では、ごきげんよう①
現在リディはルシアンと共にラングレン家へ馬車にて向かっていた。
ぱかぱかという馬の蹄の音が、街中の喧騒に混じって聞こえている。
いつも通りの賑やかな街は平穏そのものである。
だがリディの心は平穏とは程遠く、混乱という名の嵐が吹き荒れていた。
というのも、四人乗りの馬車なのに、何故かルシアンはリディの隣に座っている。
しかも手を握っている上、さらには指を絡めてリディが席を移動するのを阻んでいるのだ。
「えっと、ルシアン様? この馬車は四人乗りですよね?」
「そうだね」
「何故ルシアン様は私の隣に座ってらっしゃるんですか?」
普通に考えたら前の席に座るべきだろう。
それに昨日からルシアンの態度がどう考えてもおかしい。
自分を見つめてくる回数も増えたし、常に笑顔だ。
そして何より距離が近いのだ。
「まず君と俺は今、婚約者同士だ」
「そうですね」
「ということは、それなりに周囲に婚約者同士だと思わせる必要がある」
「確かにそうですね。不審に思われるのは困りますから」
「ならば仲の良い婚約者の方がいいだろう?」
「まぁ、仲がいいことに越したことはないですよね」
「だからこうしていれば仲の良い恋人に見えるだろう?」
なるほど納得だ。
若干ルシアンの距離感が近いしスキンシップが過ぎる気もするが、ルシアンの両親のラブラブ振りを見ると、ルシアンにとっては恋人との距離感はこんなものだと思っているのだろう。
「分かりました。でもですね……馬車の中で手を繋ぐ意味もないですし、手を放していただけるとありがたいのですが」
「嫌だと言ったら?」
「えっと……? 揶揄ってますね?」
ギリシア彫刻のように整った顔立ちのルシアンが近いだけでなく、このように手を絡めらるとリディだとてドキドキしてしまう。
だからどうも居心地が悪い。
それに人が見ていないところでこんなことをするなど、お互い恋愛感情のない者同士としては、どう考えてもおかしいだろう。
百歩譲って仲の良い恋人を演じるとしても、ここまでするのはどう考えても過剰である。
(あ……もしや、私の演技力が心もとないからこうして特訓してくれているのね!)
そうならば合点がいく。
「あの、私ガラスの仮面の主人公まではいきませんが、頑張って演じますね!だから今日の特訓はここまでで大丈夫ですよ!」
「は?」
鳩が豆鉄砲を食らったような表情をしたルシアンが、次に言葉を発しようと口を開いたときに、ヒヒンという馬の鳴き声がして馬車がゆっくりと止まった。
どうやらラングレン家に到着したらしい。
「もう到着してしまったか。じゃあ、リディ、降りようか」
「はい」
リディはこうしてルシアンと共に一日ぶりの我が家へと帰宅した。
ラングレン家に足を踏み入れば、ルシアンからの先触れが届いていたようで、義母ラミネとシャルロッテがエントランスで待っていた。
二人は着飾り、まるでこれから夜会へGOとばかりの派手さだった。
そんな二人はルシアンを見るともろ手を挙げるようにして出迎えてきた。
「あぁ! まぁ! お待ちしておりましたわ!」
「ルシアン様! お会いできて嬉しいですわ! わざわざ会いに来てくださるなんて」
シャルロッテは頬を赤く染めて上目遣いでルシアンを見た。
「さ、ルシアン様。本日は例のお話をされるのでしょ? お待ちしておりましたわ。シャルロッテも凄く喜んでおりましてね。朝からルシアン様に会えるのを楽しみにしておりましたのよ」
「お、お母様。そんな……恥ずかしいわ」
頬をピンクに染め、少し俯き加減にそう言う姿は流石はヒロインだ。
いじらしくも愛らしく見える。
それを微笑ましく見ていたラミネだったが、リディに目を留めると穢らわしいものを見るかのように顔を背け、眉を顰めながら言った。
「リディ、いたの? 今日はルシアン様から大事なお話があるの。さっさと部屋に戻ってなさい。辛気臭いお前がいたら、ルシアン様のお目汚しになるでしょ」
そう言った後、ラミネはルシアンに取り繕うような笑顔を向けた。
「まったく。申し訳ありません。出来損ないの娘をお見せしてしまいましたわ。シャルロッテに比べて本当に貧相で、汚い容姿でして。うちのラングレン家の恥なのですわ」
「お母様、いくら本当のことでもリディ義姉様の前で言うなんてお可哀想よ」
「まぁ、シャルロッテは優しい子ね。あぁ、でもシャルロッテも可哀想に……あんな義姉を持ちまして、社交界でも肩身の狭い思いをしてるのですわ。でもさすがはルシアン様。ちゃんとシャルロッテの優しいところを見てくださるのね」
ルシアンは答えず、じっと二人を見た。
そして左右に視線を向けて誰かを探すような素振りを見せた。
その表情には、ラミネとシャルロッテには興味がないというのが明らかに見て取れる。
「ラングレン伯爵は? どちらに?」
そう言うと、ラミネとシャルロッテの後ろにいたターナーが慌てて前に出た。
(存在感うっす!!)
我が父ながら本当に情けない。
元々ターナーはそんなに背が高くない。その上この存在感の薄さである。
ターナーの髪は森林伐採の進んだ森のごとく寂しいため、流れる汗が頭で堰き止められないようだ。
頭から流れ落ちる汗をハンカチで拭いながらなんとか言葉を発していた。
「ようこそ、いらっしゃいました。えー本日は、大変名誉な話をいただきまして……」
「まぁ、シャルロッテでしたら当然ですけど。それよりもルシアン様のお話を伺いましょう?」
「あ、あぁ、そうだな。まぁ立ち話もなんですから、どうぞこちらへ」
「では失礼する」
ルシアンがそう言って歩き出したのでリディもついていこうとすると、ラミネが声を荒げて蔑むように言った。
「リディ、いつまでそこに突っ立ってるの! さっさと部屋に行って、出てこないでちょうだい! ルシアン様はこれから大事なお話があるというのだからね」
「いや、リディには居てもらった方がいいだろう」
「えっ……ですが……」
「彼女にも関わる話だからな」
「……承知しましたわ。じゃあリディ、あなたは邪魔にならないように部屋の隅にでもいなさい」
身分の上のルシアンの意見を無碍にすることもできず、ラミネは不服そうにため息をついたが、リディを応接間に呼ぶことを承知した。
ラミネが先ほどリディに隅に立っていろと言ったように、応接間にはリディの座るソファのスペースも椅子もなかった。
「それで? 今日のご用件というのは、例の申し込みの件でしょうか?」
先ほどから大事な話や例の申し込みなどという話題が上っていたが、はて何なのだろうとリディは思いつつ話が始まるのを待った。
だがダーシーたちは何の話か分かっているようで、嬉々とした表情を浮かべてルシアンの言葉を待っているようだ。
「先日申し入れをしていた件です。改めて今日は、ご令嬢との婚約許可をいただきに参りました」
そこで納得がいった。
いきなり婚約というわけにはいかず、ルシアンは既にラングレン家に婚約の申し入れをしていたのだろう。
リディが怪我をしたから付いていくと言っていたルシアンだったが、婚約の挨拶も済ませることにしたのかもしれない。
だが、リディがルシアンと婚約するとはつゆとも思っていないラミネは歓喜の声を上げ、シャルロッテも満面の笑みを浮かべて、両頬に手をやっている。
「まぁ! シャルロッテ、良かったわね。ようやく正式に婚約できるわね」
「はい。そのお言葉を待っておりました。やっぱりルシアン様とお会いできていた数々……運命だったのですわね。嬉しいです」
「もちろんお受けしますわよね、あなた」
「ああ、もちろんですとも。シャルロッテを末永くよろしく頼みたい」
ダーシーは目尻を下げながらうんうんと頷き、シャルロッテの頭を撫でた。
「さすがは自慢の娘だよ。シャルロッテ、幸せにおなり」
「ルシアン様は流石お目が高いですわ。シャルロッテは私の自慢の娘ですの。美しくて優しくて、まるで人形のような容姿。華がありますでしょ? お美しく凛となさっているルシアン様とも似合いだと思いますわ」
浮き足立つ三人を傍観していたルシアンだったが、はぁと深くため息をついた。
そして、すくりと立ち上がると、リディの元にやってきて、隣に立ち並んで言った。
「勘違いしているようなので言うが、私が求婚しているのは、彼女、リディだ」
「え? ……ほほほ、ルシアン様はご冗談がお好きなのですね。真面目な方だと思っておりましたのでそのような面もお持ちで意外でしたわ」
「いや、冗談ではない。私は彼女と結婚したいと思っている」
最初はルシアンの言葉を笑って聞いていたラミネであったが、ルシアンの言葉が冗談ではないことを察して慌てふためいたように言った。
「そ、そんなの何かの間違いですよねえ!? シャルロッテの方がこんなにも可愛いですのよ? リディのような醜い女をルシアン様が選ばれるのなんてありえませんわ……?!」
「そうですわ! ルシアン様は私と何度も言葉を交わしてくださったじゃないですか! あの時、私を好きになってくれたのではないのですか?」
涙ながらに訴えるシャルロッテを一瞥した後、ルシアンはダーシーを半分問い詰めるかのような口調で説明を求めた。
「伯爵。以前話していた際にも、あなたのご令嬢であるリディと結婚したいと申し入れし、伯爵も了解してくれた」
「いや、ルシアン様がリディとシャルロッテを勘違いされていると思いまして。どう考えてもルシアン様が結婚なさるというならシャルロッテの方かと」
再び汗を拭いながら慌てたように話すダーシーの言葉に被せるようにラミネとシャルロッテが懸命に訴えた。
「ルシアン様。よく見てくださいませ。シャルロッテはこちらですのよ? 勘違いなさってるのでは……?」
「そうです! 私の方が綺麗ですし、今からでもお考え直してはいかがですか?」
「いや、私はリディしか望まない。伯爵はこの間リディとの婚約を承諾してくれたはずだ。それに、この婚約については既に国王陛下の耳にも入れている。リディはバークレー家の両親とも顔合わせを済ませている。この意味、分かるかな」
それはリディとの婚約は揺るがないという通告でもあった。
「いや……それは……」
「今回は礼儀に則ってラングレン家への挨拶をしに来たに過ぎない。そのところ、理解していると思っていたが」
その時、シャルロッテが立ち上がって泣き始めた。
いかにも悲劇のヒロインといった体で、かつ心からルシアンを案じているような声音でルシアンに訴える。