Episode.58 怒りの日
明るく照らされた遺跡の回廊を先導するビヒトは、百年を超える過去の記憶をその歳月に見合う重厚さを醸し出しつつ語り始めた。
『お前達は旧文明と聴いて何を思い浮かべる? 豊かで恵まれた、高度に発達した社会を築き上げた理想郷か?』
ビヒトの問いにミーナは思い出す。
嘗てリヒトに見せられた、旧文明での人々の営みの様子は衝撃だった。
今の時代からは考えられないほど、理解が追い付かないほどの壮観な光景が広がっていた。
しかし、そこに生きる人々が手放しに幸福だとは思えないところもあった。
リヒトもそんな彼女の感想を否定はしなかった。
ビヒトは改めて、そんな旧文明について語る。
『確かに一見すると現代よりも凄まじく繁栄していた素晴らしい世界に思えるだろう。だが、その礎には想像を絶する程の血塗られた歴史があった……。暴力による略奪や殺し合い、暴政による収奪や弾圧……。その中で余りにも多くの人間を、そしてそれ以外の命を踏み躙ってきた。私に言わせれば旧文明は寧ろ、そんな罪が常に空気の様に纏わり付きいつ襲ってくるかわからない、そんな恐ろしい世界だった……。』
やはりビヒトは兄のリヒトとは違い、旧文明の復活を望んでいないようだ。
彼の言葉は続く。
『あの頃……世界の人口も百年以上前に峠を越え、人類は既に衰退期に入っていた……。即ちそれは、新たに生まれ来る人間よりも死に行く古い人間の方が多い状態になっていたという事……。だが、それでも文明は発達し続けた。人類の手には余る領域に突入する程に……。』
ビヒトは旧文明の発達を「行き過ぎ」と評していた。
それは手に余る、破滅を齎すものであったと。
今、『原子力遺跡』と呼ばれる北の大遺跡に招かれた四人の来客を案内しつつ、ビヒトは過去に起きた滅亡を語る。
『西暦という当時の暦で二二二二年を数えたあの時代、世界人口は約五十億人。ピーク時は人口百億を超えたと言われていたが、その数は百年で倍以上に膨れ上がったという……。そんな嘗ての増加に匹敵する減少速度も思えば仕方の無い事だったかも知れない……。』
旧文明が滅びたこの時代を生きるミーナ達には想像を絶する規模だった。
最大規模の集落である『古の都』の規模も聞いた話では数万人程度だという。
それでも、ミーナ達にとってはとんでもない数だった。
ただ、当時を生きた人間もコミュニティの範囲で把握できる人間関係は精々百人程だと言われてはいた。
それを惟うと、違いはただ情報が著しく遮断されただけの事なのかもしれない。
『しかしそれでも……。』
ビヒトの声に何処か悔恨の念が滲む。
彼とて、旧文明の滅亡を歓迎したわけではないらしい。
『それでも急激な死滅は無いと思われていた。滅び行くなら真綿の錦で首を絞むるが如く緩やかに苦しみを増し、意識を遠のかせる様な、そんな死だと疑いもしなかった……。』
「実際のそれは急激なものだった……と?」
フリヒトの、子孫の問いにビヒトは背中越しに頷いた。
『最大の過ちは時空を越えようとした事。異なる歴史を辿った、人類が救われていた可能性を様々な思想から無造作に求めてしまった事。だがそれが人類に急激な死を齎す存在を、後に壊物となる存在を呼び寄せてしまった……。』
ミーナとシャチは否が応にも思い出す。
ソドムとゴモラが初めて『古の都』に顕れた時に語っていた内容と同じだ。
そして、今ビヒトが言う旧文明の終わりに顕れたという存在、原初の壊物。
「ネメシス……。」
ミーナはビヒトから聞かされたその名を思わず呟いた。
今、歴史の生き字引に近しい彼からその脅威が、ネメシスが何を人類に齎し、どのように文明を滅亡させたのか、その経緯が語られようとしていた。
***
ネメシス、それは身長百メートル以上の皮膚の無い巨人のような姿をしていた。
最初に顕れた場所は大西洋の北部だった。
その瞬間、世界中で大規模な揺れが観測されたという。
何故このような位置に時空の亀裂を作り顕れたのか、当時の学者は「地球上に発生した無数の亀裂による歪み、応力集中がたまたまその場所で生じた。」と推察していた。
「ネメシス……! 私はネメシス……‼」
それが最初に発した声は数時間ほど各国の言語でそう名乗り続けた。
低音から高音まで、様々な声色が混ざり合った響きをしていた。
一頻り名乗り終えると、今度は人間という種が犯してきたあらゆる罪を叫び始めた。
それは正に、怨嗟の嘆きであった。
その存在に、世界は最初困惑するばかりで対応が遅れた。
だがそれを差し引いても、ネメシスの持つ力は絶大かつ抵抗不能のものだった。
その怨嗟の嘆きが象徴する負の想念、怨念、妄念は無作為に振り撒かれ、触れた人間に深刻な影響を与えた。
耐え難い感化を受けた精神から、ある者は自ら命を絶ち、ある者は無差別に害意を向けて暴れ回った。
自身の存在に、世界の在り方に、最早一秒たりとも耐えられないと考えてしまう者が加速度的に破滅へ向かって暴走した。
人間とは醜悪な生き物である。
人間とは罪深き生き物である。
社会とは理不尽な制度である。
社会とは暗澹たる制度である。
――『やはり人類は愚かだ、滅ぶべし。』
それは絶対数で衰退期に入ってなお危機感を覚えず、世の中の変革を躊躇う旧態依然たる世界への絶望であった。
それは文明が依然繁栄を続けているにも拘らず徒に世の中の破壊を推し進めようとする短絡的な世界への絶望であった。
その闇は余りにも急速に世界を覆い尽くしていった。
いとも容易く多くの国家が地球上から消滅していった。
一週間で世界の人口の九割が自殺か暴動で命を落とした。
当然社会はあっという間に麻痺し、更なる絶望から総人口は部屋の隅へ隅へと追いやられるように虱潰しに減らされていった。
極僅かな人間だけがネメシスの毒気に当てられないように閉じ籠ったお陰でどうにか死を回避していた。
優秀な科学者たちがネットワークで繋がり、対策を研究し開発を進めてもいた。
だが、それによって導き出されたネメシスと戦う手段は余りにも非文明的、非人道的、非現実的であった。
実用することは許されない、それこそがネメシスの正しさを証明することに繋がると考えられた。
事此処に至り、誰もが人類の存亡を諦め切っていた。
皮肉にも、ネメシスによって感化された人々が辿った末路、そして抗おうとした人々が見出した手段こそネメシスの命題が真であると明瞭簡潔に証明していた。
これではもう、人類は滅亡して然るべきなのではないか。
元々衰退していたのであって、孰れ訪れる帰結だったのではないか。
それがただ早まっただけではないか。――誰もがそう認めざるを得ないと思っていた。
ただ一人、ある男だけを除いて。
世界で最後にたった一人、人類を諦めていない男が居たのだ。
***
話している内に、ビヒトに連れられた一行はいつもの遺跡でリヒトやビヒトと会話していた殺風景な広間へと足を踏み入れていた。
「ここは……。」
「ちょっと待て、何故今この部屋へ来る必要がある?」
シャチの疑問は当然だ。
普段この部屋で話す相手は既に姿を見せている。
今ここで時間を潰す意味が解らないのは四人とも同じだった。
そんな四人にビヒトは真意を告げる。
『お前達、ここから中央大遺跡、古の都までどうやって帰るつもりだ?』
ビヒトに指摘され、ミーナは初めて『古の都』と『原子力遺跡』の位置関係が全く解らないという事実に気が付いた。
「どうしよう、全然考えてなかった……。」
「いや、一応リヒトから地図は貰っているぞ。」
「でも多分かなり時間が掛かるわよ? 私は行った事無いから想像でしか言えないけれど。」
「装置を作動させたらすぐに戻って『古の都』の地下遺跡の扉に向かわないといけませんよね……。」
戸惑う四人の様子に、ビヒトは振り向いて笑って見せた。
『もっと遥かに速い手段を用意してある。時空間転移を使えばこの場所からどの大遺跡にもすぐに飛べるのだ。』
ビヒトはそう言うと、中央の光る筒に手を翳した。
すると反対側の壁に『古の都』の門が映し出される。
「まさか、このまま壁に向かって歩いて行けば?」
『その通り、映し出された場所へと行ける。それは今映っている正門に限らず、例えば地下遺跡の入口前に飛ぶことも可能だ。』
「成程。だがそれは危ういな……。」
シャチはこの便利な装置に一人懸念を表した。
「確かに装置を作動させてその足で『古の都』の地下遺跡に入れるのは便利だが、一方で壊物に利用されんとも限らん。」
『その通りだ!』
ビヒトの声ではなかった。
ビヒト自身も驚き目を瞠っている。
そして彼を含む五人が辺りを見渡し、声の主を探す。
『道案内御苦労、人間どもよ。』
「あっ‼」
声の在処に気付き、顔を蒼くしたのはエリだった。
彼女には心当たりがあって当然、寧ろ何故今の今まで忘れていたのか、痛恨のミスである。
エリは急いで手持ちの短剣を投げ捨てた。
「エリさん、それって……‼」
次に事態に気が付いたのはフリヒトだった。
彼だけはエリの短剣がある壊物に通用しなかったところを目撃していた。
その敵は短剣を「自分達の骨」だと言っていた。
『そう、もう知っての通り、このエリが携えていた短剣は我等の骨で作られたもの。ならば此方から状況を把握し、場合によってはこのように干渉することも出来るという訳だ。』
それは確かに聞き覚えのある響き、『双極の魔王』の残された一角、ソドムの声だった。
投げ捨てられたエリの短剣は全部で六本、その内の三本に変化は無かったが、残る三本は大きな黒い狼型の壊物へと姿を変えた。
禍々しい巨大な眼が四足の付け根に備わり、首元にもう一つの口が縦に裂けていた。
その内一匹の不自然な口からソドムの声がしている。
「ソドム……‼」
「ここで俺達を殺し、心臓と脳髄を一気に奪うつもりか⁉」
ミーナとシャチは即座に臨戦態勢に入った。
それぞれの武器、妖刀と戦斧を構える。
しかし、狼の壊物に襲ってくる気配は無い。
『フッ。余とてこの大傷を負った状態で生み出した眷属を操ってゴモラを屠った者どもを殺せるとは思っていない。』
『ソドムとやら、では何故その狼型の眷属を展開し、こちらに接触してきた?』
戦意の無い壊物たちの様子に安心したのか、ビヒトは冷静にソドムへ問い掛けた。
『何、ただ余も貴様の話を聴きたくなっただけよ。いや、先程から把握してはいたが、このまま盗み聞きするのも失礼かと思ってな。それに、余の方からも言いたいことがある。』
三匹の狼型の壊物の十二の目がぎょろぎょろと動き、この場の五人を交互に見渡していた。
そしてその縦に裂かれた喉元の口から続く言葉を吐いた。
『余はもう奴を、ネメシスを奪うつもりは無い。余はゴモラが貴様等を襲っている頃、同時にネメシスの脳髄を奪うべく中央大遺跡、即ち古の都に攻撃を仕掛けるつもりだった。』
十二の目が一斉にビヒトに白羽の矢を立てた。
『だが阻まれた。恐らくは貴様の連絡を受けたあの男が余もまた動いていると察知し、先制攻撃を仕掛けてきた。部下の思念を込めたあの兵器、ネメシスをバラバラにした禁断の力、〝命電砲〟を使って……。』
『成程、それで今は傷を癒していると……。快復を待っていては確実にミーナ達に先を越され、心臓と脳髄の両方を破壊されるか、ダーク・リッチに奪われる。』
『そうだ。それならば余としては貴様等に破壊される方がまだ良い。傷が癒えればゴモラのことも再生できる。それで今度こそ二体で貴様等を確実に葬れば、我等が頂点に立つことに変わりは無いからな。』
ソドムの宣言にミーナとシャチは再び身構えた。
折角斃したゴモラも復活するというソドムの言葉に、漸く壊物でありながら二体で行動している理由を彼らは察した。
「一方が殺られても一方が生きていればまた復活できる……貴様等は相互にバックアップの役割を持っているという訳か……!」
シャチは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
『だがそれ以上に、余は聴いておかねばならん。ある程度は遺跡の記録から学習させて貰ったが、当事者の実体験としてあの恐るべき個体の所業を直に聞き、知っておかねばならんのだ。』
「恐るべき個体……!」
エリはソドムの言葉で思い出した。
当初、彼女が暗殺対象に指定されたのは四人、その中でも最も危険視され、優先的に消せと言われた男はこの中にはいない。
強いて言えばビヒトとフリヒトの中間あたりの容姿をした、痩せた青年である。
『呼んだかな?』
その時、ミーナ達にとって聞き覚えのある声が中央の筒から語り掛けて来た。
一瞬辺りが光に包まれ、筒の上にリヒトの姿が浮遊して顕れた。
「リヒト……!」
『兄さん、どうやって……?』
『どうもこうも、ビヒト、君の方から私の都へ接続してきたのだろう? 遺跡の構造は君が作ったもので、私の方からの接触は困難だったが、君の接続経路を追えば逆探知は可能だ。』
涼しい顔のリヒトに、顔を合わせた弟のビヒトは何か言いた気な顔をして兄を見上げていた。
しかしそんな二人に壊物の魔王は不躾に割り込んだ。
『そうか、貴様がリヒト……。ゴモラを斃した二人など目ではない、最も危険な個体……。人類最後の英雄か……!』
ソドムの言葉に、リヒトは少しの不快感を滲ませるように眉を僅かに顰めた。
そう、彼こそはネメシスによる人類の急進的な終焉の最中、決して諦めることが無かった一人の男である。
ミーナにも、顔なじみのシャチにも、親族のフリヒトにも知られることが無かった彼の素顔が今明かされようとしていた。
※お知らせ。
今作品の更新は12/1のChapter.2最終話、Episode.71を以て一旦お休みします。
更新再開は2/2を予定しております。
何卒御容赦の程、宜しく御願い致します。




