Episode.68 明日を掴む手
アリスの器は夜の都を走らされている内に点いていた火を風と共に振り切っていた。
ダーク・リッチは自ら苟且の宿としたこの器がちょっとした衝撃で脆く崩れ去る極めて危ういバランスで形を保っていることを中から察知する。
「この体で戦闘は出来ん……。だが、生身を曝せるほどの生命力も残されていない……。徐々に回復はしているがな……。最後に来て難儀なものだ。尤も、追手の足音からしてこの速度なら追い付かれることはない。更に、地下遺跡に入ってしまえばいくらでもやりようはある。」
そして今、アリスの身体の記憶と取り込んだ『ネメシスの臓腑』の反応によってダーク・リッチは地下遺跡の入口も正確な探索ルートもすべて把握できている。
更には、障害となり得る地下遺跡内部の機械兵もミーナとシャチの探索によって破壊されてしまっている。
つまり、追い掛ける人間の手で彼を止めなければ確実に『ネメシスの脳髄』は最悪の形で目を覚ましてしまう。
アリスの手が光を放つ。
ダーク・リッチは彼女の権限を行使し、思いのまま地下遺跡の入口までの封鎖を破っていく。
「見えた‼ 地下遺跡の入口ッ‼」
最後の扉は既にシャチが蹴破っている。
しかし中へ入ろうとする彼の器を数本の短剣が横切り、肌を薄く裂いて壁に突き刺さった。
「ぬぅッッ⁉」
「それ以上先へ行かれては困る。私は『遺跡の中』が苦手でね。」
どうにか地下へ入られる前にエリが追い付いたようだ。
ダーク・リッチは彼女が武器となる短剣をまだ持っていたことに驚いていた。
「莫迦な……。我が取り憑いていたゴモラの骨を取りに行っている暇は無かった筈……!」
「ええ、そうね。でも私、一応あいつらに貰った武器以外にも短剣を少し持ち歩いているのよ。並の壊物は元々普通の武器で斃してきたのだしね。」
ダーク・リッチは考える。
エリの武器が普通の短剣であるという事は、今この器を捨てて生身となれば相手は成す術が無い。
だが、それは非常に大きなリスクを伴う。
彼が他者の肉体に入り込んでいる状態とは即ち、己の「負の想念」の回復力を大幅に向上している、人間や動物に譬えれば睡眠の状態に等しい。
彼は動物が眠りエネルギーの消費を極力抑えているのと同じ状態で辛うじて息を繋いでいるのだ。
もし器を棄て、エネルギーが最奥まで保たなければ彼の野望はその時点で潰え、更には長年に亘り維持してきた生命をも失ってしまう。
それは彼にとって絶対に避けなければならない事態だ。
だが、おそらく今のこのアリスの、荼毘に一日以上付されて辛うじて原形を保っている肉体ではエリと勝負にならない。
運命が彼に味方したかに思えた状況から一転し、彼は完全に手詰まりに陥っていた。
にも拘らず、ダーク・リッチに焦りは無かった。
まるで成功を確信しているかのように、彼は迷うことなく行動に出た。
アリスの器はぐらりと揺れ、糸の切れた人形の様にその場に倒れた。
「なっ⁉ まさか奴め‼」
エリはすぐにダーク・リッチがアリスの器を棄てて本体のみで最奥へ向かうつもりだと悟った。
そして彼女の考え通りに満身創痍の姿を曝した骸骨に対して、彼女は攻撃の術を持たない。
「保つと言うのか……? エネルギーが……!」
ダーク・リッチは息絶え絶えながらも罅割れた眼窩を歪ませ、不気味に笑う。
そしてそのままエリに背を向け、地下遺跡内部へと侵入しようとしていた。
だがその瞬間、今度はシャチの戦斧がダーク・リッチの眼前に振り下ろされた。
この武器はエリの短剣とは違い、負の想念体である彼にもダメージを通す。
「くっ……! この親不孝者が……‼」
「悪いが最早貴様を親と呼ぶつもりは無い。」
シャチはそう言うと再び戦斧を振り上げ、旋風を巻き起こしてアリスの器を包む。
アリスの器は粉々になって飛び散り、ダーク・リッチが逃げ込める死体はこの場から消滅した。
そして空かさず、ミーナの剣がダーク・リッチに振るわれる。
ダーク・リッチは辛うじてこれを回避したものの、どんどん余分なエネルギーを消費させられていて後が無いと言った様相を呈していた。
「はぁ……はぁ……。」
だが、息が荒いのはダーク・リッチだけではなかった。
追い掛けてきたミーナとシャチも、異様な程顔色が悪い。
寝起きすぐでここまで全力疾走してきた、という事を勘案しても、である。
ダーク・リッチは知っている。
彼が取り込んだ『ネメシスの臓腑』が、自らの『脳髄』の場所や封印する遺跡の構造と同じように教えてくれる。
『その二人は間も無く倒れ、そして二度と起き上がらない。』
ダーク・リッチはいやに耳に障る高音から血の底から呻く低音まで様々な響きを孕むその聲を聞いた。
そして元々『闇の不死賢者』を自称し、自らを人間から壊物と化すことに成功したほど高い知能持つ彼、嘗てのイッチにはそれ以上の情報が無くとも容易に理由を察することが出来る。
「ククク、折角苦労して『心臓』を破壊したというのに、それが仇となってしまうとはなあ……。」
「どういう……こと……?」
ミーナは立ち眩みを覚えたようにバランスを失い、その場に膝を突いた。
「ミーナ‼」
「おっと我が不肖の息子SH=Aよ、状況は貴様も全く同じだぞ?」
「なっ……⁉」
シャチもミーナの身を案じ彼女の名を呼んだ直後にダーク・リッチの予言通り膝を突いた。
「これは……まさか『心臓』との戦い……! あの時の……!」
「流石は我のクローンだ。理解が速くて助かる。そして同時に、それほどの知能ならば詰みを呑み込むのも直ぐだろう?」
ダーク・リッチの本体が地中へと沈んでいく。
彼はこのまま真っ直ぐ『脳髄』の許へと向かうつもりだ。
「ネメシスの血液はな、下等生物ども、貴様等にとって潜伏性の猛毒なのだ。貴様等は『心臓』との戦いで霧状になったそれをもろに浴びた。そして一度顕在化した症状の進行速度、死への近さは『破滅の青白光』、即ち中性子線の比ではない。」
地上に顔半分を出してミーナ達を嘲笑するダーク・リッチの眉間を短剣が通過した。
苦し紛れにエリが投擲したものだが、当然彼には通じない。
「知っているよな、エリ。我に物理攻撃は通らん。そして今貴様等に詰みを宣告しているこれも、我が同族を相手にする者なら当然知っていた筈の事だ。我等の中には体液に毒を持つタイプもいて、万が一にも触れぬよう細心の注意を払わねばならんという事……。これはどんな実験や危険物の取扱いでも同じだが、命取りとなるのはいつも慣れによって注意を怠りがちになる初歩的かつ些細なミスなのだ。」
勝利を確信して大笑いするダーク・リッチ。
だがその時、ミーナの足が彼の頭を踏み付けにした。
無論、脚は素通りする。
だがそこには彼女の執念があった。
「行かせない……!」
「フン、強がっても虫の息だ。そんな弱った体で振るわれる剣など、この体でも躱すのは容易い。それに後少し潜ってしまえば、最早誰も我には手が出せん。」
『くっ……! だがダーク・リッチとて虫の息は同じだ。最奥までエネルギーが保つとは限らん。いや、儂の目算では丁度あの大扉を越えた辺りで尽きる筈じゃ!』
妖刀が負け惜しみの様だがある程度の確信を持った推論を打ち上げた。
それは死に行くミーナとシャチをせめて安心させようとしたのかもしれないが、驚くべきことにダーク・リッチは今、彼の言葉を認識できていた。
「初めて聞いた……。これが思念体の発する意思伝達の信号、『念波』か……。」
『な、何じゃと⁉ ダーク・リッチ貴様、儂の声が……‼』
「聞こえるとも。これも『ネメシスの臓腑』から得た力かもな。そしてどうやら老い耄れの刀の者よ、貴様の推理は残念ながら外れる。我は『ネメシスの臓腑』より、『脳髄』の周辺状況を聞いている。そこには、お誂え向きに我の為の回復スポットが用意されているらしい。」
立て続けにダーク・リッチの言葉が妖刀を動揺させ、嘆きの言葉を誘う。
『ま、まさか……‼ そうか、リヒト様も仰っていた‼ あの扉の奥には強力な壊物がいるかもしれないと‼』
「ビンゴだ‼ そして、壊物にとっては通常、己以外は餌か敵‼ 複数の壊物が蠢いていればそこで殺し合いが起こることは必然避けられぬ‼ つまり‼ 我のエネルギーが尽きる寸前の所に、壊物の死体が横たわっているという訳だ‼」
高笑いを残してダーク・リッチは地中へと姿を消した。
ミーナが倒れたのは、もうどうにもならないと悟って張り詰めていた執念の糸が切れたからだろうか。
シャチはダーク・リッチが残した最後の絶望の言葉を聞く前に気を失って倒れていた。
『さあ、人間ども‼ 愚かで哀れな下等生物ども‼ そしてコソコソ隠れている目障りな自称魔王よ‼ 全てが我に平伏す時だ‼ 貴様等に神をくれてやる‼ 既に迎えた終わりを二度告げる怒れる神、ネメシスの絶望を‼』
姿の見えぬダーク・リッチの声がおどろおどろしく夜の『古の都』の空に響き渡っている。
全ての命運は尽きたのか。
ミーナとシャチの命も、人類の未来も、避けられ主のカウントダウンが迫るのをただ待つことしかできないのか。
否、未だ終わりではない。
禍福は糾える縄の如し、彼女が運んできたのは最悪の厄災許りではない。
希望はまだエリの手に握られていた。
※お知らせ。
今作品の更新は12/1のChapter.2最終話、Episode.71を以て一旦お休みします。
更新再開は2/2を予定しております。
何卒御容赦の程、宜しく御願い致します。