海に戻った哺乳類
客間に着くと、もう匠が中央に座り込んで本を開いていた。
「どこに行ってたの?」彼は顔を上げずに訊く。
「ええ、ちょっと……」利玖は、まだ奇妙な浮遊感が体を包んでいるのを感じながら畳を踏んで歩いた。「縁側で、お話をしたんです。杏平さんと……」
「え?」匠が顔を上げる。「離れから出てこないんじゃあ……」
「ええ。だから、縁側で」
ああ、なるほど、と言って、匠はずり落ちそうになった眼鏡を指で押さえた。
「何か言われたの? 僕らのやり方がまずいとか」
「いいえ」利玖は首を振り、ぺたんと畳の上に座り込んだ。エアコンが低い音を立てて、程良く冷えた風を噴き出している。首筋に当たると、気絶しそうなくらい気持ち良かった。「この作業の事については、何も。わたしの……、専攻について、興味を持たれたようで。二、三、質問されただけです」
彼から言われた事を、利玖自身、まだ呑み込めていない。たとえ断片だけでも、無理に話そうとしたら、何かが変質してしまう気がして、それ以上は明かさなかった。
ちょっとだけ黙った後、利玖は、
「儒艮が浮いていたんです」
と言った。
次の本を開こうとしていた匠が、再びこちらに目を向ける。
「死んでいたって事?」
「いえ、そうではないと思います。しばらく、ぷかぷかした後、自力で潜っていきましたから。でも……、弱っているように見えました。海獣をじっくり観察した経験なんてありませんから、あくまで、そんな気がしたというだけですが」
「その事なんだけどね」匠は、体を起こして腕を組んだ。「昨日、藍以子さんから聞いた話を考えてみたんだけど、ちょっと変だよ。儒艮は海水域にしか生息していないんだ」
利玖は首をかしげる。
「本当ですか? だって……、河にもいるでしょう? 外国ですけれど……」
「あれは、マナティーという。あえて漢字を当てるとしたら、海牛、になるのかな。今からする話と矛盾するけれど……」匠は右の人さし指を立てる。「僕ら、哺乳類は、元々海に棲んでいた種が陸に上がって、そこに適応した生きものだ。儒艮や、あと、有名な所だと鯨なんかも、一度は陸の生活に適応した生きものが、止むを得ず海に戻った種だとされている。だから、彼らの体には、陸生動物だった頃の名残があるし、エネルギー変換や繁殖の効率は、魚類のようにずっと水中で暮らしてきた種には及ばない」
利玖は、いつか水族館で見た、鯨の胸鰭の骨の形を思い出して頷いた。
「海牛も儒艮も、最初は海に戻ったのですか?」
「そう」匠は頷く。「正確には、彼らの祖となる生きものが……、だね。そこからいくつもの種に分かれて、大多数は海に残った。儒艮は、こちらのグループに入る。今だとちょうど、日本の沖縄辺りが生息域の北限だよ。地図で見ると、結構広いと感じるんじゃないかな。それに対して、海牛は、淡水と海水のどちらにも一応適応しているのに、ごく限られた地域でしか生息が確認されていない」
「もう、そこにしか、落ち着いて生きていける場所が残されていなかったのですね」利玖は天井を見上げて、眉をひそめた。「海から、陸に上がって、大きくて複雑な体を獲得した後で、また海に追いやられたけれど、そこでも他の種を圧倒する事が出来なくて、淡水域まで押し戻されて……。苦労ばかりしている種ですね」
「まったく異なる二つの環境を行き来して、莫大なコストを払い続けた結果が、現在の個体数の少なさに繋がっているとも考えられるね」匠はため息をつき、本に目を落とす。「ただ、肉は美味しいそうだよ。僕は食べた事ないけど……」
「あったら大変ですよ」利玖は目を剥く。「絶滅危惧種でしょう?」
その時、異常なもの音がした。
兄妹は、同時に息を止め、聴覚にすべての神経を集中する。
庭の方からだ。
藍以子の悲鳴だった。