っていた先生が近寄り、祈世樹の脈拍を測った。
「………午前二十四時三十四分…。
……ご臨終です…」
囁くように先生が告げる。
分かっていることを口にするなと言わんばかりにそれを聞いた海麗が一瞬殴り掛かりそうになったが、強乃が寸前で止めてくれた。
「……このッ………大馬鹿者がッ…。
親より先に死ぬ親不孝者が……どこにいると言うんだッッ…!!!!」
悔し涙に唇を噛み締めながら西浜さんもそう叫ぶも、その気持ちに寄り添うようにリルドさんも泣きながら西浜さんに縋り泣いていた。
「………先生……。
…うちの家内が………本当にお世話になりました……」
心にも思っていないことを俺は頭を下げて言う。
「……ご遺体は一時的にこちらでお預かりしますので、ご家族様はご葬儀の準備などをお願いします」
そう言い残し、先生と看護婦二人も軽く会釈をして病室を出た。
「…………」
ふと祈世樹を見る。
心なしか、今の方が顔色が良く見えた。
…何を言ってんだか。
「………ごめん皆…。
父さんタバコ吸ってくるよ…」
「…ッ…!
燈さ……ッ…」
リルドさんが何か言いたげに呼び止めようとするも、行かせてやれと言わんばかりに西浜さんが止めてくれた。
それを視認してから俺も重い足取りで逃げるように病室を出た。
病室を出た俺が向かったのは喫煙室……ではなく車の中。
「………」
パンパンに情報が詰まった頭を解すために、俺は電子タバコを一吸いして煙を吐き出す。
また一吸いして煙を吐き出し、また一吸いして……その繰り返しもだんだん感覚を縮めていった頃には、俺の口の中はメンソールの香りで充満し、むしろ痺れすら遠い感覚に感じていた。
「………」
それに気付き俺はようやくタバコを離した。
それに合わせるように、意識の外側で気付く頃には涙がこぼれていた。
『俺……今更泣いてんのか?
……大の大人が泣くなんて………情けねぇ…』
悲しいからとかじゃない。
ただ、身体が泣くことを本能的に促している感じ。
だが、その理由に気づくにはそう時間は必要無かった。
「ッ…!」
そう。
俺はずっと我慢していた。
子供たちの前で……祈世樹の前で涙なんて見せられないと心のどこかで自分に言い聞かせて。
「ちくしょう……止まれッ………止まれッ…!!!!」
直接言い聞かせるも涙はとめどなく溢れてくる。
そしてようやく俺の中に隠れていた「感情」が顔を覗かせた。
「祈世樹………俺は……お前が死んだぐらいで………泣くわけッ……」
自分でも幼稚だと思った。
その悔しさとやるせなさに、感情が爆発した。
「ッ…………ちっくしょおぉぉぉぉぉぉぉ…!!!!!!!!」
ガキみたいに泣く自分が情けなくて……たかが一人の人間の死に泣く自分が弱くて……何より………「何も出来なかった自分」が腹ただしくて…。
「祈世樹ッ……俺は…………うあぁぁぁあああぁぁぁぁぁぁぁ……!!!!!!!!」
軽自動車の中で中年オヤジが一人、馬鹿みたいに泣いている……それだけの…つまらない話。
「…何がタバコ吸ってくるだ。
カッコつけて逃げたつもりかよ…。
………クソだっせぇんだよ……」




