一章 忘却の誘い
まっすぐ砂利道を進む。
周囲は森で、まだ時々民家が顔をのぞかせる。
道路からの自動車の音も、まだかろうじて聞こえてくる。
自宅から車を何時間走らせただろうか。
のらりくらりと道を選び、ただ遠くへ行こうという欲求のもと歩を進ませた結果、この名も知らない土地の、よくわからない道を歩いている。
時刻は昼下がりくらいだろう。人工物が視界に入らないようにできる限り険しい道を選んできたつもりであったが、まだ歩き足りないようだ。
しばらくそのまま歩き続けていると、コンクリートでできた短い橋があった。
自動車も通れそうな、しっかりとした小さな橋だ。すぐ下には小さな沢が流れている。
右手を見ると木製の看板があり、かすれた字でカラフルに「コウモリ渓谷まで150m」と書いてあった。看板の矢印は私が今通ってきた方角を指している。
この渓谷とやらに少し興味を持ったが、しばらくまっすぐ歩いてきたて分かれ道もなかったため、その渓谷がどこにあるのか分からなかった。
もう一度引き換えしてよく見ながら歩けば見つけられるかもしれないが、面倒くさいのでやめた。
それよりも私の興味は石橋の下を流れる沢にあった。
沢は緩やかな斜面から流れてきており、山の奥深くへと続いている。
山の奥には人工物の気配はなく、ただ水流の流れによって露出した岩たちがちょうど道のように、しかし道と呼ぶにはあまりにも険しい形で沢に沿って続いていた。
傍から見れば正気の沙汰ではないかもしれないが、私はさまよう痴呆老人のように、樹海に向かう自殺志願者のように、石橋の端にある金属製の仕切りの合間を通ってその沢に下り、露出した岩をつたって森の奥へ歩き始めた。
時刻はまだ正午である。
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もはや人工物は視界に入らず、車の音も聞こえないほどの奥地まで来ていた。
30分ほど歩いただろうか。後ろを振り返ると視界から見きれるほど長く沢が下っているのが見える。
道のようになっているとは言っても、岩は不規則に並び険しく、時に沢を飛び越えたり、時に倒木をくぐったりと、そろそろ少しだけ息が上がり始めていた。
周囲とは似つかわないラフな格好とスニーカーの私は、この大自然から浮いた存在であるように感じられた。
時々立ち止まって周囲に注意を向けると、鳥たちの鳴き声や虫の音が、かすかに、しかし存在感を持って私を圧倒する。
たまに野生動物が立てているのか、ガサガサという音も聞こえる。
上を見ると木々の葉から溢れる陽の光が見える。
普段都会の喧騒にうんざりしていた私だが、おのれの周りに自然しかないというこの状況に、美しさとともに少しだけ恐怖を感じていた。
何度か振り返って引き返そうとしたが、しかし奥へ進む。
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一時間がたとうとしていた。
途中半分土に埋まった黄色いロープを見つけた。
何となしに軽く掘り起こし土を払うと、それは工事現場によく見る黄色と黒模様のロープであった。劣化はしておらず、なぜこの様なロープが山深くに落ちているのか疑問に思いながらもその場に捨てて進むこととした。
岩のぬめりで何度が滑りそうになりながらも、なんとかここまで登ってきた。
恐怖心も薄れ、自分が自然と一体になったような感覚さえ覚えてきた。
再びしばらく進むと、木々の間から赤いレンガの壁のような物が見えた。興味を持って近づいてみると、その全貌が見えてきた。
廃墟だ。大きな館の廃墟がそこにある。
屋根から突き出た柱の、ドーム状の屋根が特徴的な、薄い赤を基調としたそれなりに大きな建物だ。
レンガの囲いは所々が崩れており、壁にはツタが這っている。
しかし廃墟の周りでは木々が少しだけ避けており、その全貌を見ることができる。
ずいぶん古いもののように見えたが、しかしよく形を保っており、石造りの基盤が崩れる様な様子はなかった。
木々が邪魔で入り口を探そうにも回り込むことができなかったため、私は崩れたレンガ調の塀をまたぎ、草をかき分け、はるか昔に割れてなくなったであろう窓を跨いで中に入った。
中は石造りの廊下であった。
石以外の素材は見当たらず、ツタ以外何の装飾もないまっさらな廊下を、瓦礫を跨ぎながら進んだ。
何度か曲がりながら進むと天井が崩れて瓦礫となった部分に出くわした。
進んできた道に扉の開かない部屋はあったが、その他に道がなかったため、仕方なく瓦礫を避けながら通ることにした。
その先は窓がなく、かろうじて二階から入ってくる日光だけをたよりに進む。
しばらく再び歩いていると両面にドアのある長い廊下に出た。
廊下は日光で程よく照らされており、先にある廊下の終わりまで見ることができる。
ここまで来たのだ、と好奇心をたよりに、私はドアを順番に開けていくことにした。
金属製の丸みを帯びた取手に手をかける。
1つ目、2つ目と右側の手前から順番に手をかけていく。
開かない。
これまで手を掛けた2つの扉には鍵がかかっている。
そして3つ目の扉の取手に手をかけ、下側に回そうとすると、ハンドルは何の抵抗もなく下まで下りきった。
恐る恐る重い扉を開くと、そこは教会のような場所であった。
扉をゆっくりと締めて、あたりを見渡す。先程教会のような場所だと表現したが、その印象はステンドグラスの存在が大きかった。
天井近くの場所に、左右対称にカラフルなステンドグラスが貼られており、陽光が部屋の中に差し込んでいる。
中心には暗く赤いカーペットが敷いてあり、その先には教壇のようなものが置かれている。
しかし教会にあるような座席はなく、教会ほど広い空間でもなかった。
壁には深い色の木々で作られた骨董品がびっしりと並んでおり、それらは明らかに人の手入れがなされたものであった。
そもそも外で建物を見たとき窓は一つもなく、はるか昔に割れて砂になったであろうガラスの部分には、ただポッカリと穴が空いていただけだった。にも関わらずここには綺麗なステンドグラスが張られてある。
ここには人が出入りしているのかもしれない。しかしなぜこの様なところに?私が通ってきた沢の反対側に、道でもあるのだろうか。
その様な思考を巡らせ、あたりを見渡すもその場所には先程述べたような教壇と骨董品の他に何もなかった。鳥の鳴き声さえ聞こえない。シンと静まり返った教会のような空間に一人立ち尽くす。
。。。
やはり何もない。何も起こらない。
周囲を注意深く探るのをやめ、教壇の方向に歩みを進めようとしたそのとき、
「ごきげんよう」
という男の声が沈黙を破った。
私は動転し、即座に声のした背後の方向に振り返った。するとそこには、身長の高い、一言で言えば「老紳士」のような男がスラリと立っていた。
「いやはや、またですか」
紳士は続ける。
「最近多いのですよねぇ。先日も一人、あなたのような殿方がここにいらっしゃいました。」
その男は80代くらいの老人で、大きな目をギョロギョロとさせながら古びたスーツを着こなし、黒いハットをかぶっている。手には杖を持っており、口には白髪交じりのちょび髭を、といった、いかにもな英国紳士風の男であった。声は大きくなかったが、しかし老人らしさを感じないはっきりとした口調であった。
「しかしあなたはここに来るようなオ方々とはどこか違うようで?」
紳士は皮肉に聞こえるほどに丁寧な、違和感のある敬語で私に問いかける。私は会話についていけず、また他人の所有する建物に入り込んでしまったという申し訳ない気持ちと動揺で沈黙を続けていると、紳士は何かを察したようにこう言った。
「貴方様はどうもご不安ガッテいる様ですが、ワタクシ怪しいものではございませんよ。とはいえ、そう言って受け入れて下さる方はそういないのですが。」
何を話しているのかわからず、兎に角私は勝手に建物に入ってしまったことについて謝罪した。すると紳士は
「いえ、何も謝ることはございません。あなた様がこの場所に来ることについて、一つも間違いはないのです。間違いがあるとすればこのワタクシにございます。」
そう答えるので、
「今少し要領を得ないのですが、あなたはこの建物の所有者ではないのですか?ここはどういう場所なのでしょうか?」
と質問を返した。
「ここが何処かということはさほど重要な事ではございません。ワタクシは貴方様の案内人にございます。」
「この世界に未練を持たない者、永遠の停滞を望む者を酩酊の街へご案内するのがワタクシの務めで御座います。」
「私の案内人?」
「左様。そこは不安なく、過去はなく、そして進むこともない。ただ永遠の停滞を望むモノ達が、酩酊の底へと沈む永久の街にゴザいます。故に貴方様のような姿の曖昧になったオ方達はこの場所に誘われるのです。」
この男は廃墟に住む気狂いか、もしくは自分をおちょくるただの老人なのか。そう考えるのが妥当であろうが、私は男の纏う妙な雰囲気から、どこか冗談とも気狂いとも思えないような、妙な説得力を感じていた。
故にその男の呆け話に、少し付き合ってみることにした。
「はて、しかし貴方様はどうも様子が違うようにお見受けしますが、この世に未練がないのですか?」
「未練だとか案内だとか。あなたは私をあの世に導く死神なのでしょうか。」
「いえ、とんでも御座いません。死神とはあなたを問答無用で連れ去ってしまう輩のことを指しますが、ワタクシは貴方様をあくまで”案内”するモノ。かの街へ往くか否かは貴方様次第にございます。」
「しかしかの街に往くには全てを捨てなければなりません。過去も、何もかも全てです。ですからあちらへ言ってしまうともう戻れないのです。それがかの街のしきたりなのです。」
「ではその”かの街”とは一体どの様な場所なのでしょうか。」
「はい、そこは皆が酒に溺れ、全てを忘れ去り、永久の停滞を約束する古く美しい街に御座います。」
「なぜあなたは私の前に現れたのですか?」
すると男は黙った。そしてなにやら考えてから、こういった。
「この世に未練を持たぬモノ。そういったオ方々を御案内するのがワタクシの務めに御座います。」
自分自身に確認するようにそう呟く。
「いやはやしかし、貴方様はどうもそういった御都合でもなさそうだ。こちら側の手違いで御座いましょう。」
もしこの男の話を真に受けるのであれば、確かに私は何もこの世から消えたいと思った訳でも、停滞を望んだ訳でも無い。かの街とやらに興味がない訳では無いが、こちらに戻ってこれないのであれば見送りたいところだ。
「しかしワタクシが貴方様の案内人であることに変わりはございません。かの街へ往くかどうかは貴方様のお気持ち次第でございます。さて、いかがなされますかな?」
「折角のお誘い悪いのですが、私はこの世界に未練がない訳ではありません。それに全てを捨て去る勇気もありません。」
「左様でございますか。良いのです。ワタクシはあくまで貴方様の案内人。謝る必要などはこれっぽっちもございません。」
「それにしても貴方様は今不思議な状態の様です。今後何らかの手違いが起こるやもしれません。どうかお気をつけて。」
最後の記憶は、そう言って印象的なギョロ目をこちらに向け微笑む、老紳士の姿であった.
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目が覚めたとき、私は土の上で眠っていた。手には木に括った黄色と黒模様のロープを握り、先程の沢の近くで横になっていた。あたりは夕暮れ時であり、暗がりの中で凍えながら、私はなんとかその日のうちに帰路につくことができた。