Episode.89 左右何れか
床の前方に、上の層で肺胞を模した眼球が詰まっていた左右の入口に道が繋がった。
「シャチ。」
「ああ。」
ミーナの催促で、シャチは戦斧の柄で床を軽く叩いた。
お馴染みの、音響から空間を把握するシャチの優れた感覚の行使だ。
「これは……。」
「どうしたの?」
シャチの表情に警戒心が浮かび上がる。
「左右どちらも構造が殆ど変わらない。恐らく先にある大広間へと通じている。」
「つまり、どっちを選んで進んでも同じだという事ですか?」
「いや……。」
フリヒトの解釈に、シャチは首を振った。
「どちらも途中で肉壁が塞いである。それさえ抜ければ問題無いのだろうが……。」
「でも、もう臓腑は居ない筈じゃあ?」
ミーナが言う様に、彼女たちはここまでの道程で脳髄以外にダーク・リッチが残した『ネメシスの臓腑』は全て破壊している。
『一つ考えられることがあるとすれば、〝心臓〟だな。』
「え? でもそれはミーナとシャチが破壊したじゃない?」
エリがビヒトの見解に疑問を呈したのは当然である。
何故ならば他ならぬビヒトが管理していた『原子力遺跡』で最も重要な臓腑である『心臓』を破壊することに成功したというのはこの場の誰もが承知している事実である筈だ。
『勿論、そうだ。だが、埋め合わせの代替品が無い訳でもない。今、奴の中には奴そのものとダーク・リッチが混在している。二つの意思がセットとなり、一つの壊物を形成している。』
「ソドムとゴモラの様に……?」
真っ先に察したのはシャチだった。
「『双極の魔王』が互いの脳髄と心臓を代替・兼任しリスクを分散させていた様に、ダーク・リッチが心臓代わりになっているという事か……。」
『じゃが、それがシャチの感知した肉壁の正体だとすると、左右どちらも塞がっている、と言うのは解せんの。』
「どちらかはダーク・リッチ、どちらかは罠、という事かな?」
妖刀とミーナが分析と推測を補完し、現状を総括する。
「ダーク・リッチでない方、罠を選んだら……?」
「考えられるとしたら肉壁に閉じ込められ、身動きが取れずに弱っているところをダーク・リッチ本人にも襲われる。そういう悪い事が起きるのは確実でしょうね。」
珍しく慎重になっているエリと、彼女の懸念を具体的に言語化するフリヒト。
即ち、今ミーナ達は左右どちらに進めばダーク・リッチの待つ方へ行けるか正しく選ばなければならない。
通常、これは確率二分の一の当て推量である。
だが、此処に一つ判断のための材料がある。
「ダーク・リッチは心臓の代わりになっているんだよね?」
『恐らくはな。』
『ビヒト様の言う事が当たっているとすれば、そこに手掛かりがありそうじゃの。』
「ふむ、ならばもう一つ気付いたことがあるぞ。」
シャチはここまでの道程を振り返り始めた。
「まず、前提としてここまでの道程、俺達はネメシスの体内を進んでいる様なものだった。地下遺跡とネメシスは同化していたからな。途中で奴の臓腑と交戦になったのもそういう事だろう。」
戦斧の柄が床を擦り、彼の見解を図示していく。
「そしてその遭遇の順番、位置関係からこういう事が言える。まず、俺達は奴の体内を下半身から上半身に向かって昇ってきた。地下深くに潜ってきた体感とは逆にな。」
「でも、別にそれっておかしな事じゃないよね? ネメシスは横になって寝ているのかもしれないし。」
「そうだ。そしてもう一つ、重要なのは臓腑と連戦した際、一度遺跡を上下に移動したという事だ。」
シャチは床に描いた簡易的人体の絵に内臓を描き込んでいく。
「順番的に、膀胱、腎臓、脾臓と胆嚢、肝臓、そして肺臓というのは俺達が下半身から昇ってきた裏付けになっていると思う。だが、思い出せ。膀胱から腎臓に移動する時、俺達は一度遺跡を上の方へ移動したな。そして脾臓と胆嚢と戦った時、ミーナは段差を跳び下りた。」
「そういえばそうだね。」
「そして、腎臓と言う臓器は背中側に配置されているものだ。つまり……。」
戦斧の柄が新たに横向きの人体図を床に描く。
「ネメシスはこの様に俯せの状態で遺跡と同化しており、俺達はその体内を進んで来たという事になる。そして、今左右どちらの方へ進めば奴の『心臓』のある場所に辿り着くか、というのが俺達の問題になっている。」
エリとフリヒトは希望が見えた為か笑顔になった。
「じゃあ、簡単じゃない。俯せの身体をお尻から見た場合、左右の間隔は私達が自分の身体について考える場合と同じ。つまり、私達の身体の心臓がある方。」
「ええ、これはどう考えても左ですね。」
『まあ実際は左に傾いていて且つ左心室の方が鼓動が強いと言うだけだがな。しかし、これは大きな手掛かりだろう。』
エリ、フリヒト、そしてビヒトは進むべき道を左と確信している様だった。
だが、シャチは表情を崩さず首を振る。
ミーナにもその理由には心当たりがあった。
「ねえ、シャチ。心臓の代わりになっているのはダーク・リッチだよね?」
「そうだな。」
「つまり、左右どちらに心臓があるかはダーク・リッチの感覚に従っていると考えられるよね?」
「俺もそう思う。そしてそれは、エリ、フリヒト、そしてビヒト、お前達の選択が寧ろ逆であるという事を示唆している。」
ミーナは覚えていた。
そしてその記憶にシャチとダーク・リッチの関係についての考察が加われば、全く逆の結論が導き出される。
「俺はダーク・リッチのクローン。つまり体の構造を決める遺伝子が俺と奴では同じ。内臓の配置も等しい。そして俺は……!」
「右心臓‼」
それはミーナとシャチが初めて出会った時、軽く触れられた情報だった。
シャチの様に内臓が逆位になる事象には特定の遺伝子が因子となっている事が一部の動物で判っており、そしてクローンである以上その因子はシャチとダーク・リッチで共通している筈だ。
つまり、ダーク・リッチも又人間であった頃はシャチと同じく右心臓であった可能性が高い。
『まさかあの時のどうでも良い情報が役に立つ時が来るとはの……。人生、分からんもんじゃ……。』
感慨に耽る妖刀だったが、ミーナ達にその様な余裕は無い。
彼女達はこの結論を信じ、一目散に右の通路へと駆け込んでいった。
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闇の中、通路を塞ぐように張り巡らされた肉の中に巨大な髑髏が浮かび上がっている。
『ダーク・リッチよ。人間共がそちらに向かったぞ。お前の策も全て打ち破られ、奴等はお前の許まで辿り着くだろう。』
何処からともなく響き渡る様々な響きが入り混じった声に、ダーク・リッチの髑髏の貌は歪んだ笑みを浮かべる。
「まあ基より、臓腑は少しでも奴等を消耗させるのが目的。それも想定通り果たせたとは言い難いが、何はどうあれ此処で奴等を返り討ちにしてしまえば済む事。」
『しかし、何故態々正解を用意してやるような真似を? 何方にも罠を張り、捕らえて抵抗不能な所を一方的に殲滅してしまえば良いではないか。』
「ククク……。ここまで来ればどうせそのような事をしても一瞬にして覚悟を決めて破られるわ。」
ダーク・リッチは今や、ミーナ達の決意を侮ってはいなかった。
「ならば敢えて『正解と間違いの二択』を提示し、我の居る方を正解として誘い込んだ方が幾分か『心臓』の代役としてのリソースを節約出来る。その上で、貴様の力を得た我が力で一方的に叩き潰せば良い。今や我の力は『双極の魔王』をも完全に上回っておるからな。」
これまで様々な策を弄し刺客を送り込んできたダーク・リッチが最後に選んだのは真っ向勝負、いや力によるゴリ押しだった。
戦術を棄てた彼の許へ、四人分の足音が近付いて来る。
ミーナ達は愈々全員にとっての宿敵、ダーク・リッチとの最後の決着を付ける舞台へと到着し、互いの因縁を激突させる。




