籐籠の檸檬
寝過ごしてしまったような印象が強かったが、実際にはまだ七時を少し過ぎたばかりだった。
部屋を出て、廊下を左へ進むと玄関があり、さらにその先に台所がある。珠暖簾の間に顔を入れると、すぐ目の前に女性が一人立っていた。
濡羽のような黒髪は、肩甲骨よりも少し下で切り揃えられ、すとんとまっすぐに落ちている。化粧は、ほとんどしていないように見えたが、長い睫毛が瞳に深みを与えて、憂いのある表情を生み出していた。
彼女が井領家の長女・藍以子である。
食器棚の中を見ていた藍以子は、利玖に気づいて振り返り、
「おはようございます」と微笑んだ。「朝ごはん、もうすぐ出来上がりますよ」
「すっかりお任せしてしまってすみません」利玖は腕まくりをしながら珠暖簾の内側に入る。「何か、お手伝いします」
招かれた先で勝手に台所に入るなんて真似は、普段であれば、もちろんやらないが、今は諸々の事情があって、藍以子と利玖の二人しか母屋にいない為、藍以子の方から、食事は一緒に台所で取らないか、と提案してくれたのだ。
「あ、じゃあ、えっと……」藍以子は台所の中を見回して、冷蔵庫に目をとめる。「ヨーグルトの器を出してもらおうかしら」
「この中ですか?」利玖は食器棚に近づく。床から天井まで届くかなり大きなもので、下側は木戸で閉じられているが、藍以子が眺めていた上側は木枠の中に磨り硝子が填まった造りで、食器のシルエットがぼんやりと透けて見えていた。
磨り硝子の戸を引き開けると、籐籠に盛られた檸檬が目に飛び込んできた。ざっと見て、五、六個はあるだろうか。どれも張りのある光沢を湛えている。その横には、色の濃い洋酒の瓶が添えられていた。
まさか食器棚の中にそんなものがあるとは思っていなかったので、ぽかんとしていると、
「あの……」と後ろから藍以子の申し訳なさそうな声がした。「すみません、下の方を開けてもらえますか。硝子の器があると思います」
「あ、これは、失礼」利玖は慌てて磨り硝子の戸を閉め、藍以子に言われた木戸を開ける。すぐに、涼しげなデザインでカットされた硝子の器が見つかった。
器を取って、利玖は体を百八十度回転させる。台所の通路は、人がやっと一人通れるくらいの幅しかないので、それだけで食卓に器を移す事が出来た。
台所自体もこぢんまりとしていて、慎ましい印象の空間だった。入り口を起点にして、コの字型に折れ曲がっている通路があり、その内側に食卓が置かれている。通路の外側に食器棚や冷蔵庫、シンクなどの設備が並んでいた。
驚くべき事に、藍以子は毎食、ホテルのように素敵な食事を用意してくれる。利玖は、時々食事をする事すら忘れるのだが、社会人になったら、誰でもこんな風にきちんとした生活を送れるようになるのだろうか。そう考えると、社会に出て働くという事が、とんでもない高さのハードルのように思える。
今朝のメニューは、厚切りのトーストにサラダ、スクランブル・エッグ、ハッシュドポテト、そしてデザートを兼ねた数種類のフルーツだった。すでにカップにコーヒーが注がれ、白い湯気を立てている。利玖が並べた硝子の器に、藍以子がヨーグルトを盛り付けてマンゴーのソースをかけた。
軽く両手を合わせた後は、会話を交わす事もなくそれぞれの食事に集中する。藍以子の方が、ほんの少しだけ早く食べ終わった。
「利玖さん、なんだかお顔が白いみたい」藍以子がカップを持ちながら眉を曇らせる。「どこか、具合が悪いですか?」
「いえ……」利玖は首を振った。「まったく健康ですよ。ただ、ちょっと眠りが浅かっただけです。眠る直前まで読んでいた本が面白くて、気分が高揚していたのかもしれません」
「ああ、そうだったんですか」藍以子は笑顔になる。「そんなに気に入って頂いて、光栄です」
「わたしが気に入っても、しょうがないのですが」利玖は苦笑した。「お父様の遺した本は、どれも、本当に面白いものばかりです。ざっと読んで内容を把握するだけに留めておこうと思っても、ページを捲る手が止まりません」
藍以子は、黙って首をかしげると、カップを置いて使い終わった食器を重ね始めた。まだコーヒーが残っているが、食事の後、ゆっくりと時間をかけて飲むのが好きなのかもしれない。
食器を持って立ち上がった藍以子は、シンクの方に向かおうとして、目を細めた。
眩しい日射しが低い角度から射し込んでいる。
今日も暑くなりそうだ、と利玖は思った。




