Ext.7 知子の買い物
夏休み期間中の昼下がりのこと。
「あー…。
暑い……」
気温は三十度にまで更新し、うだるような暑さが俺たちの活力を奪っていた。
「あちゅいねおとーしゃん…。
知子、ばたんきゅーしちゃいそー…」
カーテンを仕切っても日当たりの良い我が家のリビングに高気温らかの逃げ場はなく、知子はソファーで今にも溶けそうに寝そべっていた。
「冷蔵庫にジュースあるから飲め…。
熱中症で倒れたら困るからな…」
現在、家には俺と知子、夏怜の三人がいた。
「かくいう俺も……水分補給せねば…。
けど……冷蔵庫は遠い……」
五歩も歩けばたどり着く距離だが、この暑さに気力は完全に失われていた。
備え付けのエアコンはタイミング悪く故障し、修理は明日になる。
扇風機を回してるも、吹いてくるのは熱風ばかりで役に立たない。
「夏怜………生きてるか…?」
我が家の中で最も存在感の薄いが故、夏怜のことを忘れていた。
そんな夏怜は学校の体育着で頭に濡れタオルを乗せて「暖」ならぬ「冷」を取っていた。
「平気。
少し暑いけど、充分に水分と塩分は摂取できてる。
加えて、日陰に避暑地を作れたから問題ない」
よく見ると、夏怜は窓際のギリギリ日光が当たらぬ位置にアルミシートを立て掛け、ドーナツ形クッションを敷いてバニラの棒アイスをしゃぶっていた。
「お前……いつの間にそんな快適な…。
てか、どこからアイス持ってきたんだ…。
……こないだみんなで食べちまったはずだぞ…」
「これは一週間前に父さんが買ってきてくれた徳用のバニラアイスの残り一本を冷凍庫の奥深くに隠していた。
前もって天気予報で猛暑日が来ることを把握していたから」
そう言いながら夏怜はアイスを冷たい眼差しでぺろぺろとなめていた。
「いーなぁー…。
知子もあいしゅたべたい…」
「…いいわよ。
おいで知子」
その呼びかけに知子はパァっと笑顔になり、さっきまでとは人が変わったように夏怜の元に走っていった。
「あいしゅ、たべゆ!」
飼い主の前で待てをする犬のように知子は夏怜の目の前でお座りしながら今か今かと待っていた。
「いいけど、くっつかないでね。
あーん…」
「あーーーんっ。
…んんっ……ちゅめたっ♪」
バニラアイスの先端にはむっとしゃぶりつき、急激な冷たさに知子は瀕死から生き返ったかのように喜んでいた。
『いいなぁ…』
そう思いつつ知子を見つめていると、その視線に気付いた夏怜が声をかけてきた。
「…父さんも……食べる?」
「えっ…」
それは言うまでもなく、夏怜が知子になめさせているバニラアイスに間違いなかった。
だが、娘の舐めたアイスを父親までなめるのはさすがに抵抗がある。
「……冗談よ」
夏怜は知子にアイスを渡し、俺に近寄ってきた。
「なんだ…?
……冷たッ!?」
夏怜は頭に乗せていた濡れタオルを俺の首に巻いてくれた。
「これなら父さんも満足でしょ?」
夏怜の巻いてくれた濡れタオルは、みるみるうちに俺の体温を下げて俺に活力を戻してくれた。
「あ………あっはっはっはっ。
こりゃ一本やられたな…」
夏怜の頭をなでると、目をつぶり甘える猫のように鳴いた。
「にゃー…」
「……俺の好みと思っての反応か」
「いいえ。
二日前、母さんが寝言で言っていたのを聞いただけ。
…夢で父さんに甘えていたのかしらね」
「…ッ!?///」
思わず手を離すと、夏怜は猫の手を象りながら首をかしげながら見つめていた。
「知子もおとーしゃんにあまえるのー!
にゃーーん!♪」
「ちょ…!
暑いからくっつくな…!」
そんなことなどお構いなしに知子はすり寄ってくる。
「あっ…。
買い物行かないとだな。
今日はサラダそうめんにしようかな」
「おそうめん!?
知子もいくー!」
ピョンピョンとその場で飛び跳ねる知子を見て、俺はある事を思いついた。
「…そうだ!
知子、お前もそろそろ一人で買い物行けるようにならないとな」
「にゅ…?」
「夏怜と一緒に晩ご飯の材料を買いに行ってこい。
お金と買い物リストは夏怜に持たせるから」
「むー…。
知子、おとーしゃんとおかいものいきたい!」
「ダメだ。
知子もいい加減一人でも行けるようにならないとな」
「やーだー!」
嫌がる知子を見て夏怜が粛清した。
「ダメよ知子。
いつまでも父さんに甘えてばかりいると、家から追い出されるわよ」
「ふぇ…。
それはやだ…」
本気でする気もない事を夏怜はマジな雰囲気を醸し出して知子に問いかける。
「じゃあ一緒に行きましょ?
おつかいが出来たら父さんがご褒美くれるわよ」
「おっ、おいかれっ…」
「ほんとっ!?
おとーしゃん、いい子いい子してくれるっ!?」
「あっ……あぁ。
良いことできた子は褒めて伸ばすのがうちのやり方だからな」
半ば夏怜に合わせてみたのが正解だったのか、知子は飛び跳ねるカンガルー……と言うより、ワラビーのようにその場でジャンプし始めた。
「じゃあ知子きがえてくるー!」
風のごとく知子は部屋に走り去っていった。
「……やるな夏怜…。
小さい子の扱いには慣れたもんだな」
巻き添えの形でしたけどね。
「というより、知子のような甘えん坊にはこういった「餌釣り方式」が役に立つ。
褒美で言うことを聞いてくれるなら、知子の誘導は簡単よ」
「お前………将来メンタリストにでもなるつもりか」
「…稼げるのであれば資格でも取ろうかしら」
そう言いつつ夏怜もまた部屋に着替えに行こうとした時だった。
「…父さん」
「なんだ?」
色気を感じさせぬ目で夏怜は振り返る。
「…帰ったら、私にもしてね」
「…?
何をだ……?」
夏怜は返答することなく部屋に行ってしまった。
「いってきまーーす!」
白のワンピースに麦わら帽子を被り、知子は元気よく外に出た。
その様は、大好きな散歩にようやく連れ出してもらえた犬にも見えた。
「いってらっしゃい。
…知子のこと、頼んだぞ」
「分かってる」
灰色のスウェットに身を包み、ショルダーバッグを肩から下げて夏怜もまた準備万端のようだった。
「じゃあ、行ってきます」
「うむ。
いってらっしゃい」
静かにドアを閉め、夏怜と知子は買い物に行った。
さて…金は多めに渡したとはいえ、あまり無駄遣いだけはして欲しくないなぁ…。
夏怜がいるから大丈夫とは思うが……。
外に出ると、知子は既に100メートル先で私に手を振っていた。
「夏怜おねーちゃん、おそいー!」
遠くで知子が手を振るも、私は知子ほど運動能力は高くない。
「知子……速すぎる…」
強すぎる日差しによって体力の無い私は、日傘をさしながらも息を切らしながら知子を追いかけていた。
「おねーちゃんてばおそいよー。
知子のほーがとししたなんだよー?」
舞い踊るように知子はくるくるとその場で回転していた。
『計算ミスだった…。
こんなことになると知っていたなら、スウェットなんて着てくるんじゃなかった…』
私としたことが、知子の活発さを忘れていた。
と言うより、我が家で一番自由な性格である事を忘れていた。
それ故に、スーパーに着く頃には私の体力はほぼゼロに近かった。
「ついたー!」
元気に知子ははしゃぐも、私は既に汗だくになっていた。
「…と、とりあえず……買う物を買ってとっとと帰りましょ…」
「うんっ!」
ワンピースをなびかせながら知子は先にスーパーに入った。
『あの子、普段は父さんがいればあんな身勝手にならないのに…』
まるで飼い主を選ぶ犬のように、知子は先に走っていってしまった。
もちろん、買い物リストやお金は私が持ってる。
でも、あの子一人では危なっかしい。
『どうせ、行くとこは分かってるけどね』
スーパーに入ると、効きすぎてる程に涼しい冷房が私の全身を冷やす。
カゴを持ち、私は知子が向かうであろう場所に向かった。
「…あっ、夏怜おねーちゃん!」
ようやく見つけた知子は、予想通りお菓子コーナーに張り付いていた。
「ダメでしょ知子。
勝手に先に行ったら、迷子になってたかもしれないのよ」
軽くお仕置き程度に頭をぺちっと叩く。
知子はこれで言うことをちゃんと聞いてくれる。
「あうっ…!
……ごめんなさいぃ…」
「はぁ…。
いい子だから、一緒にそうめんの材料買って帰るわよ」
「うんっ!」
お菓子から目を離し、知子は私の手を握る。
私もまた、知子が逃げないようにぎゅっとその手を握る。
「えっと……まずはそうめんを五袋、トマト、きゅうり、天つゆ………豚肉?」
見間違いでもなく、リストには「豚肉 300グラム」と書いていた。
そうめんに肉はいらないと思うが…。
ふとスマホを確認すると、父さんからLINEが来ていた。
『言い忘れてた。
豚肉は今度のカレー用に買ってきて欲しい。
スーパー内の精肉コーナーから豚のブロック肉を300グラムで買ってきてくれ』
…そういう事ね。
『了解です。
他に必要なものはある?』
見ていたのかすぐ返事が来た。
『いや、あとは大丈夫。
アイスとかは買ってもいいが、あまり無駄遣いすんなよ。
特に知子には目を光らせとけよ』
「…そうね。
………知子ッ!?」
私としたことが油断していた。
気がついた頃には、知子は私の傍から離れ、どこかにいなくなってしまった。
急ぎお菓子コーナーに確認しに行くも、知子の姿はなかった。
『そんな……。
あの子、どこに行ったのかしら…』
急ぎ私は父さんに返信を済ませ、知子を探しに店内を駆け巡る。
トイレにもおらず、アイスのコーナーにもいなかった。
『あの子……まさか誘拐されたんじゃ…』
従業員に迷子として連れていかれたならまだいい。
ただ、私の脳内に昨日見たニュースが脳裏に過ぎる。
昨晩の夕食を食べてる時、たまたまテレビで放送されていたニュースを見ていた時のことだった。
『次のニュースです。
○○町で、少女誘拐事件が発生。
八歳の少女が何者かに学校帰りに声をかけられたのを最後に行方不明になりました。
犯人は依然、行方が知れず、警察は目撃証言を元に捜索中とのことです』
『まさか、知子も…!』
嫌な汗が吹き出してきた。
私は人ごみを避けつつ知子を探し回った。
そしてようやく見つけた。
『知子!
良かっ……ッ!?』
知子は見知らぬ老人と歩いていた。
知子は楽しそうに話しているが、私は冷や汗が止まらなかった。
『もし知子を連れ去ろうとしてる犯人であれば……知子が危ないッ!!』
急ぎ私は知子の元へ走った。
「知子ッ…!」
「…あっ、おねーちゃん!」
老人から知子を引き離し、身の安全を確認する。
「大丈夫!?
怪我はない!?
何もされてない…!?」
知子は首をかしげるも、私は老人に敵意を向けた。
「あなた………知子をどうするつもりだったのッッ!!!」
高鳴る動悸に耐えつつ私は老人を睨みつける。
だが、老人の反応は私の予想を大きく裏切った。
「おや、この子のお姉さんかい?
いやはや、見つかってよかったよ」
「……え?」
ニコニコと笑う老人の笑顔に悪意は見えなかった。
「はっはっはっ!
そういう事だったのか!」
「本当に……申し訳ありませんでした」
休憩コーナーの一角で、私は老人……おじいさんに深く謝罪をしていた。
どうやら精肉コーナーでうろうろしていた知子を見かけて、迷子と思って声をかけたらしい。
それで一緒に私のことを探してくれていたということらしい。
「そう気にせんな。
勘違いはよくある話だよ。
それに今時、君のような正義感の強い子も珍しいからな」
「いえ、正義感なんて…。
ただの勘違いです…」
「はっはっ。
何はともあれ、何事もなくてよかったよ。
知子ちゃんもお姉さんが見つかって良かったな」
「うん!」
「知子っ……はぁ…」
知子を叱ろうにも、そんな気力も権利も私にはなかった。
その雰囲気を察したのか、知子はしょげながら私に謝った。
「かってにいなくなってごめんなさい…」
申し訳なさそうに謝る知子に胸が痛む。
「もういいわ…。
…どうして精肉コーナーにいたの?」
「んとね……おねーちゃんが買いものリストを見たとき、いちばん下におにくもひつよーって見えたから、知子がみつけたらおねーちゃんよろこぶかなって……」
「それで私に黙って肉を見に行ってたのね」
「ごめんなさい……」
今に泣きそうな知子を見ておじいさんはなだめてきた。
「まっ…まぁ知子ちゃんも悪気があってした訳じゃないんだ。
今日のところは、オレに免じて見逃してくれないか?」
そんなに同情されれば認めない訳にもいかない。
「……分かった。
でも、次こういったことがあれば、お菓子は一週間禁止にします」
「ふえぇぇ…!
それはやだぁ…!(´;ω;`)」
「はっはっはっ!
良かったじゃないか知子ちゃん!
おやつが食べられなくなったら、いつでもおじさんの家に来なさいな」
「ほんとっ…!?
おぢちゃんのおうちにおかしあるっ!?」
「あぁ。
おぢちゃんのお家なら、おせんべいとか色々あるよ」
「おせんべい!?
知子、たべたーい!」
「ちょっと知子…!」
「安心しなされお姉さんや」
唐突におじいさんは左腕を見せてきた。
服の上から腕章が付けられ、そこには『万引きGメン』の文字が書かれていた。
「これって…」
「そう。
ここの店長さんからもらった腕章だよ。
ボランティアでここの万引きGメンを任されてな。
毎日こうして見周りをしておるんじゃよ」
「そう……だったんですね…」
それならば、知子に声をかけたのも納得がいく。
「おぢちゃん、おさんぽするのおしごとなの?」
「うむ。
おじちゃんはな、こうしておさんぽして悪いことをしてる人が居ないか見周るのがお仕事なんだよ」
「ほえぇぇ…!
おぢちゃんしゅごーい!」
かっかっと笑うも、万引きGメンなんて素人がそう簡単に任せられるものでは無い。
もしや元警察官とか……。
「おじちゃんはな、一人ぼっちでいつもこうしてスーパーを歩いていたんだよ。
そうしてたら、ここの店長さんと仲良くなってね……それからボランティアという名目でここの万引きGメンを任されたんだよ」
「ほえぇぇ…。
じゃあじゃあ、おぢちゃんはもうひとりぼっちじゃない?」
「もちろん!
おじちゃんはここの人たちともう仲良しさんなんだぞ?」
「しゅごーーい!(*´∀`*)」
知子は感心するも本当に何者なのだろうか。
などと考えていると、おじいさんはおもむろに持っていた懐中時計を見た。
「…じゃあおじちゃんはそろそろ帰るかな。
帰って薬を飲まねばな」
「おくすり?
おぢちゃんびょーき?」
「まぁね。
……それじゃあね二人とも。
喧嘩せず仲良くするんだよ」
「うんっ!
ばいばいおぢちゃん!」
ニコニコと笑顔でおじいさんは去っていった。
「……いーひとだったね」
「そうね…」
色々と気になる点はあるが、とりあえずは買い物を済ませて帰ろう。
「はっはっはっ!
そんなことがあったのか!
まぁ夏怜の気持ちも分かるよ」
「…別に分からなくていい」
「いやいや、よぉく分かるぞ?
俺も夏怜の行動は大したものだと思うしな」
「それでも……」
帰ってきて早々、父さんに様子がおかしいと見抜かれ、私はスーパーでの一件を話した。
「そう気にすんな。
悪いやつじゃなかっただけ良かったじゃないか」
「……そうね…」
夕食のサラダ素麺を食べていたその時、ニュース番組のBGMが耳に入ってきた。
『こんばんは。
○○町で少女を誘拐していた犯人が、先ほど身柄を確保されました。
犯人は40代無職の男性。
「小さな女の子に興味があった」と供述。
その後、県警へ連行されました』
「おっ、けっこう早く捕まったな」
「……そうね」
隣で素麺をちゅるちゅるとすする知子を私は見つめる。
……本当に、あのおじいさんで良かったと思った瞬間だった。
その後、あのおじいさん……武井耕造さんとは何度も顔を合わせた。
買い物に行く度に知子が武井おじさんを探し、その度に見つけるからだ。
父さんとも顔を合わせ、良き顔なじみとなった。
知子にとっても良き知人となったようだ。
「おぢちゃーん!
おせんべーたべたーい!」
「はいはい。
今持ってくるよ」
現在、私たちは武井おじさんの家に遊びに来ていた。
思ってたより近所で家からすぐ来れる距離だった。
今年還暦を迎えて家では一人暮らし、奥さんは三年前に他界したそうである。
一人の間に子供もおらず、奥さんが亡くなってから病気を患い、その後病院通いで暮らしているそう。
「はい、知子ちゃんの好きなおせんべいだよ」
「ワァ───ヽ(*゜∀゜*)ノ───イ
おぢちゃんのおせんべーすきー!」
子供がいないのもあってか、知子をよく可愛がってくれる。
「んー、おぢちゃんのおせんべーおいしー♪」
「そうかそうか。
まだまだおかわりあるからたくさん食べなさい」
「ハ━━━ヾ(。´囗`)ノ━━━イ!」
持ってきたせんべいの袋を器用に開け、次々とせんべいをむさぼる姿はまるで飢えた獣のようにも見えた。
「ほら知子ちゃん。
そんなに急がずともおせんべいは逃げないから。
…今、お茶持ってくるからね」
聞いているのかどうか分からないぐらいに知子はせんべいに食らいついていた。
…その時だった。
『ガチャンッ!』
かん高く落ちた皿の割れた音が鳴り響く。
「おねーちゃん!
いまの音って…!」
反射的に私は台所に走った。
「……ッ?!!!!」
そこで目にしたもの…。
……台所で武井おじさんが倒れていたのだった。
「武井さんっ、しっかりして!」
必死に声をかけるも、武井さんは目を覚まさない。
「知子!
急いで父さんを呼んで!
武井おじさんが倒れたって!」
「ふぇっ!?
おぢちゃんが!?」
事態は一刻を争う状況となっていた。
その後、知子が父さんを呼んでる間に私は救急車を呼んだ。
父さんが駆けつけた頃に救急車も着いた。
もちろん三人で救急車に乗り病院へと向かった。
「おぢちゃん!
目をさまして!
おねがいだから……おぢちゃん…!!」
泣きながら知子が必死に叫ぶも、武井さんは目を覚まさなかった。
その後、病院に到着し緊急搬送された。
「そっちしっかり持て!
担架を傾けるなよッ!!」
「はいッ!!」
二人の救急隊員が呼吸を合わせて担架を引き下ろし、そのまま病院内を走る。
「急患です!
道を開けてください!」
全力疾走に近いスピードで走るも、私は少し遅れ気味になりながら追いかけた。
「はぁ…はぁ…!」
こんな時、自分の運動能力の低さにつくづく呆れてしまう。
知子は父さんと担架のスピードに合わせて追いかけていた。
「おぢちゃん!おぢちゃん!
おっきしてよぉ…!!」
知子の呼びかけも虚しく、そのまま武井さんは集中治療室に運び込まれてしまった。
「お付き人さんたちはここでお待ちください!
状況が判別つき次第、こちらから声をかけます!」
「分かりました…」
苦虫を噛み潰したような表情で父さんは歩みを止め、扉が閉じられた。
「ぐすっ………おぢちゃん…だいじょーぶだよね…?
ぜったいかえってくるよね!?」
「……」
「ねぇおとーしゃん!!
なんとかいってよ…!!!!」
知子が父さんにこれほど強く物申すのは初めて見た。
だが父さんもまた、予想出来ぬ事態に言葉をなくしていた。
「…おぢちゃん……かえってくる……ぜったい…ぜったいにおぢちゃんはかえってくる!!」
知子もまた不安なのだろう。
父さんを問い詰めるのを止め、途中から自分に言い聞かせ続けていた。
一時間後、医師が手術室から出てきた。
「先生…!
武井さんは……」
父さんが立ち上がって聞くも、医師の表情は曇っていた。
「…残念ですが………既に手遅れでした…。
私どもの方でも最善は尽くしたのですが…」
呆気なく医師は答える。
私は頭の中が真っ白になった。
「そんな……」
父さんもショックを受けているようだが、一番傷ついたのは他でもない……知子自身であった。
「うそ………。
……おぢちゃん……しんじゃったの……?
……知子、しんじないッ!!!!」
「…ッ!?
知子、待てッ!」
父さんの静止に耳を傾けることなく、知子は手術室に走っていった。
「……お二方も、よろしければ中へ…」
「ッ……」
私は震えていた。
中に入るのが怖くて仕方がなかった。
「…行こう、夏怜」
父さんに手を引かれ、私は震えながら中に入った。
テレビでしか見たことのない手術室の中央で、知子はおじさんに寄り添って泣き伏せていた。
私は三〜四歩手前で言葉にしがたい恐怖に足をすくませていた。
「夏怜…。
おじさんの顔をちゃんと見てあげなさい」
出来ることならそうしたい。
けれど、私の足は武井おじさんに近寄ろうとしない。
すると、泣き伏せていた知子がようやく顔を上げ、おそるおそる武井さんの顔を覗いた。
「ぐすっ……おぢちゃん………どーしてしんじゃったの…。
……知子にいっぱいやさしくしてくれたのに……なんでぇ…」
こらえられぬ悲しみに知子は再び泣き出す。
それを見た父さんはそっと知子の頭に手を乗せた。
「…いいか知子。
武井おじさんはな、知子に会えて本当に嬉しかったんだよ。
奥さんが亡くなってからずーっと一人でいた最中、知子と夏怜に会えてきっと幸せだったんだよ…」
涙ながらに父さんが言い聞かせるも知子はその手を半ば振り払い、理解し難い怒りに駆られながら反論した。
「だったら、どーしておぢちゃんはしんじゃったの!?
おぢちゃんはもっとながいきできたはずなのに…!」
「……それなんですけれども…」
知子の言葉を聞いて医師が割り入る。
「実は……武井さんは一度、脳梗塞を患っていたんです」
「えっ…」
「…ッ!?」
知子だけ分からないようではあるが当然だろう。
脳梗塞の意味を知ってる私はひどく悪寒が背筋を走った。
「奥さんが亡くなられてからしばらくショックで立ち直れなくなってて……一度そのショックから立ち直れたんですけど、その時のストレスから不整脈を患い、そこから脳梗塞を患ってしまったのです。
幸い、一命は取り留めましたが…どうやら今回再び再発してしまったみたいで……」
「そんな……」
無理もない。
病気は風邪や発熱程度の軽度なものであれば、一度発症しても治ればしばらくの間、抗体は出来る。
だが、脳梗塞や心筋梗塞のような血管に強い負担や傷を一度でも負ってしまえば、それは回復したように見えても実際は「対症療法」という形であり「治療」とは違う。
つまり完治ではないという事。
「それじゃあ……武井さんの脳梗塞が再発したのは……」
「いえ、我々の方でも処方箋は出していました。
毎日、適応時間に薬を飲んでもらい、過度な運動は控えるようにと…」
「そんな…。
それじゃ、武井さんは家から出なきゃこうはならなかったってことですか?」
「いえ、寿命とも言えます…」
その言葉を聞いて父さんは今までに見たことのない表情で涙を流す。
「…なんだよそれ……。
そんなのッ……受け入れろってのかよッ……!!!」
やり場のない怒りに身悶える父さんに、知子でさえ怯えてしまっていた。
そんな父さんを見た瞬間、私の脚から力が抜け、思わずその場にへたりこんでしまった。
「…ッ!?
夏怜ッ!!」
思わず尻もちをついた程度で済んだが、私の身体は恐怖で脱力してしまった。
「大丈夫か!?
どこか痛めたか!?」
「……大丈夫っ…。
平気…」
父さんに手を引かれ、ゆっくりと私は震えながらも立ち上がった。
その時、偶然にもおじさんの顔を見てしまった。
「…ッ!」
生気が抜け、ただの屍となっていたその顔には、どこか幸せそうな笑みが見えた気がした。
『武井おじさんッ……』
それは死を受け入れたが故の笑みか、苦し紛れの強がりか、私にはさっぱり読めなかった。
そっと武井おじさんの頬に触れると、元は生きていた人間とは思えぬほど冷たかった。
ひどく忌むべきこの出来事は、私と知子にとって初めて目のあたりにした「死」だった。
「…おぢちゃん……。
うっ……うわあぁあぁぁぁあん…!!!!
いやだよおぉぉぉ!!!!
やあぁぁァぁぁァァァ…!!!!!!」
再び知子は泣き出す。
気が付くと、私も誘われるように泣いていた。
……無機質な白色電灯が照らしていたのは、悲しくも一人の老人の最期であった。
それから五日後のこと。
静岡に住んでるという武井さんの弟の栄二郎さんが、武井さんの身元・遺品整理をしに来てくれた。
年に数回、武井さんの様子を静岡から見に来ていたそうだが、去年から年齢もあってこちらに来るのが億劫になって来れなかったと言っていた。
せめてもの償いだと、葬式は身内と知り合いで済ませた。
もちろん私と知子、父さんも知人として葬式に参加した。
一度見てはいたものの、死化粧によって綺麗になった武井さんの顔は儚くも幸せそうな笑顔だった。
それから火葬によって残った遺骨を墓に納めて全ては終わった。
墓地も近所であるため、私は月に一度のペースで墓参りに来ていた。
それから一ヶ月後のこと。
『…あれは……知子かしら』
学校帰り、スーパーの花屋でお供え用の花を繕ってもらい、その足で私は墓参りに来ていた。
「…あっ、お姉ちゃんもおじちゃんに会いにきたの?」
「そうよ。
…それは?」
武井さんのお墓の前に小さな花飾りが供えられていた。
「これね、知子の手づくりなんだよ。
おじちゃん、きっとよろこんでくれると思ってつくったの」
小さなタンポポで作られた花飾りは、見ただけで知子の想いが感じ取れた。
「きれいなお花だね。
知子、かびんにお水入れてくるね!」
「あっ…知子…!」
「だいじょうぶ!
水どうのばしょは分かってるから、まいごにはならないよ!」
両手にステンレス製の花瓶を持って知子は走っていった。
あれから知子はしばらく立ち直れず、今までの知子が嘘だったかのように笑わなくなってしまった。
それでも、ここ最近になってようやく気持ちが落ち着いてきたのか、少しだけ笑ってくれるようになってきた。
「お水、もってきたよ!」
「ありがと。
きっとおじさんも喜ぶわよ」
「うんっ!
おじちゃん、お花すきだったもんね!」
そう言って知子は花瓶に私が買ってきた花を挿し、手を合わせて黙祷した。
その姿は、つい最近までの知子とは打って変わって別人だった。
「しかし、よく立ち直れたわね」
「…?」
「知子よ。
あんなに泣いていたのに、よくここまで立ち直れたわね」
私の一言に、知子は予想だにしないことを口にした。
「…おじちゃん言ってたの。
「知子ちゃんは笑ってる顔が一番可愛い」って………ゆめでいわれたの」
「…ッ!!!?」
知子は嘘をつく子じゃない。
それを知ってるがゆえ、知子の一言は耳を疑った。
「「強く生きなさい。笑ってる知子ちゃんを、おじちゃんはいつでも見てるから」って……ゆめでいわれたの」
非科学的な論理は嫌いだ。
けど、知子の言葉にはリアリティがあった。
「だからね……知子は今日も頑張るの。
…知子がわらえば、おじちゃんよろこんでくれるから!」
ニコニコと笑う知子の笑顔は少しぎこちなかったが、それでもやはり知子だった。
「……そうね」
知子の頭をなで、おじさんの墓に手を合わせる。
「………そろそろ帰りましょ。
父さんが待ってるわ」
「うんっ!」
力強く返事をし、知子は私の手を握る。
「また来るね……おじちゃん…」
振り返りながら知子は寂しげな表情で呟く。
それでも、そこにもし武井おじさんがいたのであれば、きっと笑顔で手を振ってくれてるに違いない。
そう信じて私は知子の手を離さないように力強く握る。
今度は、二度と離さぬように。
今でも思い出す。
あの買い物があって、あそこで武井おじさんに会えたからこそ、知子も私も良き人生経験になったと思う。
死ぬことは忌むべきことではなく、笑顔で送り出すべきなのだと私は学んだ。
知子もまた、この経験を経て何かを学べたに違いない。
これからも、こうして私たちは多くの物事を知り得て学んでいくのだと私は悟った。
「夏怜お姉ちゃん!」
「…なに?」
「………なんでもないっ♪(*´ω`*)」
守らなければならない…。
……この笑顔だけは……。




