道具の本懐と愛の詩
かなり久しぶりの投稿です。覗いてくださってありがとうございます。
彼女は不意に目を覚ました。
麗かな午後の日差しが降り注ぐ美しい庭園を一望できるガゼボで、湯気が立ち上る紅茶と焼き立てのスコーンが並ぶテーブルに着いて。
目の前には、金髪の見目麗しい青年。彼は彼女と目が合うと花開くように笑った。
「会いたかった、セレス」
そう言って立ち上がると、彼女の前で跪く。膝に置かれた彼女の手を握った。
「今度は間違えないよ。君を愛している」
恥ずかしげもなく、うっとりするような愛の言葉を囁く。
ずっとぼんやりしていた彼女――セレスティアは握られた手に視線を落とし、そして。
おもむろに振り払った。椅子を蹴倒す勢いで立ち上がる。
「嘘はお止め下さい。ジェローム様」
セレスティアは冷徹に青年の愛を切って捨てる。驚いて固まるジェロームを睥睨した。
「あなたが愛していらっしゃるのは、マシェリ様でしょう? かつて、そう仰ってわたくしとの婚約を破棄なさいましたわ。愛の女神に誓ったあの言葉、嘘だったと?」
「ち、違う。嘘じゃない。嘘ではないが、か、勘違いだったんだ」
「勘違いで軽々しくも神の名を持ち出したのですか。不敬な」
「いや、その……。はい……。ごめんなさい」
「謝罪はわたくしではなく女神様にするべきです」
「はい……。女神様ごめんなさい……」
「よろしい」
セレスティアは鷹揚に頷く。腕を組み、仁王立ちするその姿はうら若い令嬢であるのに、とてつもない迫力と貫禄がある。その前にジェロームは正座をして小さくなっていた。
「ところでジェローム様。わたくし、とうの昔に隣国へ嫁ぎ、さっき死んだはずなのですが。何故生き返っている上に若返っているのでしょう。
あなた、何をしました」
断定するセレスティアの言葉にジェロームはびくりと身を震わせ、さっと視線を逸らし青ざめる。昔から変わらない、隠し事がある時の仕草だった。
ジェロームと彼女は同じ歳だ。目の前の彼は十八歳ほどに見える。だが、セレスティアの記憶は三十二歳で終わっているのだ。
自分の顔は見えないのでわからないが、身体が若返っている気がするし、今いる場所は懐かしい祖国の王宮である。
何故、まだ王太子ジェロームの婚約者をしていた時そのものの光景が広がっているのか。夢を見ているのか、はたまた時が遡ったのか。何にしても原因は十中八九目の前の青年に間違いない。
「話して下さい。全部」
「……えっと。それはその、できないっていうか」
「そうですか。ではこれから国王陛下の元へ行き、婚約解消を願い出ます」
「やめて!!
……いや、今の僕たちの関係は円満なんだから解消はできないよ」
「そうでしょうか?」
ジェロームは一瞬焦りを見せたが、すぐに余裕を取り戻す。しかし、セレスティアには彼を揺さぶる切り札があった。
「皇帝の側室の件に立候補しますと言えば、即解消されると思いますよ」
「やめて! 本当にやめて!! 全部話すから!」
秘密にされているが、今彼女たちの国が抱える悩み事について持ち出すと、ジェロームは俄に動揺し、彼女の足に取りすがる。
あまりの姿にさしものセレスティアも動揺したが、面には出さなかった。
かつてジェロームから婚約破棄されたセレスティア。彼女はその後、隣国の皇帝の側室になった。そして、冷遇の末に死んだのだ。
◇◇◇
セレスティアとジェロームが暮らすヴェニスタ王国は愛の女神を崇める小さな国である。女神に捧げる詩歌や音楽、絵画などの芸術が盛んで、有名な芸術家を幾人も輩出している。
その分、産業に関してはそこまでいいところはない。資源も少なく、かと言って軍事力もない。そんな国が今まで平和だったのは女神の恩寵、というより、侵略しても旨味がないということに尽きる。
周りは戦争をしていても、忘れられるヴェニスタ王国。そんな国に久々に起こった珍事が王太子ジェロームの婚約破棄騒動だった。生まれた時からずっと婚約者だった公爵令嬢のセレスティアを捨て、真実の愛を育んだ別の令嬢との婚約を望んだのだ。
このことは「愛のためなら仕方ない」や「愛のためとはいえ、不誠実」など愛の女神を信奉する国ならではの議論を呼んで、暫く世間を騒がせた。
しかし、その陰でひっそりと元婚約者のセレスティアが皇帝の側室になるために国から送り出された事実は全く話題にならなかった。
「あれは、セレスの父上が裏で糸を引いていた、と君がいなくなってから知った」
「父のやりそうなことです」
二人は再びテーブルに着いて向き合っていた。打ち沈んだジェロームを見ながらセレスティアは当時のことを思い出す。
ヴェニスタ王国の隣には戦争の神を信奉するテュール帝国がある。かの帝国はかねてからの敵国と冷戦状態に陥り、同盟国に連携の強化という名の人質として、王族、もしくはその血を引く令嬢を側室として差し出すように要請を出したのだ。帝国と同盟関係にあるヴェニスタは王女がいないから、高位貴族の令嬢から選ぶ必要があった。その中で一番王族と血が近く、婚約者がいなかったのが、ジェロームの真実の愛の相手、マシェリであった。
彼女がジェロームを誘惑し始めたのは側室の件が帝国からもたらされてすぐだった。それを見て、セレスティアは「ああ、皇帝の側室になるのが嫌なんだな」と悟り、彼女を放置した。
マシェリはセレスティアと同じ公爵位で両親から溺愛されており、甘ったれた普通の令嬢だった。皇帝の側室なんて到底務まらない。
血統だけを理由に送り出し、彼女の軽率な行動のせいでヴェニスタが不利益を被る事態は避けたい。だったら少し血は遠いが、王太子の婚約者として厳しく教育された自分が行くべきだと、セレスティアは冷静に判断した。
そして、そもそもマシェリがそんなことをし始めたのは、宰相である父の差し金であるということにも気づいていた。
父は今回のような事態に備えて聡明で、国一番と誉れ高い美貌の母に似たセレスティアを厳しく育て上げた。正直、ジェロームとの婚約すら有象無象の男たちへの虫除けと、より高等な教育を施す理由付けでしかない。
どうしてジェロームを誘惑させて婚約をなくすなんて回りくどい手を使うのかは理解出来なかったが、父の意図を察したセレスティアは二人の邪魔はしなかった。
意外にも婚約破棄までは一年と時間がかかり、帝国へ側室を送る期限ギリギリになってしまったが、準備はすでに整えられていたので、問題なく彼女は帝国へと旅立った。
「僕は、後悔した……。本当に後悔したんだ。まさか、セレスがいなくなるなんて思ってもなくて……!
しかも、そのまま二度と会えないなんて……」
「……」
ジェロームは決して頭は悪くない。いい意味でも悪い意味でも普通だ。だから、内密にされていた側室の件は知らず、自分の行為がその決定打になるなんて予想もしていなかっただろう。
側室となったセレスティアには基本的に社交の機会はない。そうでなくとも彼女が嫁いですぐ、帝国と敵国の戦争が始まったので、人質の彼女はほとんど軟禁状態で、厳しい監視にさらされていた。当然、手紙は検閲を受けるし、元婚約者のジェロームと会うなんて以ての外だ。
「セレスのことを助けたくて、王太子は続けたけれど、僕は、何もできなかった……」
「仕方がありませんよ。あの状況では国王陛下だって何もできません」
落ち込むジェロームに慰めになるかわからない言葉をかけた。
帝国と敵国の戦争はかなり長引いた。最終的には皇帝本人が出陣し、帝国からの要請でそれぞれの国から軍が派遣され、やっと勝ったのだ。そんな時に人質を取り戻そうと動けば、帝国だけではなく同じく人質を出していた他国からも非難されただろう。
戦争が終わったならまた話が違ったのだが、その頃にはもう彼女は死んでいた。
「帝国は君の遺体すら返してくれなかった」
「一応、あちらの側室ですからね」
「完全に人質扱いで、皇帝の渡りもなかったと聞いたよ」
「それでも、建前は側室ですから」
「故郷の土に還すどころか、僕は君の墓所すら知らない」
「仕方ありません。覚悟の上です」
「君はそうだろう。でも、僕にそんな覚悟はこれっぽっちもなかった」
ジェロームは顔を上げる。真っ直ぐセレスティアを見つめる瞳には傷ついた光があった。
「君が味方がいない場所で十年以上も軟禁されるのも。皇帝が出陣して、貴族や妃たちが逃げ出したから代わりに仕事をしていたのに、離縁された妃に逆恨みされて殺されるのも。君の最期どころか、墓参りすらできないのも。全部。そんな扱いを受ける君を助けることもできずに見続ける覚悟なんてなかった」
悲痛な声で訴えるジェロームに、セレスティアはなんと答えたらいいかわからなかった。
戦争の終盤に皇帝が戦地へ向かうと、旗色が悪いと思った貴族たちは軒並み帝都を脱出した。そのまま他国へ亡命してしまった者もいる。妃たちも皇后を含め、全員それぞれの実家へ子供を連れて逃げてしまった。
城に残ったのは、覚悟を決めた忠臣たちと、人質の側室だけだった。極端な人手不足を見かねたセレスティアが先頭に立って、他の側室たちと雑事を手伝ったのは、ほんの一年間のことだ。
そのかいあって帝国の勝利の知らせが届き、皇帝本人も生きて帰還した。それを祝う祝勝会の前日に、逃げている間に離縁された妃のひとりに刺されて死んだのだ。
舞踏会へは側室全員が招待されていたし、みんな皇帝からドレスが贈られていた。特にセレスティアだけが特別扱いされていた訳ではない。
でも、深窓の姫君が多い側室の中で、父に鍛えられたセレスティアは男たちとも平気で渡り合い、目立っていた。悪目立ちしていたと言ってもいい。彼女が死んだのはそういったことに気が回らなかった、自分のせいである。だから、自分の死に後悔はない。
でも、それがどれほどの痛手をジェロームに与えるかなんて、セレスティアは考えもしなかった。
「君が死んで、僕は王太子の地位も何もかもを放り出して泣き暮していたんだ」
「何をやっているんですか」
「だって、だって、王太子なんて僕には向いてないし、あんなに大好きでいくらでも書けた詩も、これっぽっちも浮かばなくなって、生きている意味がわからなくて。
寝室でただぼんやりしていたら、ある日、不思議なことが起こった」
夢か現かはわからないが、ジェロームの前に愛の女神が現れたのだ。彼女は「子供の頃から毎月のように詩を捧げてくれていたのに、ぴったりやめてしまって、どうしたの? 具合悪い?」と心配してくれた。
まるで近所のお姉さんのように気安く、親身になってくれた女神にジェロームはすべてを打ち明けた。
自分が軽率に婚約破棄などしてしまったからセレスティアが帝国の人質になってしまったこと。
そこで彼女は不自由な生活を強いられ続けたこと。
困っている人々を手伝っただけなのに理不尽に殺されたこと。
「どうしてセレスだけがこんな愛のない苦しい人生を送らなければいけなかったんだと女神に尋ねた」
「……女神様は、なんと?」
「なんかめちゃくちゃ怒られた」
お前の尺度で勝手にセレスティアを不幸にするなととんでもない説教を受けたらしい。
「若くて一番いい時期を軟禁されて過ごしてって言ったら『若い時が人生で一番いい時とは限らないでしょ!』って怒られるし。夫には省みられず、子供もいなくて愛のない人生だったって言ったら、『男女の愛や親子愛だけが愛じゃないわ!』ってめちゃくちゃ愛について語られるし……」
「なるほど」
「最終的に、『周りの人間がどう思おうとセレスティア本人は自分の人生に満足していたんだから文句をつけるな!』って……」
「ほうほう」
「でも、やっぱり納得できなかったから、なんとかしてくれって言ったら、『過去に戻って、ちゃんと本人と話して見届けてこい』って……」
「あなたは何をやっているんですか」
やっと今こうなっている原因がわかると同時に我儘な子供のようなジェロームに呆れる。一方の女神には彼女の気持ちを代弁してくれたので感謝していた。
だから、ちゃんとジェロームと話すことにした。
「ジェローム様。あなたからしたら、わたくしの人生は悲惨に見えたでしょうが、そうでもないんですよ」
「でも、でも、あちらの国で酷い扱いを受けただろう?」
「そうですね。側室としての生活は、愉快なものではなかったです」
監視の目はあるし、皇帝の正統な妃たちから嫌がらせを受けたりした。
「でも、わたくし、新しいお友達ができたんですよ。他の側室のみなさんと、とっても仲良くなれました」
側室同士の交流はとくに制限されなかったから、セレスティアは積極的に関わりを持った。彼女たちはみな他国の王族である。
戦争が終わって全員自国に帰れば、個人的な関係も国同士のものに発展するかもしれない。それがいつかはヴェニスタの利益になる。
セレスティアの根底にあるのはいつも国の役に立つかどうかだ。父は彼女をそう育てた。
だから、皇帝の側室になった時点で、最低限の役目は果たせたと思ったし、他の側室たちといい関係を築けた時は成果が出せたと思って嬉しかった。
最終的に、城の雑事に関われたのは何よりの誉れだ。自分が父から教わったすべてを活用できる上に、戦争を終わらせる手伝いができる。
当時、帝国軍にはヴェニスタの軍も参戦していた。セレスティアの働き次第で彼らを国に帰せる。そう思うくらい彼女は城内でも認められていた。不謹慎なことだが、あの時彼女は一番自分の能力を存分に発揮し、生きていると実感していた。
だから。
「大丈夫ですよ。ジェローム様が心配するほど、わたくしは不幸ではなかったです。幸せでした」
あれほど充実した日々は早々ないだろう。清々しい気持ちで断言する。
一方のジェロームの表情は曇ったままだ。
「……わかった。君が自分の人生に満足していたのは認める」
「わかってくれましたか」
「認める。……でも、それなら、僕の気持ちは?」
ポロリと宝石のような青い瞳から一粒涙が溢れる。
「セレスと会えなくなって、初めて気づいたんだ。この気持ちはただの幼馴染に対するものじゃないって」
「マシェリ様を愛していると仰っていたじゃないですか」
「そうだね。あれが恋だと思っていたよ。でも、君が帝国に行って、僕が用済みになるとマシェリは会いに来なくなった。
でもそんなこと、しばらく気がつかなかったよ。セレスがいないことの方にずっと気を取られていて。気がついても、もう会いたいとは思わなかった」
ジェロームの中で意外と自分が大きな存在であったことに驚くと同時に、マシェリが本当に側室になりたくないがために王太子を利用したことに同情する。
宰相の父から徹底的に教育されたセレスティアや、才気煥発な第二王子と比べると、詩作を愛するジェロームは芸術家肌な面が目立ち、やや貴族に舐められている。それでも自国の王子にその態度は褒められたものではない。ジェローム以外の王族なら、なんらかの処罰を言い渡されてもおかしくはなかった。
「ねぇ、セレス。このまま結婚しよう。女神様は僕らにやり直すチャンスをくれたんだ。テュール帝国になんて行かないで。
君があちらで幸せだったことはわかったけれど、わざわざまた大変な場所に行かなくてもいいじゃないか。僕はもう、セレスに置いていかれたくない」
真摯に訴えられ、セレスティアは困ってしまった。確かにすべて知っている今ならジェロームはむざむざマシェリに誘惑されないし、父の策謀を挫くことも可能だろう。
しかし、そうなると皇帝の側室にマシェリがなってしまう。
「それはできません」
「どうして?」
「マシェリ様にわたくしの代わりが務まるとは思えないからです」
テュール帝国での彼女の立場は難しいものだった。特に行ってすぐの頃は毎日薄氷を踏むような気持ちを味わっていたものだ。
あちらの生活に馴染んで、他の側室と仲良くなっても油断できる時は一瞬たりともない。マシェリが耐えられるとは思えなかった。
そして、これから起こる戦争のこと。
あの時のセレスティアと同じ働きなどマシェリに望めるはずもない。帝国に行くのはセレスティアでなくてはいけなかった。
「ジェローム様。婚約を解消してください」
「いやだ」
「お願いします。わたくしをテュール帝国へ行かせてください」
「いやだ……! どうして君が死ぬ場所へ送らなくちゃいけないんだ!」
行かないで、と縋るジェロームをどう説得すべきか悩む。たとえ彼がどれほど泣いても、セレスティアの中に行かない選択肢はなかった。
国の役に立つように。父は彼女をそう育てた。もしもの時には一番に自分を切り捨てられる、人間ではなく道具として。
それをセレスティアは恨んでいない。自分が道具だからこそ、今情に流されず、国のために正しい選択ができるのだ。
「女神様に言われたでしょう? わたくしと話して、見届けろ、と。運命を変えろとは仰らなかった。そうですね」
「そうだけど、でも……」
「仮にわたくしと結婚して、それからどうするのですか? テュール帝国の戦争は避けられません。もし帝国が負けでもしたら、次は我が国です。まず、勝てません。なんとしてでも帝国には勝ってもらわねば。
わたくしひとりの力で戦争が止められるなんて自惚れるつもりはありません。でも、どうすれば戦争が終わるか、わたくしは知っています。確実に帝国を勝たせられる。
それともジェローム様。あなたは始まってしまった戦争を止める術をお持ちなのですか」
セレスティアは意地の悪い質問をした。ジェロームの顔がくしゃりと歪む。
きっと、前の人生でジェロームはずっとそうしようと足掻いていたのだろう。戦争さえ終われば人質も必要なくなる。セレスティアが祖国に帰るためには絶対必要なことだ。
でも、ヴェニスタのような小さな国の王太子では、どうにもできなかったに違いない。セレスティアはそれがわかっていて、自分を諦めてもらうために指摘した。傷ついた様子のジェロームに心が痛む。
セレスティアは道具として育てられたが、やはり人間である。ちゃんと感情はある。ジェロームが彼女を守ろうとしてくれるのは嬉しいし、傷つけば悲しい。ジェロームが言うように、帝国での生活は辛かった。
でも、心が挫けそうな日々を耐えられたのは、最後まで頑張れたのは、それは――。
花を見るたびに。
月を見るたびに。
例えば風に乗って懐かしい音楽が聞こえるたびに。
いつも浮かぶ面影が、セレスティアを支え続けたのだ。
生まれた時から婚約者で、二人はいつでも一緒にいた。隣にいるのが当たり前で、お互いがどれほど大きな存在か、離れてみるまでわからなかった。
この気持ちがなんなのかセレスティアにはわかっていたが、名前をつけることはしなかった。
だって、彼女は自分が一番活きる場所を見つけてしまったのだ。それはジェロームの隣じゃない。
ならば、未練を残さないために形のないままにしておいた方がいい。
セレスティアは名前のない気持ちを誰にも見られない心の奥にそっと仕舞い込んだ。
そうして、真っ直ぐジェロームを見つめた。彼の瞳は涙が滲んでいたが、不思議と静かだった。
「わたくしをテュール帝国へ行かせてください」
もう一度同じ言葉を繰り返す。ジェロームはポロポロと涙を零した。
「……わかっ、た」
苦しげに同意を絞り出す。セレスティアが言わせた言葉だった。昔からそうだ。彼女はいつもジェロームを立てるが、肝心なところは決して譲らない。いつも最後に折れるのはジェロームだった。
「女神様にも言われたから、最後まで君の人生を見届ける。でも、ひとつ約束してほしい」
ジェロームは立ち上がり、また彼女の前で跪いた。膝に置いた手に彼の両手が重なる。
「自分の命を大切にしてほしい」
それはとても単純で、一番難しい願いだった。
「もし、危険な状況に陥った時、すぐに諦めないでほしい。誰かと自分の命を天秤にかけた時、迷いなく自分のことを優先してほしい」
「それは……」
「約束して。してくれたら、君を止めない。大人しくしている」
いつになく強い眼差しで懇願され、セレスティアは初めて気圧された。それでも頷くことはしない。
「努力します」
「その返事は卑怯だと思う」
「守れない約束はしない主義なので。誠実でしょう?」
むくれるジェロームを見て、セレスティアは初めて笑った。今の彼女には未来の知識がある。だからといってうまくやれるかは、保証がない。未来は、ほんの些細なことで変わってしまう。彼女を殺した妃からは逃げられるかもしれないが、それさえなんとかしたら死なない、なんてことはない。
だから、約束はしないまま、ジェロームと別れる。
「さようなら、ジェローム様」
「さよなら、セレス。僕のセレスティア」
再会の言葉はなかった。守れない約束はしないのだ。
その日、セレスティアは国王に婚約の解消を願い出て、同時にテュール帝国皇帝の側室になると自ら立候補した。それはすぐに受理されて、セレスティアは前より余裕を持ってヴェニスタを旅立った。
◇◇◇
長く続いた戦争がテュール帝国勝利で終わったのは、ある年の冬の終わりのことだった。
春の訪れと共に皇帝が凱旋し、戦争という長い冬の終わりに国中が沸いた。浮かれる民衆を尻目に皇帝は休みなく、改革の刃を振るう。
彼が帝都を留守にしている間に逃げた者、不正を行った者を次々に処罰したのだ。反対に苦しい時にも逃げ出さず、後方から軍を支え続けた臣下には報奨を惜しまなかった。
ことに各国から人質として送られていた側室たちは丁重に扱われた。彼女たち、特にヴェニスタ王国から来たセレスティアの働きには目覚ましいものがあったのだ。
皇帝は彼女たちに褒美を与えることにした。改革によって離縁した妃たちの代わりに正式な妻として迎えるつもりもあったようだ。しかし、すべての側室たちが祖国への帰還を願い出て、皇帝はそれを許した。
ただ、同じく祖国へ帰ることを願ったセレスティアにだけは考え直すように命じた。元は小国の公爵令嬢でありながら、帝国の臣下たちと同等に渡り合う彼女を次の皇后にと望んでいたのだ。
だが、そう経たないうちに皇帝は彼女の帰国を認めることになる。
セレスティアを国へ帰すべき、という民衆の声が強くなったからだ。
戦争を終えたばかりで屋台骨が揺らいでいる現状に、些細なことで民衆の不満を買いたくなかった皇帝は彼女を手放すしかなかった。
何故民衆は動いたのか。
それは一冊の詩集が原因だ。
その詩集は、ヴェニスタ王国で出版されたものだが、いつの間にか帝国内でも出回るようになっていた。
恐らく恋人に向けたものである詩篇は、大切な人が隣にいない苦しみと悲しみを綴っており、長い戦争で誰かしら大切な人を喪った民衆の心に深く刺さった。
ある吟遊詩人が気に入って、詩集の幾つかの詩篇を唄にしたこともあり、広く民衆に知られ、気づけばすっかり人気を得ていたのだ。
作者の素性はヴェニスタ人ということ以外不明である。しかし、密やかにヴェニスタ王国の第一王子ではないかという噂が囁かれるようになった。
第一王子ジェロームはかつてセレスティアの婚約者であった。
ヴェニスタには彼女以外に皇帝の側室に相応しい女性がおらず、二人は泣く泣く婚約を解消したのだ。王太子だったジェロームはそれを境にその役目を弟に譲っている。
その後も王子として不安定な情勢の中、国を支えてきた彼だが、未だに独身である。女っ気は少しもなく、公務がない時はひたすら趣味の詩作に耽っているらしい。
ジェロームは、ずっと婚約者の帰りを待っているのではないか。
もはや直接手紙を送り合うこともできないから詩集という形で変わらぬ愛を伝えているのではないか。
ジェローム本人の詩集はないが、毎月欠かさず女神に捧げられる彼の詩と例の詩集は作風がよく似ている。
そんな話が出回ったことで、噂に拍車がかかり、セレスティアをジェロームの元へ帰すべきだと声を上げる者は続々と増えたのだ。
そうしてヴェニスタへ帰っていったセレスティアだが、テュール帝国にその後の彼女に関する記録はない。
ただ、例の詩集の作者の作品がその後も何冊か出版された。そこには、どれも愛しい人と過ごすかけがえのない日々の喜びが綴られていた。
へたれ男子としっかり者女子の組み合わせが狂おしいほど好きです。
最後まで読んでくださりありがとうございました。