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戯文シリーズ

空気男はどこにいる (戯文シリーズ)

掲載日:2025/12/27

そこには、誰もいない筈だった。


いつものように僕がカビを育てていると、部屋が揺れた。

先日、何故か気付いたら病院に居たことがあって、その時に処方された抗生物質が元はカビから作られたものだと知ってから、僕は部屋の中で黒カビとか白カビとか赤カビとかを育てることにしたのだが、まさか僕の愛を受け取ったそれらが悦んで家を揺らした訳でもないだろうし、これは恐らく地震だろうから、僕は急いで部屋を飛び出した。

大きな揺れだった。震度はわからないが、過去にそこまで大きな揺れを体験したことは無かったというくらいの、耐震設計でなければ確実に家を崩壊させていたであろう揺れだった。

僕はその揺れを、カビ達との別れをあるいは今日ここで迎えるのではないかという不安とともに、玄関の扉を軽く開けながら眺めていた。


でもいきなり別れるのは辛いから、やっぱり前もって少しは別れておこうと思って、僕は揺れの中で台所に向かう。

途中で転んでしまって、お尻に何か硬くもしなやかな棒が刺さったような気もしたけれども、ただのこんにゃくだったので構わずに歩き続けて、台所で育てていた米麹(こめこうじ)…つまりは米によって培養した麹カビを回収してから、それを口に運びつつ玄関に戻る。

さようなら、愛しの白カビ達よ。

麹は最高の発酵食品だよね。

こんな可愛い子たちを生きたまま、あるいは抵抗もできない死んだ状態で、食べられるんだから。

かわいいな、そそられるな……ウッ!

間違えて逝ってしまった。

もとい、米麹を喉に詰まらせて逝きそうになった。危ない危ない、地震とはぜんぜん関係ない理由で死ぬところだった。


玄関に戻って扉を開け直す頃には、既に揺れは止んでいた。

途中で一際(ひときわ)大きな揺れに一瞬だけ見舞われて床にこぼしてしまった米麹を舐め回してから戻って来たためか、随分とあっさりしたものだった。

さて……そろそろ時間だし、部屋に戻って読書を始めなければならない。カビを育てていた途中だが、それは趣味であって、読書は日課だ。日課は絶対である。

床に散らかした米麹は、片付けないでおこう。その場所でまだ生きている麹カビが他の場所に付着して生き延びることができるよう、あるいは他のカビが米麹に付着して繁殖できるよう、掃除をしてはいけないのだ。

ああ興奮してきた。カビ達が生存競争を繰り広げている様を想像すると……いや、それを僕がこの目で実際に観ることができるんだと想うと、カラダが熱くなってくる。

顔も熱く、火照ってきて……黄色い鼻水や白濁した鼻水も出てくる。これは情欲と興奮の証であり、淫靡(いんび)な体液であり、つまりは僕がちょっと変態気質なことを意味するのだった。


ところが、僕が部屋に戻った時、そこには明らかに異様な光景が広がっていた。

家具の位置が、微妙に変わっていたのだ。

僕は日頃から、家具の位置をミリメートル単位で正確に決めている。そうすれば泥棒などの部外者の侵入に、後からではあるが、気付けるからだ。

例えば、机の上の辞書の位置。

僕にはわかる。ほんの7mm、右にずれていた。

いや、実際にメジャーで測ってみたらもう明らかだ。机の上の物だけでも、筆入れが左に9cm、ファイルボックスが左に4cm、本が右に2cm、ずれていた。

しかも、そもそもその机自体が右に5mmずれているのだ。

またはその向かいにある僕のベッドも、3mmだけ部屋の出入り口と逆方向にずれているではないか。


これだけ状況が揃えば、間違いない。

僕が一階にいた時、この部屋にも誰かいた。

この家の中には、僕以外の誰かがいる。


「…………」

途端に恐ろしくなった僕は、自然と物音を消し、呼吸を潜めて辺りを見渡した。

二階建ての一戸建てに三人暮らし。一階の『餌部屋』でカビ達と仲良くしている両親を除けば人間は僕一人しか住んでいないから、これだったら僕の気付かぬ間に何者かが侵入して、その辺の部屋に上手く隠れて僕をやり過ごし、この家に潜伏し続けることも可能だろう。


見てみれば、他にも位置がずれている物は沢山ある。

例えば小型冷蔵庫は、元の位置から手前に30cm程ずれているが、向きも縦と横にそれぞれ90°変わっているのだ。ここまで大胆な動かし方をするとは、犯人は相当な怪力なのだろう。

それからこれだ。壁に取り付けるタイプのこの時計は、元々取り付けていた位置から下に217cmずれていて、あろうことか壊れている。これに関しては全く隠そうともしていない犯行で、悪意丸出しだ。

いや、それとは別方向の部屋の隅を見てみると、炭酸飲料の缶が転がっていた。この後飲もうかなと思っていて開封せずに置いていたのは確かだが、問題はその置き場所である。

その缶は、元々置いていた机の上の位置から411cmも離れていた。

隠そうとしているような数ミリ単位の移動から、嫌がらせをしようとしているような数百センチ単位の移動まで、多岐に渡る犯行形態だ。畜生、こうなるとどこかに潜んでいるのだろう犯人の犯行動機や目的を推測するのが難しい。


とりあえず僕は、その辺に落ちていたメイスを手に取った。

ははーん、これは犯人がうっかり落としてしまった凶器だな?本当は僕に危害を加えるために持ち込んだが、先の地震でか、あるいは予想より早く僕が戻って来たからか、慌てて身を隠そうとして落としてしまって、拾っている時間は無かったからそのままにしたのだろうか?

あ、いや違った。僕の所有物だった。

そうだそうだ、これは僕が4年前に購入して、それから毎日これを手に持って振り回す練習を続けてきたメイスなのだった。

とにかく、昨日ぶりに手にするそれを構えたままで、僕は足音を殺してクローゼットに近寄る。隠れるとしたらまずはここだろう。

相手がいつどこから現れてもそれが視えるよう、目をできる限り全力で開きながら、僕はメイスを構えてじりじりとクローゼットに近寄る。

正直、怖い。クローゼットの中にそいつがいるならば、開けた瞬間に襲いかかってくるのだろう。例えば今、そのクローゼットの隙間からそいつが僕を見ているのかも知れないと思うと、怖くてたまらない。

実際に僕は今、恐怖のあまり口から唾液を漏らしまくっている。米麹が付着した足の裏に更に唾液が付着して、もう僕の足の裏は麦芽糖で甘々だ。僕の足が甘美で淫靡になってしまう。

対して顔や脇や手からは汗が滴り、鼓動は高鳴り、呼吸は潜めていても早まり、目はこれ以上開くことができないくらい開き、口も開いて唾液をだらだらと垂れ流す、完全な戦闘形態である。

これを読んでいる人も実際にやってみるとわかると思うが、目を限界まで見開くと視界が物凄く広がる。そんな状態にならざるを得ないくらいの極度の臨戦体勢だ。

それもこれも全て、クローゼットの中から見られているかも知れないという恐怖と、そんなクローゼットにあと一歩の所まで接近した緊張感に起因するのだった。


その時。

背後から、炸裂音が鳴った。


何だ!?何の音だ!?背後に誰かいるのか!?

だとしたら、僕はいつの間に背後を取られた!?

馬鹿な!?さっきまで誰も……いや!まさか冷蔵庫の中にでも隠れていたのか!?それとも机の引き出しの中か!?

はああ゛あ゛え゛んやあ゛ああ゛はぁらああ゛!!!

いや待て!背後には本当にそいつがいるのか!?これはどっちだ!?罠か!?振り返ったらそれはフェイクで、安心して再び前を向いた時にそいつが前から攻撃してくるっていう、そんな展開が待っているのか!?

わからない!だから振り向けない!

動けない……!!!

どうすれば良い!?振り返って良いのか!?

どう動くのが正解だ!?一旦前方か横方向に走り出してエスケープしてから、改めて振り返れば良いのか!?でもそれって、改めて振り返った時にその更に背後からやられるやつじゃないのか!?


うわあああどうすれば良……あ、読書しなきゃ。

ちょっと本だけ手に取るために、僕は振り返って机のところまで歩いて行き、その上にある本を手に持って(しおり)を挟んだ(ぺージ)を開きつつ、元の位置たるところのクローゼットの前に改めて立ち直した。


うわあああどうすれば良いんだあああ!!!

まずい!僕が今こうして葛藤して懊悩(おうのう)しているうちにも、奴は移動してどこかで悪さをしているかも知れないが、しかし僕のすぐそばにいるのかも知れないから迂闊に動けない!

だが、何も見えなかった!気配とか視線みたいな非科学的なことは置いといて、少なくとも後ろには誰もいないように見えたんだぞ?まさか透明人間だとでも言うのか?しかし空気のように見えないのならば、それが常に実体を伴うとも限らず、そんな空気男が相手だったらどうしようもない!

どうなってる!?背後では何が起こっている!?さっきの、爆音というか炸裂音は、一体何だったのだ!?くそう、振り返って確認することさえできれば!

いや、僕の手にはメイスがある!これを振り回しながらであれば、どこにいようと関係ない!


僕は必死に、懸命にメイスを振り回して振り返り、そのまま無我夢中の闇雲に部屋の中を駆けずり回った。

ちょっと家具にも命中してしまって、僕の部屋からベッドと本棚と机と椅子と冷蔵庫が消失した。

僕自身にも当たって出血してしまったが、それは部屋で放し飼いしていたカビちゃん達を体内に招き入れるだけのことだから、良しとした。

僕の免疫細胞によって蹂躙され、そもそも僕の体内という地獄に入ってしまった時点で自分達の死は確定していたのだと悟って絶望して、生存本能のあまり今際(いまわ)の際に胞子を無駄打ちお漏らしするカビちゃん達のことを想うと、背徳感と訳のわからぬ興奮を覚えるけれども、それはさておき。


そうして僕は、炸裂音の正体を特定した。

缶である。炭酸飲料入りの缶が、さっき破裂したのだ。

これも奴のイタズラだろう。シャカシャカと振りまくっておいて、軽く傷でも付けて、時間差で破裂するようにして置いていたのだ。

これは罠として利用するつもりだったのかも知れないが、僕の予想外の反撃にたじろいで、多分利用できなかったのだと思う。

となれば、やはり相手は空気男だ。ここまでの細工をこの部屋の中でやっておきながら、僕がこの部屋に戻って来る時には鉢合わせなかった。

僕がクローゼットを勢いよく開けて『こんにちはああああ!!!』と叫びながら突入しても、中には誰もいなかったし。


自分の部屋にいないのであろう空気男を探すため、僕はメイスを持ったままで部屋の外を探索しようと思ったが、メイスが重かったのでその辺の机に置いといて、机の上に彫刻刀があったので折角だからそれを研いでおいて、しっかりと机の中にしまってから、僕は部屋の外に出た。

「僕は、喧嘩とかもそんなに得意じゃないんだけど……」

あーあ、これじゃあ素手だよ。何か武器があれば有利に戦うことができるのだろうに、僕には今それが無い。何と不運なことだろうか。

一応、僕には(幸せな)満足していない人間の乳首に触れる能力があるけれども、空気男はその条件に該当しないだろうから、意味は無い。

流石に丸腰で探索するのは文字通り無鉄砲だったので、僕はその辺に落ちていた空のコンビニ弁当の中にあった使用済みの割り箸を取り出して、それをわざと歪な形になるように折って、その尖った断面をもって武器とした。

へっへっへ、この割り箸に付着したカビを、空気男の体内に()し込んでやるぜ。


隣の部屋の扉を開けてみる。

自宅ながら、こんな一戸建ての広い家の中を探索するのは大変だ。こうやって慎重に、全方向を警戒しながら足音を消してゆっくり進まなければならないし。

だが、僕はその部屋の中に広がる光景を見て、それを忘れてしまうくらいに驚愕した。


その部屋も荒らされていたのだ。


本棚から崩れ落ちた本が床を覆い隠していて、椅子は倒れ、机は大きく移動していた。ここは父の書斎であるが……父は今は一階にいる。母も同じく一階で、父と一緒に『餌部屋』にいるから、あの二人がやった可能性は否定できる。しかしその事実は(かえ)って僕に恐怖心を与えるのだ。

そしてその恐怖は、母の寝室を覗いて困惑に変わった。

こっちまでもが荒らされている。

さっきの地震は結構長かったが、それにしてもそれでもだ、それだけの短時間でこんなに部屋を荒らし回れるものなのか!?

どうしてだ!?奴はどうして、これだけの狼藉を、この限られた条件下で働けられれらられる!?

まさか僕は、何か間違えているのか…?

僕は何か、勘違いをしているのか…?

どこだ。

どこにいる。

空気男は、どこにいる……!


奴の目的は何だ?無いと思うけれど、まさか僕の可愛いカビ達を(さら)いに来たのではあるまいな?

ならば僕に何かするために侵入してきたのか?

でも、念のために餌部屋を確認しておきたい。

あそこは僕の家におけるカビ達の部屋であり、カビの本拠地とも言える。例えばあの部屋の中に次亜塩素酸液でも撒き散らされたら、僕はもう生きていけない。撒き散らした犯人を抹殺して僕も死ぬことだろう。


そんな訳で、僕は手にした割り箸の破片を構えつつ、慎重に階段を降りて、一階の餌部屋に向かった。

勢いよく扉を開けてみる。

「……ふう」

やっぱり取り越し苦労だったか。

消毒・滅菌に使用される薬品のにおいは漂っていない。

両親も、しっかり二人ともそこに横たわったままだ。

カビ達との添い寝は羨ましい限りだが、僕がそこに混ざるのはもう少し後にしたい。今はまだ、読まなければならない本がある。

僕は一応、そこに玄米のお粥を撒いておいた。

正確には、カビ達の主要都市と言っても過言ではない位置であるところの両親の間の位置に、注ぎ込むように撒いた。これでもっと繁殖できる筈だ。

僕の両親がカビ達と添い寝を始めたのはつい2ヶ月前のことであるが、二人ともそろそろ良い感じに仕上がってきた。

「お父さんお母さん、このままカビ達を育てていてください」

そんな呑気なことを言いつつ、僕が部屋を出て。

その時になって、やっと気付いたことがある。


餌部屋の向かいにある洗面所が、荒れていたのだ。


「……っ!!!」

瞬間、僕は背中に冷や水を浴びたかのように震え上がった。

動くべきではなかったかも知れない。大人しく心臓の音だけを聴いているのが正解だったかも知れない。

しかし、流石にこれにはパニックにならざるを得なかった。狂乱とも言える状態になって、僕は全速力で台所に走り込んだ。

どこから敵が現れても攻撃できるように、割り箸の破片を捨て身で銃剣突撃をする時のように構えて、相撲のように低い姿勢で、全力で台所に突進した。

曲がり角では汗でぐっしょりと濡れた足の裏が滑ってしまったが、じゃあもうこれは相撲だ。咄嗟に体勢を立て直して、()り足でまた進む。そんな時間が、秒数にしてほんの3秒くらいの時間が、驚くくらいに長く感じた。

まるで5秒くらい経っていたかのようだ。

そうして台所に辿り着いて、いの一番に包丁を手に取ったら素早く振り返って構えたのだが、空気男が元から台所にいた可能性も考えなければならないので、僕はまず包丁を振り回して、台所の中の空間を隅々まで斬りつけた。それは結果的には全て空振りで、素振り練習をしただけになってしまったが、それで結構である。

「はあ、はあ……ごほっ」

おっと、こんな非常事態でも僕の気管に入り込んでくるなんて、いけないカビだ。今は遊んでいる場合じゃないんだから、後で塩水によるお仕置きをしないといけないねえ?

ま、それもここで僕が生還できればの話だ。


たった今の洗面所の有り様を見るに、これは考え方を改める必要があるらしい。

そう言えば今日になってから洗面所の確認をしたのは今ので初めてだったけれど、ならば空気男がいつ洗面所を荒らしたかはわからないのだ。二階の部屋を荒らした後に洗面所を荒らしたとは限らない。

まさか、同時ということはあるまいし。

洗面所が後ならば、二階で荒らしてから一階に降りて来た筈なのだが、そこで僕とすれ違わなかったことの説明が付かない。

洗面所が先ならば、確かにいつから荒らしていたかはわからなくなるが、そんなに前からではない筈だ。しかしここ最近は僕もカビの放し飼いに力を入れているから、並大抵の人間がこの家に足を踏み入れれば、そのカビ達の総攻撃によって咳き込む筈なのだ。でも、そんな音は聴こえず……


……カビ?

カビ達の総攻撃、だと?


そうか。わかったぞ。

空気男の正体も真相もわからないが、対処法だけはわかったぞ。

原因を特定するのも良いが、やはり対処法の特定が重要だ。

自分で思ったことだが、カビ達が総攻撃をしただなんて、片腹痛いよ。この家の中にいる全てのカビによる総攻撃っていうことがどういうことなのか、ちょっと考えればわかることなのに。

そんなこと、まだ実行している訳が無いのに。


僕は急いで、すぐ後ろにあった餌部屋の扉を開けた。

そうして偶然近くにあった扇風機を、その部屋の扉の出入り口に、部屋の外を向くようにして置いて、すぐに電源を入れた。

一方で僕は、洗面所から乾いた雑巾を一枚手に取って、そのまま無遠慮に餌部屋に入り込み、申し訳ない気持ちと闘いながら、両親のもとで繁殖しているカビ達のコロニーを雑巾で何度も叩き上げ、薙ぎ払ったのだった。


「舞え、げふっげふん!舞え!ごほっ!カビ達よ、宙を舞い踊ごほっごほっ!」


扇風機が、部屋の中から外へ、風を送り出す。

家の中全体が、舞い散るカビで充満する。

いくら相手が空気男だろうと。

いくら相手が透明だろうと。

充満するカビの中では、シルエットが浮かび上がる…!

「ん…!」

目が(かゆ)い!鼻も痒い!むずむずするどころの話じゃなくて、本当に痒い!なんたる至福だ!僕はついに、カビ達とまぐわっている!

「げほっ!ごほっ!」

咳も激しく出る!

こんな風に大きな音を立て続けていたら、自分の位置を知らせているようなものだ!

咳はなるべく控えなければならない!

僕は慌てて、息の根を止めた。


あれ?……あ。

間違えて息の根を止めちゃった。

僕の腹に、深々と包丁が刺さっている。

これでは、息の根が止まってしまう!!!

息の根が止まる前に息の根を止めなければ。

自分の息の根を止めようとしている僕から自

分を守るために自分で自分自身の息の根を止め

させる戦法を使うなどという狂人の息の根は止め

なければ、僕は息の根が止まっても止まり切れない!


「くそ…!空気男め……え?」


死なば諸共と思って、お腹を押さえて空気男を探しに行こうとする僕を、しかし何か引き留めるものがあった。

カビ達が、僕の身体に(まと)わりついてくるのだ。

行かないでくれ、離れないでくれと、(すが)るように。


「……ああ」


そうだ。そうなのだった。

もう僕は助からないだろう。きっと助からないだろう。

そもそも、何故空気男を殺す必要があるのだ?

家を荒らされたからと言って、何故排除する?

答えはそう、僕がやりたいことをできないからだよ。

やりたいことをやるために、邪魔者を排除するんだ。

しかし僕はもう死ぬ。明日以降におけるやりたいことは、もう諦めるしか無くなった。

ならばここでするべきことは、今日に限った、今だけに限った、今すぐにできる、そして今すぐに終わらせられる、やりたいことなのだ。

危ない危ない、本末転倒となるところだった。


「よっこらせ」


僕は静かに、カビ達の棲み家に横たわる。

既に寝ている両親の間に挟まるように、ちょうどカビ達が大都会とも言えるレベルのコロニーを構成していた位置に。

そして穏やかな微笑とともに、うつ伏せに寝て、すぐ目の前にあったカビのコロニーを優しく撫でて。

その柔らかな感触を指に覚えながら、言った。


「これが僕から与えられる、最後の餌だよ」


そうして僕は、産道を進んでくる激痛を感じ取りながら。

静かに……出産した。

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