Episode.59 人類最後の英雄
ソドムは広間に顕れた彼をこう評した。
『人類最後の英雄とは、随分とまあ買い被られたものだね……。』
リヒトは冷淡な眼をソドムの生んだ黒狼の壊物に向けて言葉を返した。
対してソドムは変わらず三匹の内一匹の喉元に裂けた口から声を発する。
『買い被りなどではない。確かに貴様にはゴモラを斃した二個体、ミーナとシャチほどの戦闘力は無い。寧ろ体力面ではかなり弱いと言えるだろう。だが、ネメシスが現在の有様で封印されているその功績は間違いなく貴様の狙った通り。ならばその危険度は人間どもの中でも群を抜いている。その統率力、いや扇動力は正に人類最後の英雄と呼ぶに相応しきもの。』
『人類最後の英雄と呼ばれるに相応しい者など存在しない。』
リヒトはソドムの言葉を遮るようにはっきりと否定した。
『ソドム、君は私だけでなく人類のこともまた買い被っているのだよ。人類は確かに素晴らしい種だが、それでも危機に見舞われれば必ずや安易に英雄の存在を希求するだろう。そういう意味で、人類が最後に必要とした英雄などというものは存在し得ない。何万年、何億年経とうが、人類とは常にそういう未熟さから脱却出来はしないだろう。』
ソドムの狼達はリヒトの答えに三匹一斉に笑い始めた。
『ふはははは、とんだ世迷い事だなリヒトよ‼ 人類という種の終焉を一顧だにしていない‼ 一度文明が滅び、我等の眷属によって追い込まれた現状で尚、よくそんな事が言えるものだ‼』
嘲笑なのか、それとも敵ながら天晴と称えているのか、何方とも取れる大笑いにリヒトも不敵な笑みを返す。
ビヒトはそれを見て強い嫌悪感のようなものを覗かせて眉を顰めていた。
彼は兄の回答を完全に予想しているようだ。
『これを言うのはもう四度目になるかな、ビヒト?』
『やはりそれが貴方の答えか、兄さん……! 二度は〝奴〟を前にして、そして私にこの遺跡を築かせ、思念体として再興を見届けると宣言した時に一度……! 正直私は二度と聴きたくない言葉だった……‼』
『君の言う事は良く解らないな。何故そこまで忌避する?』
リヒトは溜息を吐き、そして力強い光を纏った眼でソドムの狼の方を見て断言する。
その言葉は嘗て、ネメシスによって全ての希望を失った人類に最後の抵抗を決意させた珠玉の金言だった。
即ち僅かに残った人類に勇気を与え奮い立たせ、生き残りへと導いた言葉と言える。
***
ネメシスによって齎された危機を脱するにはネメシスを斃すしかなかった。
だが、余りにも急激に大人口が死滅した為、各国の軍隊も真面に運用できなかった。
更にはネメシスにはダーク・リッチの様な物理攻撃無効化の能力を持っており、生き残った国家指導者による捨て鉢の核攻撃すら通用しなかった。
ネメシスに滅ぼされかけた人類が打開策を見付けられたのは当時世界が離れた場所でもネットワークで密接に繋がっていた事と、それを維持するインフラが無人の事態でも長期間稼働できたことが大きい。
だが、それほどの文明が発達した時代に於いて対ネメシス用決戦兵器『命電砲』は人道上使用を禁じざるを得ないものだった。
何せ一人の人間の命を完全に消費しつつ正の思念を攻撃エネルギーとしてぶつけるのである。
個人の権利が尊重され、共同体による行動制限も世界的に緩和されていった時代に、そんなことが許容される筈が無かった。
尚も前時代的な統治体制を維持していた国は既にネメシスによって亡ぼされていた。
つまり人類という共同体の為に個人に犠牲を強いることが出来る組織は地球上に存在しない状態となっていた。
どうやらそういった特性の組織はネメシス自身の憎悪の対象となっていたらしく、優先的に構成員の死を被らされていた。
残された可能性は、個人による自己犠牲のみである。
だが、それは所詮個々人バラバラの抵抗でしかなく、ネメシスに有効打を与えることは出来ないであろう。
そのような状況で立ち上がったのは、世の趨勢によってとうの昔に張子の虎となっていた巨大な権威の座に就いていた一人の男である。
彼は世界に残された人類に己が姿を配信しつつ、自らの国に上陸したネメシスの前へと悠々と歩を進めた。
奇妙な事に、ネメシスの負の想念に曝されたものが必ず発症する「人類種である事への耐え難い罪悪感情」や「人類社会への寄る辺無き憎悪感情」といった破滅願望は、その男に微塵も芽生える様子が無かった。
涼しい顔で接近する高貴なる血筋の当主たる男の様子にネメシスは驚いたように筋剥き出しの顔でその両眼を見開いた。
「私はネメシス……。お前は何故解らない……?」
ネメシスはおどろおどろしい声で足下のちっぽけな男に問い掛けた。
男はネメシスの言葉にまるで心当たりが無いとでも言いた気に首を傾げる。
「私が何を解らなければならないのかな?」
「人間の罪! 醜さ‼ 愚かさ‼ この種が生み出してきたあらゆる業、苦しみ! そして死と滅び‼ 私はネメシス‼ 私の周囲に入った者には数百万年の汎ゆる歴史の中で生み出された最も醜悪で残虐極まりない行いが思考に叩き込まれる筈だ! それが何故、何故解らない‼」
どす黒い邪念が男を取り囲み、無数の鉄柱の様な形で機関銃の様に撃ち込まれる。
それは物理的な攻撃ではなく負の想念による精神攻撃である。
何十億人も葬ってきた怨念の全てが一斉に男へ襲い掛かったのだ。
だが男は全てを受け止めるような微笑を浮かべつつ何も変わった様子も無くそのまま立っている。
ネメシスは困惑を隠せない。
「私はネメシス! 何故解らない‼」
「それはね、君には一欠片の正当性も無いからだよ。全く莫迦げたことをしているからだよ! 人類を絶やそうなどと、決して許されることではないからだよ‼」
筋剥き出しの顔を歪めるネメシスを見上げ、男は言い放つ。
「人間は地球生物史上最も美しい生き物だ。この種には永遠の繁栄を謳歌する権利がある。」
物怖じせずに真直ぐ自身の眼を視る男にネメシスは一瞬たじろいだように見えた。
だがすぐに持ち直すと、今度は男の周囲に闇黒の靄を並べ、何かを模っていく。
「私はネメシス。今からお前に自分の間違いを見せ付けてやろう……。」
靄は少しずつ無数の動植物の形に変化していく。
男は少しも揺るがず、その一つ一つに目配せし小さく笑った。
「私はネメシス。お前の周囲には私がこの時空で取り込んできた遺伝子を基に再現した生き物たちだ。人間の罪に対して無知なお前に判るかな?」
「ふむ……。」
男は靄が模った動物の一つ、牛のようなものに手を触れた。
「オーロックス。嘗てユーラシア大陸やアフリカ大陸に主に三種類の亜種が広く分布していたが、人間の手による乱獲や家畜化によって減少していき、十七世紀に最後の一頭が死亡、絶滅した。」
続いて男が手に触れたのは二種の鳥だった。
「ドードー。モーリシャス島の固有種で、人類に発見されたのは大航海時代。それまでは天敵らしい天敵もいなかった為か捕獲が容易で、インド洋に浮かぶ孤島の固有種という物珍しさから見世物として乱獲される。こちらも十七世紀に発見された一匹を最後に絶滅。隣の鳥はオオウミガラスかな? 本来のペンギンと呼ばれていた鳥で、南極ペンギンは元々この動物に似ていたことから名づけられたと言われている。こちらも羽毛や油、そして剥製を目当てに乱獲され、十九世紀に絶滅。」
更に男は二頭の狼に手を触れた。
「こちらはエゾオオカミだね。これまでの三種と異なるのは入植者による乱獲が駆除を目的とした狩猟だった事。つまり、半ばそうなるよう狙われて絶滅したと見られている。十九世紀末のことだ。他の生き物も全て人間の手によって絶滅したとされる生き物だね。もっと説明しようか?」
男が説明をしている内に靄ははっきりとした動植物の形を成した。
つまり今、彼は人類が絶滅に追いやった無数の生き物を目の前にしていることになる。
「私はネメシス……! お前は何故解らない⁉」
「君の意図は解っているよ。そして、今この場この状況でもう一度はっきりと言ってあげよう。」
焦り、苛立つネメシスに対し、先程よりも大きな声で男は再び言い放った。
「人間とは地球生物史上最も尊く美しい生き物だ! この種には永遠の繁栄を謳歌する権利がある‼」
男の周囲の動物たちが一斉に彼へ飛び掛かった。
しかし所詮は靄から造られた紛い物であり、彼の身体を擦り抜けて傷一つ負わせられない。
ネメシスは自分よりも遥かにちっぽけな一人の男に気圧されて後退る。
「私はネメシス……! その美しい生き物が同族に何をしてきたと思っている……?」
「別に同族同士で傷つけ合うなど人間に限った習性じゃない。群れの中に強固で無慈悲な階級を作ることも、己の利益の為に仲間を見棄てたり裏切ったりすることも……。君の思い込みとは逆に、全ての人間の悪性は平たく言えば獣性に由来すると言える。」
男を取り囲んでいた動物たちは次第に黒い靄へと戻っていく。
「更に言えば他の動物によって淘汰され絶滅の憂き目に遭った種など人間が生まれる前から自然界にはいくらでも存在した。そんなものを一々省みる生き物は人間だけだ。逆に人間だけが他種の絶滅危機を問題視し、保護し再生すら試みるのだ。他の生き物は生態系を鑑みて自らを律したりなどしない。天敵がいなければ我が物顔で環境を蹂躙し、繁殖する生物は数多い。」
黒い靄はネメシスの周囲へと戻って行った。
「私はネメシス……。ここまで愚かな人間が存在するとは……!」
「愚か? では君がした事は一体何なんだ?」
男はネメシスに食って掛かった。
「他種、それも一つの種を目の敵にして自ら死を選ばせ、互いに争わせる……。それは私達人間がしてきたことと同じかそれ以上の残虐行為ではないか? しかも人間を自死に追い込む罪悪感そのものが人間の自省心を何よりも示している。人間を争わせる問題意識そのものが人間の自浄性を何よりも示している。」
「私はネメシス! お前は何故解らない‼ 私はネメシス! 解らないならば‼」
「もういい。」
男は掌をネメシスに突き出したが、ネメシスは業を煮やして物理的に彼を排除しようと足を振り上げていた。
このまま人間が虫螻蛄に対してするのと同様に取るに足らないものとして踏み潰してしまおうとしていた。
しかし男は動じない。
「基より君と議論するつもりは無い。私はただ君を斃す礎となりに来ただけだ。その為には人間が生き残る事の正当性、君の所業の不当性を示す必要があった。」
男は目を閉じ、同時に体から光を放つ。
「この種を未来へ遺す為ならば、私の犠牲など安いもの……。これを御覧の皆様、どうか後は頼みます。決して人類の希望を絶やさないでください。必ず勝ってください……。」
ネメシスを強烈な閃光が包み込んだ。
それは一人の男が命を捨てた決死の攻撃、人類最初の反撃だった。
「『命電砲』発射‼」
こうして一人の男が光となって消えた。
ただ、ネメシスはこれだけで斃せるような相手ではなかった。
しかし、人類は彼に鼓舞され、少なくない生き残りがネメシスと戦う決意を固めたのだった。
※お知らせ。
今作品の更新は12/1のChapter.2最終話、Episode.71を以て一旦お休みします。
更新再開は2/2を予定しております。
何卒御容赦の程、宜しく御願い致します。




