Episode.67 最大にして痛絶なる喪失
文明の発達はより多くの人間に、嘗てならば死に行く筈だった弱い人間に生きる可能性を与えた。
私が生まれていた時期が十・二十年ほども前だったならば理仁という諱を賜る事も無く赤子のままこの世を去っていただろう。
それほどまでに脆弱だった私は国家社会に生存を切望され、当時最新の医療技術を以てどうにか一人の「病弱な人間個体」として最大限の保護を受けて生き続けることが出来た。
それは偏に、当時の社会に於いて全ての人間に平等に担保されるべき権利であった、というのが建前上の話だ。
だが私の賜り物はそれに留まらず、病弱な私に果たせて弟の美仁に果たせぬ物事など何一つ無いであろうに、私は法の慣例に従い就くべき地位に就いた。
要するに、私が生きることを望まれたのは全てがこの伝統を継ぐためであったのかもしれない。
それは美しい建前と、グロテスクな本音の両面を持っていた。
私は人類社会が過去に辿ってきた文化によってこの世に生を受け、現在まで築き上げてきた文明によって生を許された。
私の存在そのものが、人類という種の尊さを何よりも証明していると言っても過言ではない。
ならばそれを脅かす物があれば、率先して撲滅すべきは私の使命。
人類という地球生物史上最も美しく尊い種には永遠の繁栄を謳歌する権利があり、その美しさ尊さそして文明の繁栄によって生かされた私にはそれを護持し続ける義務があるのだ。
志半ばで散ってしまう命だが、決して惜しくはない。
何故ならば私の命は百年以上も前、とうに捧げられた筈のものだからだ。
だからどうか、どうか君達は私のことは惜しまずにただこの願いを最後まで果たして欲しい。
最後まで、奴の脳髄を破壊し、人類種の文明を再興し、繁栄の芽を次代に引き継いで欲しい。
君達がこれを読んでいるという事は、私はもうこの世にはいないという事、それを惟いつつこの文を認めている。
出来るなら最期にもう一度話をしたかったが、君達の信頼を裏切ってしまった事に対する反省の弁を一つも述べずに先立つ身勝手をどうか許して欲しい。
追伸としてもう一つ。
奴の脳髄を破壊することは君達に託すが、背負い過ぎず不可能だと判断すれば逃げて貰って構わない。
君達が全ての責任を背負う必要は無く、それを果たし切れずとも希望が繋がるように手は打っておいた。
だから私の妄執に殉じることなどせず、自分の命を大事にして欲しい。
君達が、人間一人一人が生きている限り人類存続と再興の燈は決して消えないのだから。
私はそう信じている。
心から……。
――『リヒトの遺書』より抜粋。
***
その頃、クニヒトの寝室で少し前まで眠っていたエリは聞き覚えの無い男の声で起こされていた。
「エリさん。起きてください。」
「ん……誰……?」
元々、集落の見張りと防護を行っていた彼女はこういう時に直ぐ目が覚める体質となっていた。
彼女は片目を擦りながらその青年をぼんやりと見詰める。
「貴方は誰? こんな夜中に一体何事?」
「僕はルカ、リヒト様に側仕えし、知識を授けられてきた者です。エリさん、時間がありません。今すぐ僕とこの部屋から脱出してください。」
何やら差し迫った様子の青年に、エリは説明の間もない事情を察し飛び起きた。
「向こうの部屋に特製の短剣を置いてあるの。本当は枕元に置いておきたかったんだけど、リヒトさんがどうしてもって言うから……。」
「取りに行っては駄目です。既に着地点の安全は確保する仕掛けは作動させています。今すぐ僕の後に続いて窓から飛び降りてください。」
ルカはそう言うと窓の硝子を割って飛び降りた。
エリが割れた窓を見下ろすと、どうやら彼の言うように、着地点には弾力性のあるマットの様な物が布かれている。
「早く‼」
時分も憚らず大声を上げるルカの切羽詰まった様子に意を決した彼女はルカの許へと窓から飛び降りた。
次の瞬間、窓から『命電砲』の閃光が漏れた。
「……どういうことか、説明して貰えるんでしょうね?」
「はい。言い難い事ですが……。」
ルカが説明に言葉を濁したのは、それが必然的に危機を呼び込むへまをしたエリを咎めることになってしまうからだ。
そんな彼が次の言葉を紡ぐ前に、先程までエリが寝ていた寝室の窓から、梵、という破裂音が小さく響いた。
「今のは何?」
「おそらく、リヒト様の空になった器が爆散した音です。あの方々、思念体となってなおこの世に在り続けた方々の器は、宿主が不要になったと判断した時に内部から小さな爆発を起こして塵に還せるようになっているんです。そうしなければ、後処理が大変だから……。」
リヒト達が苟且の体としている器は力こそ弱いが何百年という長い耐用年数を想定し人体よりも遥かに頑丈な造りとなっている。
その為、常人と同じ様に葬っては死体が自然に還らないのである。
土葬すれば想定した年月よりもやや短いとはいえ百年以上はその姿を保ち続けるし、火葬するにしてもかなりの火力で長時間焼き続けなければ灰にならない。
その為、余計な手間を省くためにビヒトがこのような設計にしたのだ。
従って、ダーク・リッチは今回、リヒトの器に逃げ込むことは出来ない。
それが出来ないように粉微塵にするところまでリヒトは計算していた。
ダーク・リッチは人類を、その種を何が何でも存続させようというリヒトの妄念を甘く見ていた。
だがリヒトもまた、ダーク・リッチの生への執着と悪運の強さを甘く見ていた。
無論、全て万全に手を打っていた筈だった。
そちらを利用される可能性も考慮し、前もって火葬を命じ、手筈通りそれは今現在荼毘に付されている。
現在進行形で、である。
何故ならばそれは本来の宿主が居なくなった後に用途が生じてしまった為、爆砕処理が行われなかったからだ。
「あ……ああっ……‼」
ルカはそれを見て絶望した。
何が起きたのか、居る筈の無い彼女の姿を見れば一目瞭然だからだ。
不幸な事に、彼女の器は一日以上焼かれ続けてなお奇跡的な程原形を留めてしまっていた。
「あの女の人……黒焦げだわ‼」
「違う‼ あの女は……アリスさんはもう……‼」
葬りの残り火を身体に宿し、焼け焦げて辛うじて女性の容貌を保ったアリスの器はそのまま走り出した。
「エリさん、追い掛けて‼ 奴を行かせては駄目だ‼」
「え⁉ 何⁉ どういうこと⁉」
「あいつはダーク・リッチだ‼ 今あいつは地下遺跡に向かっている‼ 『ネメシスの脳髄』を取り込むつもりだ‼」
嘗てのアリスの器はダーク・リッチに乗っ取られた。
そして最悪な事実がもう一つある。
通常、『古の都』の地下遺跡は固く鎖され限られた人間の許可が無ければ中へ入ることは出来ない。
ダーク・リッチは今、満身創痍である。
ソドムとリヒトの攻撃により辛うじて生にしがみ付いている極めて脆く危うい状態にある。
それ故、彼は今はまだアリスの器から出る危険を冒さない。
生身では彼女の走りはおろか、這って動くにも及ばぬ速度しか出せない。
少し回復すれば話は違うが、それでも戦うには程遠い。
だが、抑もとしてアリスは地下遺跡に入ることが許された人物である。
ミーナとシャチが旅立つ前、二人に地下遺跡内部の探索を許可したのは他ならぬ彼女だった。
最後の扉こそシャチが強引に蹴り破ったが、そこへ辿り着くまでの間に幾重もの封鎖が施されており、それらをすべて解除した上で彼女は入口まで案内した。
その彼女の器は今、ダーク・リッチの手中にある。
エリは取り敢えずアリスに入ったダーク・リッチを追い掛けるが、寝起きで速く走ることが出来ない。
右脚義足のルカに追い掛けろと言うのも無理な話だ。
「フハハハハ‼ 全く幸運だった‼ さっきは必死で近くに入り込める命無き器を探したが、荼毘に付されているこの女の身体を見つけられたのは我ながら信じられぬ程に冴えていた! 正に九死一生‼ そして解る‼ この女には『古の都』の鎖された扉を開ける権限がある事! 『ネメシスの脳髄』が眠る正確な位置も! 運命は完全に我に味方している‼ 我を有頂天へと推し上げようとしている‼」
高笑いするダーク・リッチ。
人類にとってもうどうにもならない、諦めるしかない状況である。
だがしかし、ルカはそれを拒んで駆け出した。
こんな時にそれでも奇跡を起こし得る人材の許へ、エリとは逆方向に義足で出せる最大速度で走った。
「起きろ……! ミーナ、シャチ……‼」
必死な願いが届いたのか、彼の眼に二人分、大きな影と小さな影がそれぞれ映り込んだ。
現在の人類で最強の二人、白い肌と銀髪が月夜に映える少女ミーナと、最も体格に恵まれた金髪褐色肌の偉丈夫シャチだ。
二人はルカから何も聞かずとも、まるで事の重大性を最初から完全に把握していたかのように彼の後方へと走り去っていった。
ダーク・リッチとエリを追い掛け、ミーナとシャチもまた地下遺跡の入口へと急ぐ。
「みんな……。どうか死なないでくれ……! 人類を守り抜いてくれ……‼」
地下遺跡に眠る、人類の存亡を担う最後の鍵、『ネメシスの脳髄』を巡る攻防は急転直下で最終局面に入った。
※お知らせ。
今作品の更新は12/1のChapter.2最終話、Episode.71を以て一旦お休みします。
更新再開は2/2を予定しております。
何卒御容赦の程、宜しく御願い致します。