Episode.95 虚しき復讐
ダーク・リッチを斃し、『ネメシスの脳髄』の待つ最奥間を目前にした通路。
ミーナとシャチは蓄積した疲労によりその場に膝を突いた。
「はぁ……はぁ……。」
「くっ……流石に堪えたな……。」
ダーク・リッチが繰り出した『破滅の青白光』を受け、戦いを継続できたのは予め『帝国の妙薬』を服用していたミーナとシャチの二人であり、瀕死の状態で後から服用したエリとフリヒトは先んじて壁に凭れ掛かって坐り込み、休んでいた。
このままでは、とてもではないが『ネメシスの脳髄』との最終決戦には臨めないだろう。
『本来の〝妙薬〟の効力ならば数日は休み無しの疲れ知らずで動けたものを、やはり効能は大幅に劣化しとる様じゃの……。』
『しかし、あの攻撃を受けて命があるだけでも有難い代物でしょう。ここは、一旦休んで体力を回復すべきでしょうな。』
妖刀とビヒトも四人の状態を鑑み、休息が必要だと判断した様だ。
「でも、大丈夫なのかな……?」
ミーナは不安を表した。
「確かに今はもう殆ど肉は見えないけれど、それでもネメシスが遺跡と融合しているのは変わらない訳でしょ?」
「肉壁が迫ってくる心配なら、もう無いだろう。」
シャチが汗を拭いながら、草臥れ切った声で自らの見解を述べる。
「俺の探知では、最早背後から迫って来ていた肉壁は消滅している。後は『ネメシスの脳髄』さえ斃せば、問題無く引き返して外へ出られるだろう。」
『ダーク・リッチが心臓の代替となっていたという事は、奴は今再び心臓を失った状態となっている。かなり弱っているのは間違い無いだろう。その影響だろうな。』
ビヒトの推察通りならば、ミーナ達の目的、ネメシスの討伐は達成目前である。
ならば万全の態勢を整え、確実に始末する、というのは当然の準備だろう。
「ダーク・リッチは最期、人間に戻れたのかな……?」
ふとミーナは、漸く決着を付けられた因縁の敵について思いを馳せた。
「奴の死に様の事か……。正直俺にとっては、判っていた事とはいえ奴の顔が俺に似ていた事に覚えた嫌悪感が何物にも勝ってしまい、そこまでは考えていなかったな。」
シャチの表情には今尚拭えない自身のオリジナルへの怒りが滲んでいた。
「奴は俺達クローンの事を実験材料としか見ていなかった。自分を強化し、永遠の命の糧とする為の道具として見られていた。俺など、特別に優秀だった成功個体はまだ幸運だ。殆どの者は人造肉体の部品として装置に繋がれ培養液漬けにされ、人間として生きる自由すらも与えられなかった。そして、まるで果実を捥ぐ様に体の一部を奪われ、産まれて来る事しか許されぬまま殺されていった。当時は俺も何の疑問も湧かなかったが、今では反吐が出る。彼等は紛れも無く皆俺の兄弟姉妹だった! 俺は家族殺しに加担した! あの畜生の意の儘に……‼」
シャチは頭を抱えた。
「言ったよな? 俺は奴の研究施設を破壊して脱出したと……。そうだ! 俺はあの時、自分の兄弟姉妹を鏖にしたのだ‼ 人間という生き物は、人間扱いされていない人間を人間だと認識できなくなるものらしい。俺は獣だった……。」
「シャチ、本当にそうなのか?」
小さな掠れた声で疑問を呈したのは、幾分か体力を回復させて上体を起こしたエリだった。
彼女には一つ、気掛かりな事が有るらしい。
「シャチ、私もまたダーク・リッチに集落を襲われた。その当時、一度戦いを挑んだのだけど、その時も奴は自身のクローンとやらを大量に作っていたよ。そして、そいつらに襲われた。」
エリの言葉に、シャチは眉間に皺をくっきりと浮かばせる。
経験から、ダーク・リッチがクローンに施した所業を推察したのは嘗ての戦いで眷属となった壊物へ同じ行為に及んだ所を見た妖刀だった。
『ダーク・リッチには自分に服従する本能を植え付ける技術を持っていたの。それを応用して、クローンを意の儘に操ったのか……。』
「思うに、お前も自分の兄弟姉妹とやらに襲われたのではないか?」
エリの質問に、シャチは答えない。
俯いたまま、答えあぐねている様だ。
『シャチよ、どうやら誰かに対する人の憎しみというのは、相手への復讐が終わった時点で霧の様に消えてしまうものではないらしいの。』
妖刀は静かな声でシャチに言い聞かせる。
『お前さんにとって、ミーナの言葉が気に障ったのも無理は無いかも知れん。』
「……そうだな。今更、人間に戻る等都合が良いとしか思えん。」
「ごめん……。」
ミーナは安直な言葉だったと反省した。
一方で、シャチも自分の吐き出した言葉が感情的になり過ぎたと思い直したのか、ばつが悪そうに言葉を返す。
「謝る必要は無い。俺も少し冷静さを失っていた。もう終わった事にも拘らず、な……。」
『うむ、問題はそこじゃ。』
妖刀はシャチが己の意図を察した事を踏まえてか、より穏やかな口調で続ける。
『今、我々は夫々の仇であったダーク・リッチを斃してしまった。決着は付いてしまったのじゃ。ならばこの先、己の中の闇を整理する機会として、これ以上絶好の瞬間は訪れまい。ここで前を見て歩き出さねば、一生自分の妄念に囚われて生きる事になるじゃろう。』
シャチは顔を上げ、真剣な眼差しで妖刀を見詰めている。
『お前さんの生き方、思いをどうこうあるべしと決めることは誰にも出来ん。じゃが、儂は何も自ら不幸に呪われ続けて生きる事は無いと思う。嘗て一人の高名な思想家が遺した言葉じゃが、悲観主義は気分に因るものだが楽観主義は意志に因るものだという。』
『確か二十世紀の人物の言葉でしたかな。正鵠かと思います。実際、私もそういう意図を込めて私や兄の存在の核となっているものと壊物のそれを明確に区別し、夫々両者を正の思念、即ち具体的な内容を伴った思いの念と、負の想念、即ち心に生ずるままの想いの念と呼び分けているのです。』
ビヒトは通路の奥へと視線を向け、物思いに耽る。
そんな中、漸く今まで押し黙っていたフリヒトが会話に入って来た。
「だとすると、ネメシスはこのまま放置すると僕達が考えている以上に恐ろしい事を引き起こすかも知れません。」
まだ疲労を感じさせる吐息交じりの声だったが、彼も確実に回復してきている様だ。
「ネメシスは人類が人類に向けた、世界規模の怨念を核としています。それが、もし人間を絶滅させ、世界を滅ぼした後も尚尽きる事が無いとすれば……。」
「更なる時空を超え、また悍ましい殺戮を繰り返す。それを生きている限り永遠に繰り返すだろうな……。」
シャチが代弁した懸念に、誰も異を挟まない。
この場の六人は皆でその脅威を共有した。
「人類は、人間は敗けちゃいけないんだね。私、その理由が今やっと全部解ったよ。」
ミーナは妖刀を握り締め、一人立ち上がった。
彼女は真っ先に体力を完全回復していた。
「シャチには悪いけど、やっぱりダーク・リッチ、いやイッチも人間だったんだなって私はそう思った。私達の敵に間違いは無かったけどね。でも、それが私の中で全てを繋げた。だから負けない。必ず勝って、生きて帰る!」
彼女の言葉に鼓舞されたのか、シャチとエリも立ち上がった。
フリヒトは未だもう少し休む必要がありそうだが、それでも目に力が戻ってきていた。
『フリヒトももう間もなく調子を取り戻すだろう。その時、お前達は万全の状態でこの通路を進み、最後の扉を開けて奴の脳髄と対峙し、そして破壊してくれ。』
ビヒトはそう告げると、一人通路を歩き始めた。
「何処へ行くの?」
『私には私の目的があって此処まで来たと言っただろう。一足先に、用を済ませてくる。おそらく、最後の扉の前で済むだろうからな。』
彼はそう言い残すと、最後に四人全員に対して付け加えた。
『ありがとう。皆にはいくら感謝してもし切れない。兄と和解出来たのも、自分の務めを全う出来たのも、君達との出会いは私にとって何よりの僥倖だった。君達の行く末に幸多き事を願わずにはいられん。』
四人に背を向けたまま、決して振り返る事の無いその仕草にミーナは一抹の不安を覚えた。
その姿を、最後に此処の表層部で自分達を出迎え、そしてそのまま永遠に別れる事になったリヒトの面影と重ねずにはいられなかった。
そんな彼女等に脇目も振らず、ビヒトは通路を奥へと歩いて行き、闇の中へ消えて行った。




