人間として生きるか否か②
「うん、まだ体は人間界にいるからね」
あの部屋にリディの体があるということは、ここにいるリディは精神体もしくは霊体に近い存在なのだろう。
次に思ったのはルシアンがなぜ自分を追いかけて来たのかということだ。
理由は思い浮かばないが、状況的にリディを助けに来たように見える。
だがリディとルシアンは婚約を解消していた。
つまり他人同士なのだ。
リディを追ってきてしまったら、ルシアンにもバークレー家にも王家からの圧力がかかるはずだ。
国王も言っていたが、罪に問われ失脚。バークレー家が取り潰しになるかもしれない。
そんな危険を冒してまでリディを追ってくるのはなぜなのか?
ルシアンを見ながら考えを巡らせているリディを、オベロンもまた思案気な顔で見ていた。
「ふーん。……ちょっと行ってくるね」
オベロンは意味深な表情でそう言うと、リディの前から突如として消えてしまった。
そして次の瞬間、鏡の中にその姿があった。
どうやらルシアンの元へと行ったらしい。
オベロンはルシアンを不審者を見るような表情で迎えた。
「お前がルシアン・バークレーかな」
「……そうだ。貴殿は?」
「妖精王オベロン」
「貴方がオベロン? ……リディは生きているのですか?」
「そうだね。まだ人間としての彼女は生きている。心は妖精界に居るってとこかな」
「心は?」
一瞬戸惑った様子のルシアンであったが、すぐに理解できたようだ。
「逆に聞くが君は何をしに来たんだい」
「リディを返していただきたい」
「あの子を差し出したのは君たち人間だよ?」
「それについては弁解のしようもない。もし贄が必要なら俺がなる。でもリディは返して欲しい」
「勝手だな。……あの子は人間には過ぎたものだ。返すわけにはいかないな。早々に立ち去るといい」
ルシアンの手からリディの体が不思議な力で引き離された。
オベロンの仕業だろう。
そしてオベロンは人差し指で空を弾くと、その瞬間ルシアンが吹き飛ばされた。
地面に二度三度とぶつかり、回転した後に倒れた。
「帰りたまえ」
「断る! せめてリディに会わせてくれ!」
起き上がりながらリディの元に行こうとするルシアンを見たオベロンは、パチリと指を鳴らした。
するといくつもの薔薇の枝が床から生え、ルシアンの行く手を阻んだ。
「ほら、来れるなら来てみなよ。リディはここにいるよ」
「くそ!」
ルシアンは薔薇の枝を持っていた剣で切り結ぶが、切っても切ってもその枝が伸びる。
逆にさらに幾重にも重なるようにして枝が現れた。
「諦めてたまるものか!」
そう言いながら懸命に薔薇の枝を切り続けるルシアンだったが、それを嘲笑うように今度は枝がルシアンの持っていた剣を奪う。
「あ! くっ!」
ルシアンはそれでも手で薔薇の枝を引き千切り、リディの元に行こうと進む。
その手は傷付き、血が流れ始めていた。
ぽたぽたと青白い床に鮮血が散る。
その光景にリディは息を呑んだ。
(ルシアン様! 無茶だわ!)
「しつこい!」
オベロンが不愉快そうに眉を上げてそう叫べば、薔薇の枝がルシアンに巻き付き、その体を締め上げた。
「ルシアン様! 無理です!止めてください」
リディは思わず鏡にしがみついてそう叫んだが、二人には声が届いていないようだ。
さらにルシアンの体に薔薇の棘が食い込みおびただしい血が流れ始めた。
「うぅ!」
出血でルシアンの紺の服がさらに黒く変色している。
滑るように綺麗だったルシアンの頬にも傷ができていた。
リディは直視できないほどの傷の付き方だ。
「大人しく帰れ。そうすれば命までは取らない」
「嫌だ。帰るならばリディと一緒に帰る。お前などにリディは渡さない! ぐぁ!」
ルシアンの言葉の最後は苦悶の声となる。
オベロンがルシアンに電撃を放ったのだ。
肌に伝った血の色が、今度は黒くなる。
裂傷に加え火傷まで負っている。
「止めて……オベロン様……止めて。ルシアン様をこれ以上傷つけないで!!」
リディがそう言うと、ルシアンが反応を示した。
もしかして声が聞こえたのだろうか?
「リディ? いるのか? もし聞こえるなら一言だけ言わせて欲しい。リディ、君を愛してる!」
(嘘……どういうこと? ルシアン様が……私を?)
リディはルシアンの言葉を聞き間違えたかと思った。
もしくは夢を見ているのではないか。
ルシアンが、自分のことを好きになるはずがない。
動揺するリディに、再びルシアンの声が聞こえた。
「もっと早く、リディへの気持ちを伝えるべきだったんだ」
ルシアンはよろよろと起き上がると、リディに向かって必死に訴え始めた。
「今さらかもしれない。聞いてもらえないかもしれない。だけど言わせてくれ。……リディを愛してると」
今度こそ確かにルシアンは言った。
愛していると。
リディは息を止めるようにして、鏡の中のルシアンを見つめた。
「リディ、あんたは運命とは一つの選択肢だと言った。それを選ぶのは自分自身だと。だけど俺はその運命から、選択から逃げたんだ。あんたが俺の〝探し人〟だと気づいた時にちゃんと伝えていれば良かった。だけど、もしあんたにNOと言われたら、俺は契約に従ってあんたと会えなくなる。一生会えないのは嫌だと思った。俺は臆病だった。だから選択を先延ばしにした」
(私がルシアン様の探し人だった? どういうこと?)
そのままルシアンは言葉を続けた。
その表情には悲しみにも後悔にも似ている色が浮かんでいる。
「自分で気持ちを伝えずに契約という鎖で縛って、あんたを俺の元に留めようとしてしまった。あんたといる時間は心地よくて、楽しくて、ずっと傍に居たくて……。でもこんなふうにあんたを失うならばもっと早くに気持ちを伝えれば良かったんだ。たとえあんたに振られたとしても、もっと早くに手放して、あんたの答えを聞けば、もしかして運命は変わったかもしれない」
「だとしても、もうその選択の時は終わったんだよ。今更だ」
オベロンは冷たく言い放った。
「今更かもしれない。だけど……せめて彼女の口から答えが知りたい。その上で、もう一度オベロン、貴方に取引を申し込む。俺の命はやる。だからリディを返して欲しい」
ルシアンの言葉にリディは鏡に向かって叫んだ。
「そんなのは駄目です! ルシアン様が贄になるなんて、そんな……!」
「リディ……やっぱりいるんだな。君に会いたい」
「ふん」
もう一度オベロンが指を鳴らすと、再びルシアンの体に電流が走り、体が仰け反るようにして跳ねた。
リディはその光景を見て鏡を叩いた。
崩れるように倒れるルシアンの体を抱きしめたい。支えたい。
「ルシアン様!! ……オベロン様、出して! ここから出して!ルシアン様の傍に行かせて!!」
ふっと空気が動いてそちらを見れば、リディの隣にはいつの間にかオベロンが立っている。
その姿を認めると、リディはオベロンに縋るようにして訴えた。
「私も弱かったんです。契約だから好きになっちゃいけないとか、モブキャラだから好きになってもらえないはずだとか。言い訳ばかりして自分の気持ちに向き合わなかった」
そうだ、逃げていたのはリディも同じだ。
ルシアンとの生活が幸せで、ずっと一緒にいたくて、この時間を失うのが怖くて。
本心を告げることができなかった。
「お願いです。オベロン様、私もルシアン様に会いたい。会って話がしたい」
「君はもう未練がないと言っていたじゃないか」
「ごめんなさいオベロン様! 私、嘘をつきました。本当は未練あります! 未練たらたらです! せっかくオベロン様が私を気遣ってくれたのに……! でももう一度ルシアン様に会いたいんです!」
「なるほどね」
オベロンがパチリと指を鳴らした瞬間、不意にリディは体に重力を感じた。
先ほどまで鏡の中から見ていた視界が、今は何故か天上を見ている。
「!!」
リディは自分が人間の体に戻っていることを理解すると、そのまま飛び起き、真っすぐにルシアンの元へと向かった。
早くルシアンの元に行きたいのに、気持ちばかりが焦って足がもつれる。
「ルシアン様!」
「リディ……なのか?」
「どうしてこんな……。無茶をされて……死んだらどうするんですか?」
「死ぬつもりはないけど、リディを諦めるつもりもない。もし死んだとしたら……一緒にまた転生しようと思っただけだ」
「そんな無茶苦茶な」
泣き笑いするリディの頬にルシアンはそっと触れ、真剣な目で言った。
「リディ……愛してる」
そう言ってルシアンはリディを抱きしめた。
今まで何度となく感じて来たルシアンの体温を、リディは再び感じていた。
そしてリディもまた、ルシアンの背に手を回し、ぎゅっと抱きしめる。
ルシアンの柑橘系の香にリディは包まれる。
そのことに安堵を覚えつつ、リディも万感の思いを込めて答えを返した。
「ルシアン様……私も、愛してます」
リディの言葉を聞いたルシアンは何も言わずに再びリディを強く抱いた。
「嬉しい……よ」
「ルシアン様!?」
その掠れるように一言言った後、ルシアンの体から力が抜けその場で倒れてしまった。
「嘘……ルシアン様! 死なないで!! 嫌!! ルシアン様」
リディが必死にルシアンを揺さぶるが、一向に動かない。
顔色も先ほどよりも青白くなり、生気が無くなっていた。
悲痛な叫びをあげるリディの隣に、オベロンがそっと立つと苦笑交じりに話しかけてきた。
「大丈夫だよ。死んでない。とりあえず行こうか」
オベロンがルシアンを担ぎ上げた瞬間に、その姿は消えリディもまた気づけば妖精界へと戻っていたのだった。