Episode.96 最後の通路
百年以上前に自らが中心となって設計し作り上げた中央大遺跡最深部の通路を、ビヒトは独り、重い足取りで歩く。
彼を包むのは冷たくもどす黒い、痛々しく刺す様な圧を纏った空気である。
彼の歩みは、差し詰め嵐の中を今にも飛ばされそうになりながら必死で堪え、どうにか一歩を踏み出す、そんな場景に似ていた。
それほどまでに、凶悪な怨念の力がビヒトに容赦なく叩きつけられていた。
『私はネメシス。お前は何故解らない?』
聞き覚えのある言葉に、ビヒトの蟀谷が軋む。
正確には思念体と化した彼に体の部位は無いのだが、生身の身体に備わっていた感覚はそのまま記憶のイメージとして、感情と共に呼び起こされる。
ビヒトは額周りの強張りを目尻に通して口元へ移動させ、無理矢理に口角を吊り上げる表情を想起していた。
それは一つの違和感から来る希望の確信だった。
『私は……兄とは違う……! 元々ネガティブな性分だし、人類に対してあそこまで確信的な狂妄は抱いていない。』
言葉通り、元々弱っていたビヒトはここへ来て更に息も絶え絶えに、今にも気を失って倒れてしまいそうな、ボロボロの砂嵐の塊に成り果てていた。
嘗て万全のネメシスが撒き散らす怨念の中を涼しい顔で歩いていたリヒトの強靭さとは比べるべくもない。
だが、それが逆に彼に一つの希望を与えていた。
『だから本来、私の抵抗の意思など貴様の負の想念に当てられれば一瞬にして消し飛んでしまう筈なのだ。だが、私は耐えられている。どうやら相当、本来の力に比べれば目も当てられない程に弱体化している様だな。脳髄以外、全ての臓腑を失っては宜なる事か……。』
その瞬間、強烈な黒い突風がビヒトを包み込んだ。
彼は堪らず膝から崩れ落ち、その場に坐り込んだ。
『はぁ……はぁ……。』
『私はネメシス。お前にも直ぐに解るだろう。』
ネメシスの多重な帯域の混ざった声に、嘲りと侮蔑の色が滲む。
負の想念の塊であるネメシスは、汎ゆる悪意を他者にぶつける。
逆に言えば、醜悪な怨念を介してしか他者と接することが出来ないのがネメシスであり、壊物の本質なのだ。
『人類は愚かであり、それ故に滅ぶべき存在なのだ。今更何をしようと運命は、結末は変わらぬ。腹水は盆に返らず、歩んだ血塗られし過去は消えない。破滅へのトロッコは既に線路を外れ、谷底への自由落下の最中に在るのだ。何もかも、無駄な足搔きに過ぎぬ。特異点を覚醒させようが無駄だ!』
ビヒトはネメシスの言葉を意に介さず、這い蹲って尚も前へと進もうとする。
その姿は惨めで滑稽な物だろう。
『ふはは、無様だな。』
『何とでも言うが良い。無様を晒す事が無意味だとは限らないのだ。貴様には到底解るまいがな。』
『解らないとも。』
強烈な重みがビヒトの背中に圧し掛かる。
まるで蟻を踏み潰さんとする巨象の足の様だ。
『抑も、何故お前はそれ程弱ってまで此処までのこのこやって来たのだ? 〝命電砲〟の閃光になった餓鬼を救い出して何の意味がある? 心臓の眠っていた遺跡で大人しく銃後に隠れていればその様な醜態を晒す事も無かったろうに……。』
ビヒトは此処へ、ルカの残留思念を回収する為に降りて来た。
それは単なる贖罪ではなかった。
『その方が良いからだ。何度も言うが、私は兄とは違う。思念の力が弱いのだ。それ故、どの道私に残された時間は短い。ならば……。』
重圧の中、ビヒトは残された僅かな力を振り絞る様に立ち上がった。
『ならば私よりも先が長い、ルカに残って貰った方が人類にとって役に立つ。貴様を斃した後の人類の未来にとってな……!』
『黙れ‼』
立ち上がったのも束の間、再び重みがビヒトの両肩に圧し掛かった。
ビヒトは思わずよろめいて膝を突いたが、顔は下ろさず、唯前だけを見ていた。
『随分向きになるじゃないか、ネメシス。』
ビヒトは体勢を立て直し、不敵に笑う。
『貴様の方こそ、態々私に構う意味は無いだろう? 私が何をしようが、ルカを掬い上げようが、何の関係も無い筈だ。私程度の存在が貴様の脅威になる事などあり得ないのだからな。』
黒い靄がビヒトの体を覆い尽くす。
ビヒトは闇以外の何も視えなくなった。
だが、彼はただ前だけを向き、歩みを進め続ける。
『それとも……ひょっとするとあの四人の誰かなのかな? 貴様にとって、私程度に向きになってしまう程の焦燥を煽る、脅威となる者は……。』
『黙れと言っている‼』
認識は出来なかったが、ビヒトは拳大の礫が自らの胸、腹、腰を五箇所貫通した感覚を覚えた。
恐らく、思念体のイメージは穴だらけの無残な姿になっているだろう。
だが、それでもビヒトは歩みを止めない。
ただ一心不乱に、前へと足を出す。
ビヒトは知っていた。
感覚と知識が、目的地への接近を彼に確信させていた。
『残念だったな、ネメシス。この辺りだ……。』
ビヒトは闇の中、手を前に出した。
闇の礫に貫かれ、辛うじて筋が繋がった状態の、頼りない思念体の腕だった。
それは確かに、突き当りの壁に触れた。
彼はそれが彼の築き上げた遺跡の中で最も巨大な扉だと知っている。
『ここまで来れば……後やるべきことは僅かだ……! 先ずはネメシスから遺跡の制御を奪還し、掌握する。そして、何処かに沈んでいるであろう彼の思念を見つけ出し、掬い上げるのだ……。』
ビヒトの姿が壁に吸い込まれる様に消えた。
**
通路の途中で休んでいたミーナ達だが、フリヒトの体力も回復した様で、すっかり顔色も良くなっていた。
もう休息は充分、いつでも最後の戦いに臨める、といった趣である。
「お待たせしました。早く行きましょう。ビヒト様が心配だ……。」
フリヒトは自分の恢復が遅れ、足止めさせてしまった事を気に病んでいる様だ。
勿論、ビヒトの安否を気にしているのは彼だけではない。
「みんな、行こう‼」
ミーナが先頭に立ち、仲間達に出発を促した。
そして丁度その時、彼等の頭上からビヒトの声が響き渡った。
『皆、心配を掛けてしまった様だな。だが、安心して欲しい。私は今、ネメシスに奪取されていた遺跡の統制を奪い返すべく、本格的に中央遺跡のシステムに入り込んだ。』
「ビヒト、無事か‼」
シャチだけでなく、ミーナ達全員が安堵の表情を浮かべた。
『無事だが、安全が確保された訳ではないな。しかし、ネメシスは間も無く私と遺跡の主導権を争っている場合ではない事態に襲われる。そうだな、皆?』
ビヒトが言いたい事はミーナ達にもよく理解出来た。
ミーナ達が最後の敵、『ネメシスの脳髄』との戦闘に入れば、それは同時にビヒトの安全を守る事にも繋がるのだ。
当然、前提として戦いに勝つ事が人類の未来を守る事に繋がる、というのは論を俟たぬ事である。
「解ったよ、ビヒト! 待ってて、すぐに行くから‼」
ミーナ達にとって、するべき事は解り切っている。
四人は足早に通路を進み、最後の決戦の場へと向かう。
途中襲い来る闇は、全員が各々の武器を振るい振り払う。
そうして、程無くしてミーナ達は大きな扉の前へと辿り着いた。
フリヒトが迷うことなく扉に触れる。
『よくぞここまで全員無事に辿り着いた。フリヒトが触れた事で、扉のロックは解除される。さあ、みんな覚悟を決めろ! これから出て来るのが絶対に斃さなければならない最後の敵、人類に亡びを齎さんとする最大最強の壊物だ‼』
巨大な扉がゆっくりと左右に開いて行く。
その奥に潜む存在の嘗て無い圧力にミーナ達は冷や汗を掻いて身構える。
地下鉄の車輛程もある巨大な卵のようなシルエットが、見たことも無い程にどす黒い靄を纏い、ミーナ達の眼前に鎮座していた。
「ネメシスの……『脳髄』……‼」
人類の命運を賭けた最後の戦いが今、巨大な広間で始まろうとしていた。




